2019

図書館で一緒に勉強をしていると、nameさんが「赤葦くんの教室行きたい」と言うので鞄に荷物をしまった。この時間ならもう誰もいないだろうし、いたとしても明日多少からかわれるぐらいなのでまあいいか。誰も歩いていない廊下は足音がいつもより大きく響く。

「席、どこ?」

「ここです」

窓際から二列目、前から4番目。「あれ、席替えした?」「はい、昨日」「いいなぁ」唇を尖らせてnameさんは俺の隣の席に腰を降ろした。

「嫌なんですか、今の席」

「嫌ってわけじゃないけど、窓際じゃないから赤葦くんが体育やってるの見えないから、残念」

「あぁ」

「好きなんだよね、こっそり手振るの」

いたずらっぽく笑うnameさんは、三年生の教室の窓から校庭にいる俺に手をよく振ってくれる。そしてそれは俺の知っている「こっそり」から大きく逸脱した程度のものなのだ。体育の授業中、あるいはそれが始まる前。授業前なんて、なおさら。赤葦くーんおーい!と口の脇に両手をあててメガホンみたいにして2階から大声で俺を呼ぶのだ。高確率で彼女と同じクラスの木兎さんまでが一緒になって「おーい赤葦元気かー?」などと両手を振るので、俺はグラウンドにいるクラスメイト達のもらす忍び笑いに囲まれる羽目になる。
あっ教科書忘れちゃった、見せて。赤葦くんの椅子の下にシャープペン落ちちゃった。なんて茶番を楽しそうに演じているnameさんを、俺は机に頬杖をついて眺める。この人と同じクラスだったら、と考えることは何度もあった。嬉しい、をさておきまず騒々しいだろうな、という思いが第一にくる。嫌というほど「赤葦くん」と名前を呼び、授業中に俺のことを振り返って笑いかけたり、変な顔をして笑わせようとしてきたり。そんなnameさんの姿が容易に想像できた。

「それ、楽しいですか」

「冷たいこと言わないでよー」

小芝居がまだ続きそうだったので訊けば、nameさんは唇を尖らせて机に突っ伏した。つやつやとした髪が太陽の光を吸い込んで肩から滑り落ちる。夕暮れが近づいていて、教室は寂しさに静まり返っていた。
がたんと音をたてて立ち上がったnameさん。教壇の前に立つと「絵になるー」と言って右目の前で両手の親指と人差し指で四角を作った。「もうちょっと俯いて」とか「アンニュイな感じで」とか構図に文句をつけ、なにをどう気に入ったのかはわからないけれど「ばっちりです!」と満面の笑みを浮かべて「パシャリ」と口でシャッターを切った。そして教室を遠い目で見たのは、もうすでにこの場所が彼女にとって過去になりつつあるからなのだろう。
どうしようもないことだとわかっていても感傷的になってしまうのは春目前の夕方の、あまい空気のせいだろうか。さっき彼女がしたのと同じポーズをしてnameさんを指でつくったフレームに収める。切り取ることなんてできないのに、この瞬間を永遠にしたいと思う。赤葦くんは欲張り。時々強引な俺にnameさんは言う。眠ってしまいそうな表情で、ひどく満ち足りた声で。欲張りの、なにが悪いんですか。そう言って唇を塞いでしまう俺は、nameさんの瞳にどんなふうに映っているのだろうか。
翻ったスカートから覗く太腿は夕日を受けて蜂蜜みたいな色をしていた。揺れる髪の先も、ふっくらとした頬も、靴下を控えに盛り上げる小さな踝も、見慣れた制服に包まれるのはこれでおしまい。

「やられるのは恥ずかしいかも」

俺の指を降ろしたnameさんは「ダメ」と俺の目を塞ぐ。

「もっと見せてください」

「やーだ」

暗闇の中でnameさんの視線を感じる。あなたばかり見るのはズルい。やわらかな手の平の感触に、さっき見た太腿が鮮明によみがえり欲情する。

「nameさん」

「ずっと、私だけが赤葦くんを見ていたいな」

「それは無理ですね」

「知ってる」

俺はnameさんの手を掴んで「でも」と口を開く。

「俺もそう思ってます」

教室に迫る夕暮れが加速度的に勢いを増す。制服のネクタイを抜き取って彼女の視界を奪ってみるとか、あるいはカーテンの中にふたりだけの王国を築いてみるとか。

「ユニフォームの赤葦くんも好きだけど、制服の赤葦くんはもっと好き」

「なんですか、それ」

「格好いいもん」

「そうなんですか」

「うん」

ちらりと俺を見上げたnameさんは睫毛を震わせるようにして笑うと目を伏せた。否定しないところも好きだよ。と彼女が悪戯っぽく笑う。否定すればいいのかその必要がないのか判りかねるので彼女の言葉を受け入れているだけなのに、と少し理不尽な気持ちになる。あなたがそう思うのなら、それが俺のすべてなのに。

「卒業してもたまに制服着てください」

「コスプレになっちゃう」

「嘘ですよ」

「赤葦くんが卒業してからも制服着てくれるならいいよ」

「嫌ですね。というかほぼスーツですね。大学の入学式ですぐ着ますよ」

「スーツ、絶対似合うよ。見なくてもわかる」

スタイルいい人は良いよねー。とこぼすnameさんの腕を引きキスをした。「突然だね」間近で驚きつつもはにかむ彼女の瞳を覗く。今ここにいる自分を拡大した瞳孔の中に探し、そして己の瞳の中に閉じ込めた彼女を細部まで愛する。
羽ばたいてゆく翼を毟るかわりに、俺はnameさんを腕の中に閉じ込めるのだった。
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