2019

徐々に明確になる視界の向こうに立っていたのはひとりの女で、ああ、この方が俺の今代の主なのかとそれだけを思った。

「お腹減ってない?」

「あ、いえ、はぁ、はい」

与えられた肉体の感触を確かめている俺に主が放った第一声はそれで、間の抜けた返事をしてしまったことを少々恥じつつ肯けば、彼女はにっこりと笑って「おにぎり、作ってあげる」と言うが早いが部屋から出ていった。歩くということを意識せずとも自ずと動く足は我が主の背を追う。

「ここ、広いから迷子にならないようにね」

半歩後ろを歩く俺を振り返った主は「私の名前はnameだよ。好きに呼んでくれていいから」と言うけれど、好きに呼んでくれていいと言われても御名を呼ぶなど馴れ馴れしすぎるし無礼極まりないような気がしたので、俺は「主、と呼ばせていただきます」と頭を下げた。
ちょっと待っててねと言われ椅子に腰かけ待っていると、しばらくして再び姿を現した主にお結びをふたつ差し出された。「はい、どうぞ」と言われるがまま俺はそれをひと口かじる。

「これは……」

「美味しいでしょ」

「ええ、とても」

それは本当に美味しく、もはや感動を覚えるほどで、食べることを忘れて手に持ったお結びをしげしげと眺めてしまう。向かい側に座った主はそんな俺の様子に満足そうな表情を浮かべていた。「おにぎりは、やっぱり塩がいちばん美味しいね」と言った彼女に「はい」と肯くけれど、塩以外のお結び、というかこれ以外の食べ物を口にしたことがないのでよくわからない。

「ここにはいっぱい美味しいものあるよ。これから沢山、一緒に食べよう。食べると元気が出るからね」

伸ばした右腕の肘を曲げて見せると、主は「元気があれば何でもできる、だよ」と笑って俺の方に手を伸ばす。どうするのだろうと瞬きをすると、「おべんとついてる」と笑った主が俺の口元についていたらしい米粒をつまんでぺろりと食べてしまった。頬が熱くなり、俺は俯く。彼女が触れた場所で、点となった体温がいつまでも燻って煙を上げていた。
主は食事当番の者と共に毎日台所に立って食事を作っている。歌仙や燭台切の間で包丁を握る主はいつも楽しそうで、そして彼らの作る食事は美味しかった。
馴染のある顔との再会は、長い間己の胸の内にいだいていたわだかまりとの対峙でもあった。宗三左文字、薬研藤四郎。やがて俺は彼らと本能寺へ出陣することとなる。
自らの手で刀を握り、主のために振るえるというのはなんと幸せなことか。寝食を共にし、側仕えすることが能うのも、主によって与えられたこの肉体あってこそ。ながらく聞くことのなかった切っ先が空を切る痛快な音を耳にした際、この身が朽ちるまで俺は身命を賭し今代の主にお仕えするのだと、改めて心に誓ったのだった。

「長谷部、今度出陣をおねがいしたいんだけど、行けそう?」

俺の部屋にやって来た主は初陣を告げる。

「主の命であらばどこへでも」

「頼もしいよ。頼りにしてる。薬研と宗三も一緒だからたぶん大丈夫だと思うけど、初陣だから無理は禁物だよ。危ないと思ったら引くこと」

「引くなど、」

言い掛けた俺の手を主がとる。今までに見たことない険しい顔をしていた。

「死ななきゃ安い、なんて思わないで。怪我せずにちゃんと帰ってきてね」

約束して。と小指を差し出す主。人間が約束事をする際に小指を絡めるのは知っている。想いの強さを表すように力の込められた小指はピンと立ち、その先で小さな爪がつやつやとしていた。なんでもないように小指を出せばいいだけなのにそれができず躊躇していると、主は俺の手を取り無理矢理指同士を絡ませた。指切りげんまん、と呟く主の声が切実で、指を出すのを躊躇ったことへの後悔で胸の奥がかすかに痛んだ。

身体が熱いのは負った怪我のせいなのか体調がすぐれないからなのか、それともその両方か。
わき腹に受けた刀傷を隠したまま部屋に戻ってしまったのは昨日のこと。体勢を崩した前田を咄嗟に庇った時に、背後から忍んできた敵方の短刀に気が付かず斬りつけられたのだった。
幸いにも怪我は深くなく、他の面々の手入れを優先しているうちに夕餉の時刻となり、我慢できる程度の痛みだったがゆえにそのままにしたらこの体たらく。不覚、と思えど今更手入れを申し出るにも機を逃しているので言い出しづらい。
帰城した第一部隊を迎えた主は、いのいちばんに俺の元へ駆け寄ってきてくださった。「大丈夫だった?怪我はない?」俺の頭からつま先まで忙しなく視線を走らせる主。
出陣前、指切りをした時の彼女を思い出すと、心痛をかけるわけにはいかないと負傷したことをどうしても口にすることができなかった。
日常生活を送るのに不自由をこうむるほどではなかったので、俺は布団から起き上がり寝間着から普段着に着替える。服を脱ぎ着するたびにずきずきとわき腹が痛んで顔を顰める。血は止まっているものの傷口はじゅくじゅくとしていてあまり芳しい回復を見せていない。喉が渇いていたので朝食の前に台所へ向かうことにした。
台所では加州と小夜と並んで主が朝食の準備をしている。

「おはようございます」

「あ、おはよう」

冷蔵庫の扉に手をかけると痛みが走り、一瞬手が止まる。主に気が付かれていないといいが。盗み見ようと思ったが、視線がかち合っても勘繰られるだけだと思い直して扉を開け、ぺこぺことした水の容器を取り出す。部屋か、その辺の縁側にでも座って飲むか。「すぐ手伝いに戻りますので」そう声をかけて台所を後にする俺の背中には、明らかに主の強い視線が注がれている。大丈夫、気のせいだ。自分に言い聞かせ、歩きながら水の容器のふたをひねった。

「長谷部!」

力をこめた右腕を、背後から早足でやって来た主につかまれた。

「どうされましたか」

「ねぇ、私に何か隠してない?」

「主に隠し事など、とんでもない」

にこやかに笑って俺は言う。主の悲しむ顔を、そして失望する顔を見たくはなかった。

「じゃあここ、どうしたの」

のばされた手が負傷した場所に触れる。ああ、やはり、ばれていたのか。あからさまに主の表情が曇ったので俺はいたたまれなくなり深々と頭を下げる。

「申し訳ありませんでした。昨日の出陣で負傷したものです。ですがこれぐらい何ともありません。放っておけばそのうち治ります」

ただ主に心配をかけまいとする一心だったのだが、目の前で顔を青くし言葉を失っている主の姿に俺はそれが大きな思い違いだったことを知る。主は俺の手を取ると廊下を走りだした。

「主、廊下を走っては転んでしまいますよ」

急いでいるのなら俺があなたを抱えて走ったほうが速いです、とは言えず、俺は手を引かれるまま主の後をついてゆく。彼女からしたら一生懸命走っているらしいのに、後ろを行く俺には早足程度。なにをそんなに急ぐのかと思っているうちに手入れ部屋へ連れてゆかれた。
「座って」と急かされ俺は畳に腰を降ろす。すると主は俺の上着を脱がせるとシャツをまくり上げ顕わにした傷口に息を飲む。

「ちょっとした刀傷です。心配には及びません」

「なんですぐに言わなかったの?!」

悲鳴じみた声に俺は申し開きのしようもなく、唇を噛んだ。主は必死の形相で箪笥の引き出しを開けるとなにやら文字の書きつけてある紙札を数枚取り出し、振り返りざまに手にしていた小刀で親指の腹を切りつけた。畳に飛ぶ血の飛沫に俺は目を見開く。
「な、にを?!」刀剣男士の手入れとは毎度このようにされるものなのか?訳が分からないでいる俺のわき腹を彼女の親指がなぞる。ぬるりとなまあたたかい感触。痛みの裏側から覗いている得体のしれない感情を見た気がして俺はたじろいだ。
「痛いよね、でも我慢して」ちらりとだけ俺を見た主に、そうではありませんと首を振るも彼女はもう俺を見ていなかった。これまで見たこともない形相で自らの血糊の上に置いた札に両手をかけている。なんとかなりそうだと思っていた痛みだったはずなのに、突然内側からえぐり取られるような激痛に変わり思わず呻き声が漏れた。
髪の生え際に汗がにじむ。痛みのあまり視界が白くなり意識が遠のく。その向こうに広がる暗闇で、赤、青、緑の三色が鮮やかに明滅しているのが見えた。まるで俺を誘っているように見えて、無意識のうちに俺は立ち上がろうとしているが、実際には過ぎる痛みに膝がほんの少し浮く程度。奥歯を噛みながら両手を膝の上で硬く握っていると主の右手が俺の拳を包む。

「大丈夫だよ。大丈夫。長谷部は私がどこにも行かせないから。長谷部のいる場所はここだよ」

手放しかけていた意識を主が手繰り寄せる。縋るように彼女の手を取る俺に、主は何度も大丈夫だからと繰り返した。背中を丸め、食いしばった歯の隙間から呼吸をしているうち徐々に痛みが引いてゆく。視界の隅でわき腹の札が真っ赤な血に染まっているのが見えた。
俺の軽率な行いが、主の、御身体に、傷をつけてしまった。
目の前に赤い幕が降り、ぷつりと意識の糸が切れる音を聞く。

浮いては沈むを繰り返す俺は、あたたかい水の中にひとり。心地よさに四肢を投げ出す。細かな泡が、水面に向かって昇ってゆく。その向こうには光がひとつあった。透明な水に幾筋もの光を投げ込み、揺蕩う俺に向かって手を差し伸べている。光に焦がれて俺は手を伸ばす。

「長谷部!」

「……っ、ある、じ?」

伸ばした俺の手は、ちいさくやわらかな主の手によって握られていた。「俺は、いったい」と言うや否や、主の目から大粒の涙がこぼれだす。うわああん、と俺の太腿のあたりに突っ伏して泣く主の、不規則に上下する背中に俺はおずおずと触れる。しばらく撫でていると、主は顔をあげ「私のこと、ちゃんとわかる?」と赤い鼻をして訊くので俺はなにをおっしゃるのだろうかと驚きつつ「ええ、貴方は俺の今代の主です」と答える。それを聞き、ようやく主は涙を拭い、脇にあったちり紙で鼻をかむと安堵の息をつく。

「あのね、普段の怪我とちがって時間遡行軍から受けた怪我は審神者の力でないと治すことができないの。それを放っておくと、受けた傷から浸食が始まって最終的にはあなたたちを形作っているコード配列を書き換えられて時間遡行軍に変えられてしまうの。まさか負傷したことを言わないとは思わなくて。はじめに言わなかった私が悪かったね。危ない目に合わせてごめんない」

傷が浅くてよかった。手遅れにならなくて本当に、よかった。そう言うと主はまた顔を歪ませて涙をこぼす。
だから主はあれほどに必死だったのか。俺は、なんということを。すっかり傷の消えた身体に、痛みの名残はどこにもみえない。他の本丸で過去に何度かそのような事例があったのだと話す主の顔は悲し気で、もし自分もそうなっていたら、彼女がどれほど悲しむだろうと胸が痛んだ。
それと同時に、俺が彼女を悲しませたりえる存在であることに、自らの奥深い部分が疼くような感覚を覚えた。が、主君を悲しませるなど言語道断である。波紋のように広がる陶酔を押しとどめ、俺は真摯にこうべを垂れる。

「主の御手を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした」

「長谷部が無事ならそれでいい。これからはあなたの身にあったどんな小さなことでも報告してね。今度こそ、約束」

そうして、差し出された小指は泣いていたせいで微かに震えていた。親指には止血のための布が巻かれており、うっすらと滲んだ赤に俺は苦しくなる。彼女に刀剣男士の傷を治すことができても、彼女の傷を治せるものはここにはいない。
それならば、以降一滴も主の血を流させるわけにはいかない。彼女をお守りするためには強くなるしかないのだ。

「はい。必ず」

俺は迷うことなく彼女の小指と自分の小指を結ぶ。目が合うと主は梅の花が綻ぶように笑んだ。その様があまりにも可憐で、もっと、何度だって、彼女の笑顔をこの目に映したいと俺は思った。そのためだったら、何だってしよう、と。
指切りげんまん、と言った主は、その次の句を継がぬまま俺の方に倒れ込んでくるので今度は俺が仰天する番だった。「主、どうされたのですか?!」両の肩を掴み支えるも力なく、けれど微笑みはそのままに主は「ちょっと、頑張りすぎた、かな」と眉を下げるので、どうしたらいいのかわからずその細い身体を抱きしめた。
触れてもいいのだろうかという躊躇いよりも先に身体が動いていた。
人間の女がこんなにも、頼りないものなのかと愕然とする。すこしでも力を入れれば手折れそうで、力の加減がわからない。壊しやしないかとやや怯みつつ、できるだけそうっと彼女を支えた。

「普段の手入れはこんなんじゃないんだけどね。しばらく寝てれば大丈夫だから」

腕の中でくぐもった声が聞こえてくる。

「それでは主のお部屋へお連れします」

立ち上がろうとする俺に主は「えぇー長谷部はまだ寝てた方がいいよ。無理は禁物」と言うけれど、それでは俺の気が済まない。

「あ、じゃあさ、ここで一緒に寝るっていうのは?」

「へ?」

唐突な提案に思わず阿呆のような声が出て俺は口を手で押さえる。なんと間抜けで滑稽なことか。
主と褥を共にするなどあってよいことなのだろうか。いいわけがない、と思う。しかし主の方はそうでもないらしい。

「ふたりで寝ればあったかいからよく寝れるよ」

「そういう、問題なのですか?」

「そーいう問題。起きたら多分すっごいお腹減ってるよ。あとで一緒に食堂行こうね。光忠がなにか作ってくれてるはずだから。よく寝てよく食べる、だよ」

はい、じゃあ寝ますよ。と俺の胸を叩く手。体温が上昇する。並んで布団に横になれば「長谷部、はみ出してない?」と主が俺を気遣ってくださるので「ええ」と答えるもどこに視線を向けていいのやら。遠慮して端に寄りすぎると「もっとこっち」と腕を引かれるので、わずか、ほんの僅かだけ身を寄せれば主の方から近づいてくる。胸元に感じるかすかな息遣いがやけに大きく耳に響いていた。
臣下としての忠心が、触れたことによりほろ苦く甘い思慕へと変わってしまったことに俺はまだ気が付いていない。

「主、お慕いしております」

おだやかな寝息に語り掛ける。返事はないが、それでよかった。
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