2019

馬の背に腰掛けたnameは所在なく腰から下げた刀を出し入れしてカチャカチャと音を立てる。
街道沿い、馬の手綱をとっているのは石田三成である。近江佐和山19万石を拝領され書類仕事に忙殺されている三成を無理矢理外に誘い出し、しかし自らは城主の馬上で呑気に空を見上げているname。馬の速度はゆっくりと、一定に保たれたまま道をゆく。
辺りの田は既に稲刈りも終わり、稲架がそこかしこに作られている。穂先の乱れたススキの群れが晩秋を近江の地に告げていた。

「ねー、明日大阪行ってきてもいい?」

「許可しない」

「秀吉さまと半兵衛さまに会いたいよ」

「それは私も同様だ」

フン、と吐いた鼻息がnameの耳元で響く。秀吉も半兵衛も大阪で忙しくしている。会いに行ったところで拝謁かなうかどうかもわからない。とはいえ秀吉と半兵衛のことなので、多忙を割いてでもnameに顔を見せはするだろう。それが分かっているのでnameの大阪に行きたいという言葉も形だけのものである。
三成の馬は彼の髪と似た毛色をしていた。日の光を受けて鮮やかに輝く白銀。秀吉から直々に賜った駿馬であるが、今この場においては早歩きの牛並みの速度で蹄を鳴らしていた。
所領の検地は滞りなく終わり、稲刈りの済んだ農村は平和な静けさに包まれていた。
曲がったことの嫌いな性分の三成は裁きも至って公平で、道理にかなった裁量を下すのでこう見えても彼は領民には慕われている。その風貌ゆえ周りを囲まれる類の殿様ではないが、きちんと治められた城下は賑やかく活気に満ちており、その風聞は大阪の地にも届いていた。
無論、彼にしてみればここは自分の地ではなく、秀吉から預かっている地との認識しかなく、正しい治世と国の発展など当然の責務であった。
城持ちとなった三成を昔から隣で見ているnameはといえば、相変わらず空に浮いた雲のようにふわふわとしており、三成とともに近江佐和山にやってきても長浜にいた頃のように田畑で子どもたちと遊んだり、寺の供え物を拝借したり、城の炊事場で飯炊き女達と色恋話に興じたりと気ままな日々を送っていた。
与えられた仕事はこなしているので三成としても何も言うことはなく、否、ないわけでもないが「豊臣を担うものとしてもっと自覚を持て」と彼女に口を酸っぱくして言ってきたのは三成ひとりではないのでもはやそのへんに関しては大方諦めているのだった 。
竹中半兵衛という男、本意あらざるも三成とnameの豊臣での育ての親、も彼女に「女としての自覚」そして「将としての自覚」を懇々と説いてきたのだが、彼の努力が実ったかどうかは今の彼女を見れば歴然である。

「はぁ、お腹減ってきた」

「何も持ってきておらん」

「城下で甘いもの買って」

「帰るまで我慢しろ」

「無理だよー」

nameが言うのと同時に腹の虫がぐぅと鳴ったのが三成の耳にも届き、三成は心の中で半兵衛を偲んだ。同時期に豊臣に入り同じように半兵衛に教育を施されてきたというのにこのザマはなんだ。それでも半兵衛に可愛がられているのは三成同様nameの頭の出来、は彼より数段劣るものの、刀を握る者としての嗅覚に優れていたため。平平凡凡の者がこの豊臣において台頭できるはずもない。
極めてのびのびと育ったnameはのびのびと刀を振るい、女ながらも三成とともに大いにその力を豊臣のために捧げていた。
先の雨で水路が一箇所崩れかけていた事以外は特に変わりもなく、領内にはただ穏やかな秋の景色があるのみだった。たわわになった柿がその枝を重たそうにしているのを物欲しそうに見るnameを乗せ、馬はようやく城下へと戻った。
往来は賑々しく、東西の行商が行き交うため通りには様々な品物が並んでいる。nameは甘いものを幾つか買い、ついでに城に詰めている左近と吉継の分という名目で饅頭をこれでもかと買い込み上機嫌で馬に上がった。

「さあお城に戻ろう!」

「調子のいい奴め」

三成とnameが城に戻ると奥から左近がぴょんぴょんと跳ねてきたのでnameは「吉継にも持ってっといて」と饅頭を包みごと彼に渡し、早々に自室に戻ってゆく三成の背中を追いかけた。
三成の部屋は物がほとんど無い代わりに山のような書状が積み上がっている。棚には適当に本が突っ込まれ、机の上には墨が乾く間もない硯と筆、そして古びた算盤がひとつ。
算盤を弾く三成の指先は刀を握るそれとはまた違った光を放っている。nameは彼の脇から三成が算盤を鳴らすのを見るのが好きだった。指先が動くたびに三成の前髪の先がわずかに揺れ、よどみない一連の調べの最後にひときわ大きく軽快な音が鳴ったかと思えば地面から聞こえる蚯蚓の声の如き音が部屋の沈黙を真横に断つ。実に小気味いい。わー凄い!幼い頃から変わらない賛辞の声をあげるnameに、鼻を小さく鳴らす三成の姿もまた変わらなかった。
めまぐるしく変容する世の中で、ふたりを包むやわらかな空気だけはそのままなのだった。
北東に建つ長浜の城を見て、束の間懐かしむ目をしたnameは視線を大阪のある西に向ける。両腕に紙束を抱えた三成は黙ってそんなnameの横顔を眺めていた。
望郷などくだらん。三成は思う。しかし辿った過去が今に繋がり、未来への道となるということは嫌というほど思い知った。

「あ、半分あげる」

「……」

振り返ったnameの口元にあんこがついているのに気が付き三成は半ば呆れた面持ちになるも、彼にしては珍しく彼女の申し出を無下にしなかった。両手がふさがっている三成の口に半分にした饅頭を押し付けると、彼は小さく口を開けてそれを食んだ。

「もういい」

顔を背けると、それでもnameは満足気に笑った。

「頭使うなら糖分は大事だよ」

あと睡眠もね。高欄にしがみつくような恰好でnameは歌うように付け加えた。
三成くん、規則正しい生活を送るんだよ。身体にはくれぐれも気を付けなければいけない。いいね。大阪を離れる際、半兵衛は重ねて三成に諭した。自分としては無理などしていないと三成は思うのだが、周りからしてみれば明らかな過重労働である。それに、半兵衛だからこその言葉だったのだろう。nameはといえば、そーそー!身体は大事だよ!と半兵衛の隣に座ってしたり顔をしていた。
当のnameはよく食べよく眠るので、いつだってすこぶる健康優良児なのだった。半兵衛はnameにも三成の健康面を気遣うようにと何度も言い含め、nameはそれに従い秀吉と半兵衛の目の届かぬこの近江の地でなにかと不規則不健康になりがちな三成の世話をしているのだった。
しかし結局は大谷吉継が左近を含めた佐和山の城の面々の大目付として宰領しているのだが、その本人も健康とは言い難いのが難点だった。
まあ、そのようにして佐和山の城に詰める者達は日々滞りなくそれぞれの職務に励み、よく働き、あるいはよく遊びよく食べ乱世を織り成す糸の一本となっていた。
頭痛がしそうなほど甘い。三成は眉間に皺を寄せたが、nameの言う通り糖分は頭を働かすのに必要不可欠であるので致し方ない。
自分の人生において必要不可欠なものなど秀吉様をはじめとする豊家の皆々のみだと思っていたが、左腕として職務を全うするためにはこれまで不要と切り捨ててきたものが案外必要であるという事をこの頃三成は痛感していたのであった。

「私も仕事しないとな」

「ならばさっさと部屋に戻れ。怠慢は許さん」

文机に向かい、こめかみに指を当てている三成の隣にnameは腰を下ろす。

「頭、痛いの?」

「饅頭が甘すぎただけだ」

「……甘さ控えめだったと思うけど」

ひと口食べただけだったのに信じられない、と大袈裟に驚くnameの甘党ぶりに三成は嘆息し、山になった書状を手に取り開く。
三成の背に自分の背を預け、nameはぼんやりと外を見ている。読んだ書状を分類していく三成は、時々背中のnameを鬱陶し気に居住まいを正すが、無理矢理部屋に返すような真似はしなかった。
寒々とした晩秋には、こやつの少し高い体温も悪くない。などという考えを空咳で吹き飛ばし、筆先に墨をたっぷりと含ませた。
文字というものは焦れったい。頭の中に浮かぶ文言や処理した数字の量の膨大さは、彼の素早い動きをもってしても思う速度で書き付けられず、自然筆跡は乱れそれが更に三成を苛つかせる。それでも手を動かさねば入道雲のごとく湧き上がる事々が頭蓋より氾濫せしめますます収集がつかなくなるため、文机に向かう三成の形相は時折戦場のそれよりも鬼気迫っているのだった。
筆を走らせる作業に没入していた三成は、ふとnameが妙に静かなことに気が付く。振り返らず意識を背中に集中させると、触れている部分がさっきよりもあたたかい。そして、聞こえてくるのは規則正しい寝息。

「腹が膨れたら眠るとは……童と何も変わらんではないか」

肩を落としたい気持ちにかられるがそのような暇はない。三成は再び筆を持ち直し、乱れた筆先を整えた。
紙の山は半分ほどに減り、動かし続けた右腕がささやかな疲労を訴え始めた頃ようやく三成の背でnameがもぞりと身動ぎをした。起きたか、と固まりかけた首を回して背後を見るもnameの目は閉じたままで、夢でも見ているのか長い睫毛の先がかすかに震えていた。
日が陰って部屋の中は少し肌寒い。なにか掛けてやろうにも動けばnameは目を覚ますだろう。しかし風邪をひかれては困る。どうしたものかと三成は思案し、けれど考える時間も勿体ないとの結論に瞬時に辿り着き「おい」と背後に声をかける。当然ながらnameは起きない。もう一度繰り返し、背中を揺らすと体勢を崩したnameが身体を反転させ、寝ぼけたまま三成の腰に腕を回した。

「さむい……」

「だから起こしているのだ。上になにか羽織れ」

「三成あったかい」

「……っ、」

ぬくもりを求めて彷徨っていたnameの手が三成の懐からするりと入り込む。突然じかに触れられ、しかもその手は恐ろしく冷たかった。息を呑んだ三成は眉間に皺を寄せ立ち上がる。nameの身体が横倒しになったがお構いなしである。奥から自分の羽織を掴んで持ってくると未だ寝ぼけ眼で畳の上に転がっているnameに放った。

「着ていろ」

「えー、やだ」

「拒否は許さない」

「三成があっためてくれなきゃヤダ」

「断る」

「拒否は許しませーん」

きゃっきゃと笑っているnameの鼻っ面を墨で汚してやりたい衝動をなんとか堪え、三成は彼女の戯れを黙殺した。
nameに背を向けるが、先ほど触れられた場所が発熱したように熱い。整然と並び頭から指先に向かっていた文字と数字はその熱によってドロリと溶け、隊列を乱していた。
そして、白蛇のように三成の首筋を撫でたnameの指は彼の手元を狂わせ、床板に転々と黒い染みを作った。

「その手を退けろ。今すぐにだ」

「あーあったかい」

三成の言葉とは逆に、nameは両手で彼の首を包む。「しあわせ」とうっとり声をあげるnameに三成は口を噤んだ。
縁側から差し込む光は文机のあるこの場所にまでは届いていない。切り取られた冷たい静謐に、ふたりの呼吸が染みこんでゆく。
三成は筆を硯に置くと、その手で算盤を持ちnameの手の甲をしたたかに叩くか、それとも何も持たずに彼女の手に自分の手を重ねるか迷う。選択を誤ればこれから数刻の過ごし方が大きく変わることは必定である。

「あ、ちょっとだけ手があったかくなったよ」

そう言ったnameは指先で三成の耳に触れた。「ね?」と囁いたnameの口が弧を描いていることは見ずともわかる。三成は素早く算盤を手に取ると首元に残されていたnameの左手を叩く。玉同士がぶつかる賑やかな音と共にnameが声を上げ手を離した。「痛いよ!」と非難の目を向けるnameを三成はそのまま押し倒した。

「自らが招いた痛みだ。甘んじて受けろ」

低い声で言うと、nameの左手を取り赤くなった手の甲に歯を立てた。さっきまでの冷たさは嘘のように消えていて、眠りから覚めたばかりの身体のようにぬくい肌だった。

「いいの?お仕事は」

けろりと言ってのけるnameに三成は表情を険しくする。貴様が呑気に寝ている間に私がどれだけ、と言いたいのを飲み込み、その代わりに「貴様の怠惰を後で書状にしたため半兵衛様に送って差し上げる。覚悟しておけ」と勝ったような顔をするのでnameは「ぜったい駄目!」と上半身を起こそうとするも三成はそれを許さなかった。

「人の職務の邪魔をし、挙句私を誑かしておきながら何を言っている」

「誑かすなんて人聞きが悪い」

「違うのか?」

nameの顎に三成が手をかけると、nameはうーんと思案顔をして「違わない」と笑った。
フン、と笑みのようなものを僅かに上げた口角に乗せ、三成はnameに覆いかぶさった。
それより西におおよそ30里ほどの大阪城では、秀吉と半兵衛が懐かしい眼差しで佐和山の方角を眺めていた。

「nameは三成くんを困らせていないだろうか」

「案ずることはない。それなりにやっているだろう」

“それなりに”“やっている”ふたりは、西から吹く秀吉と半兵衛の思いを乗せた風に肌を撫でられながら、昼下がりの部屋で唇を合わせるのだった。
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