2019

壁内の冬は厳しい。とりわけ今年は初雪が降るのもはやく、北風も一段と冷たかった。窓から見える木々の枝は寒々しく数枚だけの葉を残し、それすら今にも空風にさらわれてしまいそうな心もとなさでその身を震わせていた。
私は長らく使われていないであろう暖炉に薪をくべながら、窓枠に肘をかけて外を眺めているリヴァイに向かって「たそがれてないでちょっとは手伝ってよ」と声をかける。

「降ってきやがった」

「うそでしょ。着いたときは晴れてたじゃない」

窓の外は重たい灰色の雲によって暗く沈んでいた。目を凝らすと確かに白い雪がちらちらと舞っている。これまでに降ったやわらかで手のひらに乗せれば儚く消える淡雪とは明らかに違う、地表を白銀で覆ってやるという確固たる信念を感じさせるはっきりとした雪だった。

「これは積もるな」

今日の晩飯は蒸かした芋と豆のスープだな、と言うのと同じ調子でリヴァイが口にするので私は慌てる。

「待って、明日の午後から幹部会議じゃない。帰れなくなったらどうするの」

「その時はその時だ」

その時はって、と言い掛けた私を見てリヴァイが意地悪気に唇を持ち上げる。なによ、と目を眇めると、「嫌なら今から帰っても構わねぇがな」と首を傾げながら言うので私は口を噤んでしまう。
明日はリヴァイの誕生日なのだった。
私とリヴァイを含め、しばらく連勤が続いた幹部たち数名は明日の午前は非番となっている。よって団長補佐である私はエルヴィンの尻を叩きながら私に回されるべき彼の書類を全て片付けさせ、膨大な量の紙束を仕分けし、指示のメモを至る所に残して日が傾き始めた頃ようやく兵団本部からの脱出が叶ったのだった。
幾つかの案件は途中に終わったけれど、後は野となれ山となれ。休み明けの私がなんとかしてくれるだろうという根拠のない自信を胸に馬に跨り私は裏門から矢のように駆け出した。
夕焼け空の下、空気は肌が切れそうなほど冷え切っていて、私はマフラーに顔を埋める。
約束の時間は既に過ぎていた。きっと怒られる。でも私のことを待っているリヴァイのことを思うと心臓から排出される血液の温度が数度高くなったような気がして、皮膚の内側にほんのりと明かりが灯るようなあたたかさに頬が緩んだ。
本部から馬を走らせること数十分。小さな農村の、さらに外れにある丘の上に一軒の家が建っている。兵団の所有となっているこの建物は壁外調査に置ける兵站拠点の中継地になっており、建物は平均的家屋よりはやや大きく、隣接する倉庫には食料や備蓄の飼葉などが保管されていた。管理をするために寝泊りができるだけの設えはしてあるので、私たちはたまに鍵を拝借してここで人知れずひと晩を共にしているのだった。いわゆる「特権」というやつだ。
馬小屋に馬を繋ぎ、息を切らして扉を開けると私は部屋の掃除をしていたリヴァイに駆け寄り抱き付いた。「遅ぇ」と耳元で響く声はやっぱり不機嫌で、怒らせている立場ながら予想が寸分たがわずあたったことが嬉しくて私は笑いを漏らしてしまう。ち、と舌打ちをひとつしたリヴァイに背後のテーブルに押し倒され、ベッドに行く間もなく愛し合った私たちはそこでようやくまだ暖炉に火が入っていないことに気が付いたのだった。
私は手に持っていた薪をリヴァイに投げる。帰れるわけないじゃない。わかっていて言うリヴァイに私は内心舌を出す。

「積もらないことを祈るしかないわ」

「残念ながら祈りを聞いてくれる神なんざいねぇぞ」

ぱちぱちと燃える火に薪を入れるリヴァイが口にした言葉はひどく抑揚を欠いていた。「そんなの便宜上の神よ。だったら親愛なる国王陛下にでも祈っとく」ソファに腰を降ろした私を見ることもせずにリヴァイは「反吐が出る」と吐き捨て、雑巾でテーブルを念入りに拭きだす。
雪は断続的に降り続き、私が捧げた祈りもむなしく日が沈むころには辺り一面薄く雪が積もっていた。蝋燭に火を灯し、テーブルにささやかな夕食を並べる。サンドウィッチ、肉少々、林檎、そして紅茶、酒。

「すこし早いけど、お誕生日おめでとう」

「ああ」

紅茶にアルコールを入れて飲む私をまるで人非人を見る目で見るリヴァイ。結構おいしいけど、と勧めても彼は頑なに素材のままの紅茶を愛飲する。別々に飲む手間が省けていいと思うんだけどと言うと、心底嫌そうな顔をされるのも毎年恒例だった。
食事の音と暖炉で薪が爆ぜる音しか聞こえてこない。決して豪華ではないけれど、こうして向かい合って食事ができるだけでも私たちにとってはじゅうぶんなことだ。
食事を終え、酔いが回って気持ちよくなった私はソファにリヴァイを引っ張ってゆく。先に彼をソファにあげ、股座に陣取るとやる気のない腕を持ち上げ自分の身体に回した。リヴァイはいつでも清潔な匂いがする。存在が清いからじゃない?と持論を述べたこともあるけれど一笑に付された。
喉元に手を滑らせながら私はふっと目元の力を緩める。なんとなく、昔のことを思いだしたのだ。突如調査兵団に現れた地下街出身のゴロツキ。眼つきに始まり言葉遣いそして態度も決していいとは言えないこの男をどうしてエルヴィンが連れてきたのかはじめのうちは納得できず、些細なことでたびたび私とリヴァイは衝突した。結局のところそれが私達の距離を縮めることになったのだけれど。
彼は過去のことをあまり語らない。だから私はリヴァイのことをよく知らない。私は彼を愛しているけれど、私が愛している彼は真実どういう人間なのか。ハンジほどの探求心も持ち合わせていないし、なによりここ調査兵団に身を置く者として、特定の人間に対して度を越えて深くかかわりすぎるのはあまりよろしくないことであるというのは過去の判例からしても不文律とされているのは明らかで。けれど、それはあくまでも不文律であり、不文律であろうがそうでなかろうが決まりというものは常に破られてしかるべきの運命をたどる。
よって私は、数年来の付き合いにもかかわららずいまいち全貌の見えないこの兵士長にぎりぎり両足を突っ込まない程度の愛情を抱き、愛情以上に身体を重ね、なんとなく居心地のいい相手として何度目かの彼の誕生日を祝うに至っている。
呼吸に合わせてちいさく上下する胸の逞しさに私は安心する。小柄なくせに、身長以上の安心感を与えてくれる。そして手。身長のわりにしっかりした手はじつによく動く。今みたいに私のお腹の余った肉をつまむ以外にも(「ねえ、それ本当にやめて」「なんのことかわからねぇな」)、掃除や巨人の討伐、そして愛撫。
手の平同士を重ね、指と指を絡める。とたんに空気はとろりとあまく親密になる。この手に今すぐどうにかされたい。思うや否や、身体の芯がゆっくりと溶けて滴る。指同士をわざとゆっくり擦り合わせるリヴァイ。その動きは私に行為を暗示させる。
どうにもならないこの世界で、彼の手だけは私を「どうにか」してくれる。導くなんてそんな大それた英雄的いざないではないにせよ、その手を握っていればどこかへ連れて行ってくれそうな気がするのだ。
頬は冷たいけれど、皮膚の内側で血液が熱く巡っている。
つま先が空をかく。やけに明るい月明かりに爪が白く光るのが綺麗だった。ふくらはぎに手をかけたリヴァイが私の脚の甲に口づける。月光を背負い、彼の瞳は闇夜の獣のように美しく澄んでいた。
そういう気高さがリヴァイにはある。気高くて、孤独。だから彼は清い。穢されることがない。もしくは既に汚れきっていて、もうこれ以上汚れることがないのかもしれない。ある意味でそれは無欠だ。そして私は彼の瑕となりえる存在になりたくなかった。
なんて考えるのはおこがましいだろうか。ねぇ、リヴァイ。
下着もつけずにシャツだけを羽織って私たちは一枚の毛布に包まれている。案の定雪は止む気配もなくどんどん深さを増していた。音という音が全て死に絶えていた。厳かな深い死の中で私とリヴァイは身を寄せ合う。

「これ、朝になって日が出たら溶けるのかしら」

「さぁな」

「……絶対無理だよね。ふたり揃って会議すっぽかすとか有り得ない」

ため息をつくと顎を掴まれ唇を塞がれた。「人の誕生日にクソでかい溜息ついてんじゃねぇ」掠れているのにその声は艶やかで、私は目を閉じて受け入れる。横目で時計を見れば針は日付を跨いでいた。「今年もあなたの誕生日を祝えて嬉しい」短く刈り込まれた襟足から無造作な髪に手を差し入れる。
来年も、と口にしたことはこれまでに一度もないし、これからもないだろう。あなたが今私の目の前にいるということが全て。過去も未来もいらない。全身で浴びたあなたの体温が肌から消えるわずかな間、ふたりの記憶が私の中にとどまっていればそれでいい。
それ以上を望むのは毒になる。私の目から光を奪う毒となる。

「name、」

「なあに」

「……いや、いい」

「あ、そ。でも、言いたいことは動く口があるうちに言っといたほうがいいと思うの」

陰影を深くしたリヴァイの唇に触れる。そこは乾いていて、なんでもないふとした瞬間に裂けて血が滲んでしまいそうな危うさを秘めていた。
キスは、するたびに唇が乾く。私はあなたの唇ひとつ潤してあげられない。私はあなたの唇に潤んでばかりだというのに。

「そうだな」

「ついでに言うとね、私あなたのこと好きじゃなかったの。なんでこんなことになっちゃったんだろう。あの時の私に今の私たちの関係を教えたらどんな顔するかしら」

「興味ねぇな」

ふいっと窓の方を向くリヴァイ。身を寄せると当然のように抱き締められた。あまりにも自然で、いっそ不自然なほどだった。「口が動こう動かまいが言いたいことなんざ特にない」睫毛の影が頬に落ちている。目が伏せられると影は黒さを増した。

「そんなもんに縛られるような仲じゃねえだろう、俺たちは」

リヴァイの乾いた唇から発せられた言葉は私たちの間にあった静寂を揺蕩い、四方から手を伸ばす雪の気配に包まれてゆっくりとソファの布目に染みこんでいった。ふ、と息を吐いたリヴァイの背後にまわり、私は彼の目を両手でふさぐ。「そうね」と耳元で囁けば、彼は小さく鼻を鳴らし私の手を取る。されるがまま、私はリヴァイに手を取られベッドへ向かう。
長らく使われていないベッドは硬く冷たかった。私たちは肌を粟立てながらシーツに滑り込み、存分にお互いをあたため合う。世界から見捨てられた遺児のようにくっつきあって、飽きることなく何度も肌と唇を合わせた。
リヴァイの言う通り言葉は特に必要ではなかった。言葉に縁どられることなく、縛られることなくただ溶けてゆく。ひとつになる。
指先で触れられた個所に熱が灯り、それはまるで祈りを捧げるために点々と輝く蝋燭のようだった。垂れ落ちる蝋の熱さに私は悶える。逃れることなどできるはずもない。私は熱の痛みを甘んじて受ける。溶けてゆく思考。流れ出す想い。重なり合う幻想と現実。
全てが終わり、私の肌にはリヴァイの歯形がくっきりと残されていた。
痛みは甘い。肌の温もりよりも、ずっと長く私に留まる。
まどろみながら私たちは窓の外を眺めた。白銀の世界は私達をやさしく閉じ込める。

「そういえば、今年もプレゼントは無いの」

目をこすりながら言う。少し良い紅茶でも買って持ってこようかと思ったけれど、市場に買い出しに行く暇もなかったのだ。

「ハナから用意する気もねぇだろうが」

「そんなことないよ」

眠りの泥に半分顔を突っ込んでいる私をリヴァイがまじまじと見ている。まぁ結果的に何もないんだから……あぁ、思考が停止しそう。屋根に積もった雪のように重たい目蓋が視界を狭めてゆく。眠りに落ちるその瞬間、私はリヴァイの告白を聞いた気がした。告白、あるいは独白を。

「お前がここにいるならそれでいい」

現実だったのだろうか。それとも私の願望が夢と現の狭間で幻聴をもたらしたのだろうか。今となっては知る術もない。新雪みたいにやわらかな眠りに気怠い身を投じ、私は安堵の眠りについたのだった。
翌朝目の当たりにした雪景色に私たちは無言で顔を見合わせることになるのだけれど、それは今の私たちには全くといっていいほど関係のない話。
- ナノ -