2019

うだるような日だった。御堂筋翔はぬるいプールの水をかき分けながらゴーグルの内側で目を細める。もっとも彼以外の人間は彼が水をかき分けているようには到底見えず、溺れているのかそうでないのか一見しただけではわからないのであった。勿論、教師も含めて。浮力は彼の手助けとはならず、むしろその長い手足を四方八方にゆらゆらと海藻の如く揺らめかせるせいで進みたい方向に進路を定める妨げとなっている。
数時間前に聞いた車輪の回転音が懐かしい。水中で、鼻からはいた息で歪んだ世界を傍観しながら御堂筋は思った。
プールの飛び込み台の手前にある庇付きのベンチから教師がメガホンを使ってなにやら叫んでいるが、御堂筋の耳には届いていない。教師から少し左下に視線を移動させた場所に腰を降ろしているnameを、はっきりしない視界の中で捉える。昨日の帰りから具合が悪そうだったため、「明日の朝練は来んでええよ。足手まといは邪魔なだけやからね」と釘を刺したにもかかわらずnameはいつも通りの時間に部室に姿をあらわした。顔色はやや白く、唇の色も心なしか褪せていた。それでも自分の意思でここに来たならばと、御堂筋は普段のように彼女に仕事を任せたのだった。おそらく他の部員たちは彼女の体調の変化について気が付いていない。動きが鈍いことも、問いかけに対する反応がわずかに遅れていることも。眩しくて直視できないぐらいの笑顔に翳りが見えていることも。全ては洞察力の鋭い御堂筋ひとりにしか察知できないほど微々たるものだったのだが。

教室でもnameは一限目の国語の教師が入ってくるその時まで机に顔を伏せていた。きりーつ、と間の抜けた号令と共に顔をあげたnameの頬に貼りついた髪。それを耳にかける彼女の指の白さと細さが、御堂筋の視界の隅で残像のようにいつまでも消えないままなのだった。
一限目が終わるや否や、御堂筋はnameの席へ向かった。

「今日は部活休まなアカンよ」

「えー、なんで?」

「なんでも何もない。わかっとるやろ自分の身体のことぐらい」

アホか、と言った御堂筋の言葉にnameの目が丸く見開かれる。かと思えば眉間に皺を寄せ、泣きそうとも取れる表情で顔を赤くしたname。予想外の反応に御堂筋は意味が分からないといったように目を細める。
季節の変わり目になるとnameはよく体調を崩した。石垣などは季節にそぐわない気温になると「あったかくしろよ」だとか「俺のジャージ着とき」だとか「汗かいたんそのままにしたら風邪ひくで」だとか、ともかくnameを過保護にするものだから、馴れ合いを良しとしない御堂筋の勘に逐一触るのだった。ただマネージャーのnameに休まれると困るのも事実なので、彼の目に余る過保護を看過せざるを得ない。もっともどれだけ石垣がnameを過保護に扱おうとも、御堂筋がさりげなく(私情ではなくあくまでも部の活動に支障を出さないために)手を回そうとも、なによりname自身が気をつけたところで結局熱を出したり鼻水を垂らしたり咳こんだりするのがお決まりなのだった。
なので今の発言もこれまでのことを踏まえての発言だったのだが、どうやらそうではないらしい。微妙な空気を面倒に思った御堂筋はべぇと舌を出して自分の席に着席する。彼と入れ違いにnameの席にやって来た彼女の友人が「大丈夫?」とか「今日のプールお休みせなあかんね」とか声をかけているのがざわめきをすり抜けて御堂筋の耳に届く。予習をしてきた数学のルーズリーフを眺めていると、「二日目やったら辛いのしゃーないね。ほんま嫌やね」とさっきよりも周囲を憚ったヴォリウムだというのにむしろその言葉の方が御堂筋には大きく聞こえたのだった。ふたりは連れ立って教室から出ていく。どこへ行くのかは、考えないことにする。
なんや、そういうことか。聞こえなかったふりをして御堂筋は横書きになった数式に目を落とす。別に知らないわけやない。毎月その時期になるといとこのユキちゃんが浮かべる苦い顔を思いだし、御堂筋は瞬きをした。えーなー翔兄ちゃんは男で。クッションを抱えて横たわった親戚の少女を「デリカシーないで」と窘めるのは毎月恒例と言ってもいいぐらいだ。
けれど、nameのそんな姿を見たのは初めてで、彼女の透き通ってしまったような肌の色に御堂筋は得も言われぬ肌寒さを覚える。肉体のサイクルに則っているだけだと頭では理解しているのに、ふっと崩れてしまいそうな力の入らない挙動につい手を差し伸べたい衝動に駆られてしまうのだった。

ようやく御堂筋はプールを往復し終え水から上がる。焼けるようなプールサイドで二、三度片脚で飛び、耳の中の水を出す。コンクリートに足跡をつけ身体にタオルを巻きつけ人のいない場所に腰を降ろした。ふやけた足の指先をいじっている御堂筋は自分のつけた水の染みが蒸発して消えてゆくのをぼんやりと眺める。陽射しが首筋を灼く。襟足から滴る水滴が御堂筋の肉のない鎖骨のくぼみにうっすらとたまっていた。

「あっつ」

ぱかりと口を開けて天を仰いだ御堂筋を、離れた場所からnameが見ている。彼女の視線には気づかないふりをして御堂筋はクロールをしている生徒のあげる水しぶきを眺めるともなく眺めた。
nameが自分に好意を抱いていることは知っている。ただそれはあくまでも客観的に見て、だ。他の人間に対する態度と自分への態度の些細な違いや、自分にしか見せないほんのわずかな躊躇、もしくは思い切って踏み込んでくるところを第三者の目線で見て分析すれば、少なくとも針は嫌い、無関心ではなく好意を抱いているの方向に大きく触れているといって間違いない。ただ、御堂筋の主観として第一に「自分なぞが異性に恋愛感情を抱かれるはずがない」という考えがあるので、冷静さを欠くことない彼の分析力、洞察力をもってしてもnameから向けられた薄桃色の矢印の存在はいまだ受け入れられずにいた。
他人の気持ちなど考えるだけ無駄だ、と思う。どれだけこちらが慮ったところでなにもわかりやしないのだ。
愛だ恋だ友情だ、そんなものはくだらない。心底。御堂筋は常々考えている。育めないからではなく、本当にそれを必要としていないから。nameが自分の腕を掴むたびに示される親密さにぞわりと肌が波打つので、無意識なのかそうでないのか知らないが、気安く肌に触れるのは極力控えていただきたい。なぜなら肌だけでなく、胸の奥の方、心の中にある静かな場所までもが余波で小さく揺らぐから。勝利のために常に凪いでいなければならない場所に、余計な波風を立てることは避けなければいけない。
くだらん。くだらんことや。口に出すことで御堂筋はその波を沈める。吐きだした言葉に与えられた体温を乗せて体外に排出しないと、そっと触れられただけの熱だというのにやがてそれは蓄積し、彼の身をじりじりと焼くことになると確信しているからだ。
いっそ嫌われてしまうのはどうだろう。滅茶苦茶に傷つけて、そう、例えば犯してしまうとか。今が生理なのなら概算して排卵日にでも押し倒せば、というところまで考えてあまりにも荒唐無稽で馬鹿げた己の思考を打ち切った。アカン、暑さで頭湧いとる。たった数十分日に晒されただけでもうひりついている首筋を御堂筋は手で覆う。嫌われるなんて、できるはずもないのに。

「マネージャーも、いや、馬鹿とハサミは使いよう、や」

「なにが?ハサミ?」

日を遮るように御堂筋の背後に立ったnameが座った彼を覗きこむ。近づいてきていたnameに完全に気づいていなかった御堂筋はひとりごとが口をついたことを大いに反省しつつ、隣に腰を降ろしたnameに向かって歯を見せる。

「nameチャンの水着が見れへんの残念やわぁ」

「……えー」

「冗談やわ」

真に受けるとかキモっ!と唇を剥くと、nameは笑った。「お腹痛いんだから笑わせないで」と体操座りをした膝に頬を乗せて眉を下げるnameに御堂筋はなんと答えればいいのかわからず、かといって適切な返答を考えるのも面倒なので黙ったままだった。この女はさっきボクの頭の中で犯されそうになっとったことなんて知らんのやろな。アスファルトに貼りついた影を手のひらで押さえる。

「能天気やね、キミ」

「そうでもないよ」

御堂筋の鎖骨のくぼみに残った、乾ききらなかった一滴を人差し指で掬ってnameは唇を持ち上げた。プールの中ではじける水しぶきの音は遥か遠く、白い太陽の光の中に御堂筋とnameは浮遊していた。顔の半分が翳ったnameの表情はいつもの底抜けに明るいnameとは違い、油断したら引きずり込まれそうなあやしさを秘めていた。初めて見せる相好に御堂筋は自分がなにか大きな誤算をしているのではないかという思いに駆られる。初めて出会った時から今この瞬間までを巻き戻して辿ろうとするも、ふたりの間に流れた束の間の空白の時間を切り裂くように終了のホイッスルが鳴り響いた。

「じゃーね」

立ち上がって遠ざかるnameの脚の付け根に視線を向けると、振り返ったnameと目があった。太陽の光が絡んだ睫毛が上下し、ふっと緩んだnameの唇の赤さに気圧されて御堂筋は彼女から視線を外した。
体調悪いんとちゃうんか。nameの頼りない足取りとは裏腹に、渦巻く生命の力強さにやや圧倒されていた。喰らってしまえば手に入るのか。
喰らいたいのは自分にはない未知のエナジーか、はたまたname自身か。大いなる命題についてこの先も御堂筋は延々悩み続けることとなる。
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