2019

nameの部屋はいつ行っても暗かった。
本丸の一番奥の北側の部屋。小さな丸いあかり取りの窓などただのお飾りだった。しんと静かで、湿ったにおいのする薄暗い部屋は俺に蔵の中を思い起こさせる。
日なたの庭と違って小鳥がいないのは幸いだった。たとえ小鳥といえども己の姿を見るだけで逃げられるのは、流石に良い気がしないのだ。馬も、そうだ。それなのに、俺の主は面白がって俺をしばしば馬当番に任命した。そして馬の様子や、どのように世話したかを事細かに俺に語らせた。いつぞや、そんなに気になるのなら自分で見に来ればいいと言ったことがあった。しかし彼女は密やかに笑って、「陽の光は苦手なの」と言うのみだったのだ。
自由な身を持ちながら陽の光を拒むnameを羨ましく思った。そのなよやかな白い手を少し伸ばせば、小鳥だって蝶だって、いくらでも寄ってきそうではないか。刀の本分を奪われ、蔵にしまい込まれ、挙句外に出たところで病人の枕元に据えられるだけ。そうやって置物のように存在してきた俺に肉体のみならず、蔵の外で振るう場を与えたのは今代の主であるnameだった。

「たまには散歩にでも行かないか」

主の手を取ってみるも、白い手はするりと俺の手中から抜け落ちる。

「無理よ」

やはりnameはそう言うのみだった。

「外に、出たいとは思わないのか」

「籠の鳥は、籠の中が一番安全だと知っているの」

「……」

「それに、私にはここから見える景色だけで十分」

nameは視線を窓の外へ向ける。湿った苔の深い緑と、わかい葉の揺れる青竹色。そこに時折漏れる筋となった光の白。俺にはそれが、十分には程遠いもののように思えるのだが。彼女の澄んだ大きな瞳は、もっと豊かな色彩を映すべきである、と。

「あんたがいいなら、それでいい。俺に口を挟む理由は、無い」

「ありがとうね、大典太」

nameがそっと俺の手を握る。握ったと形容するには、あまりにも弱い力だった。
nameは俺を恐れない。俺の逸話を知ってか知らずか、はじめからそうだった。
こんなにも薄い肩で、こんなにも細い腰で、こんなにも儚い首で。俺はnameに触れられるたびにドキリと肩を揺らし、時にはわずかに後ずさりすらした。俺が傍にいることでnameが不帰の人となることを危惧していたのだ。物憂げな彼女のひっそりと吐く溜息は、細く高く上がる野辺の煙にさえ思えてしまう。しかし俺の心配とは裏腹に、nameは俺を近侍に据え、積極的に手元に置きたがった。蔵仲間。俺とnameはソハヤノツルキにそう呼ばれていた。

「大典太」

nameが俺を見上げる。彼女の視線はまるで、俺が外で見てきたもの全てが瞳の中にあって、それを我が目で見んと奥の奥まで見通そうとしているようだった。nameの抱く外界への秘められし憧憬に、俺は気が付かないふりをする。
俺がもっと言葉巧みであったらば、nameにこんな思いをさせなかっただろうか。それは、思い上がりだろうか。見るよりも鮮やかに、聞くよりも緻密に、感じるよりも生々しく、外の世界を語ってやることができたらば。いや、百聞は一見に如かず。結局それが全てなのだ。

「お前はここで朽ちてゆくのか」

朽ちてゆく、というのが人間に対して適当な表現なのかはわからないが、しかし、nameには合っているような気がした。ひっそりと息絶え、その身はゆっくりと苔と同化する。今にもnameがもろもろと輪郭を失ってゆく気がして、俺はnameの両肩を掴んだ。厚みのない肩だった。

「大きな手」

「あんたの手が小さいだけだ」

「そんなこと、考えたこともなかったわ」

ひらひらと手をかざすnameの桜色の唇に指先で触れた。なぁに?口の両端をきゅっと持ち上げてnameは笑んだ。

「何故あんたは俺の力に干渉されない」

病に侵されているわけでもないし、まして妖でもない。並みの人間であらば何かしらの障りがあっても不思議ではないはずだ。

「何故かしら」

nameは俺の両手を肩から降ろしながら言う。

「私には、わからないことだらけ。これだけの時間を生きてきたあなただってそうでしょう」

「蔵の中にいたんだ。知るも何もない」

「そう言われればそうね」

nameは眉を下げて言う。

「いいじゃない、ここでは自由なんだから」

なんだってできるわ。脚を崩して俺にもたれ掛かったnameは小さく伸びをした。

「……そうだな」

見たこともない景色を、nameと共に見てみたいと思った。広い世界を、黄金色に染まる稲穂の波や、濃紺の夜を越えて迎える朱鷺色の朝、驟雨にけぶった大海、そして、それを見るnameの横顔を、隣で眺めていたい、と。
つるんとした髪に指を通し、あるのかないのかも定かではないnameの身体の重みを感じながら、俺はとほうもない哀しみに胸がふさがる。干渉されない代わりに干渉することも叶わない。それはどこまでもやさしく残酷な拒絶に他ならないのだ。

「ねえ、なにか話して」

「先回の遠征の話がいいか、それとも昔話がいいか」

「どっちも」

滔々と話しだす俺に背を預け、nameはまぶたをそっと下ろすのだった。

(蔵出し、加筆修正)
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