2019

こもった湿気と汗ばむほどの体温を逃すために羽毛入りの掛け布団をばさばさと足で蹴りあげる。「おい、寒ぃだろうが」やめろ、とリヴァイは掠れた声で私に抗議した。

「あつくてのぼせそうなの」

髪をかき上げ私はベッドから出ると壜に入った水を喉に流し込んだ。つるつると胸の中を滑り落ちていき、やがてひんやりとした感覚はどこかに消えてゆく。昼間の喧騒が嘘みたいに静まり返った夜の街。白銀の月は切っ先から雫を落としそうなほど冷たく潤んでいる。欠いた円の内側から、そっと誰かが見ているような気がして私は目を伏せた。
掛け布団から覗いているリヴァイの背中。幾つもの古い傷が引き攣れた痕になり、筋肉の盛り上がりに合わせて様々な模様を描いている。私が密かにしている、とあるゲームについて。瞼を閉じてまっさらな彼の肉体をイメージする。そして、ひとつずつ傷跡をその表面に貼りつけ、リヴァイの肉体を再現する。傷は常に更新されるのでこのゲームには終わりがない。肌を重ねるたびに増えた瘡蓋を見つけては、これはいったいどのような傷跡、あるいは薄茶色の色素沈着を彼の肌に残すのだろうかと思いに耽った。
左のわき腹にあるぷっくりと膨らんだ裂傷の痕がことさら気にいっているのに、指先でなぞったり唇を押し当てたりするとリヴァイは嫌そうに私に背を向けてしまう。触らせて、と言えば「断る」とすげないので強硬手段に出るのだけれど、所詮は私とリヴァイ、私に勝ち目なんてハナからないのだ。
「同じことをしてやる」と彼の指先が私に触れたが最後、リヴァイの指は鋭利な刃物となって私の皮膚に沈み込む。心も身体もばらばらに切り刻まれながら、白く弾けた無の世界で束の間の安息を得る。茫漠の中、繰り返される男の荒い呼吸は血中に取り込まれ私の皮膚の内側を熱く満たしてゆく。
けれどそれはあくまでもベッドの中においてだ。ベッドの中、あるいは浴室、あるいはどこかの空き部屋の片隅、そしてソファ。ともかく、肌を重ねている時のみ、私はリヴァイの体温を認知する。記憶はしない。してはいけない。ひとたび誰かひとりの体温を記憶したとして、失えばそれを永遠に懐かしむことになる。もう決して触れることのできない、実態も輪郭もないそれ。他の人間に置き替え可能であるのに、たとえ同じ温度だとしても失った「それ」との決定的な違いを感じて喪失感の底へ叩き落される羽目になる。
だから私は毎度リヴァイの体温の高さにびっくりしてしまう。手の平が触れるよりも早く、皮膚と皮膚の狭間にある空気が熱を帯びているのだ。常人である私と彼との人間的なエネルギー量の違いなのだろうか。凹凸の数、様々な色味、傷の形。けれど私の記憶に残るのは彼の肉体の外見だけであり、体温を伴わない。
つまるところ肖像画なのだ。私はそれをくるくると巻いて懐に収める。何度も出し入れしているので端は縒れ、紙に癖がついているせいで広げてもすぐにくるりと丸まってしまう。新しい傷ができれば描きくわえ、検分し、また丸める。時が経つにつれ紙は日に焼け、綻びが生じてくる。けれど私には補修する術がわからない。ただ朽ちてゆくそれを大切に大切にしまっておくことしかできない。

「明日はなにもないらしいが」

リヴァイの眠たそうな声で我に返る。すっかり体温と同化した壜をテーブルに置いて私は振り返った。

「デートのお誘い?」

「そう聞こえたのならおおむね正解だ」

「生憎行くところがあるの」

行くところなんざテメェにはねぇだろう。てっきりそう返されるかと思ったけれど、リヴァイは「そうか」とひと言私に投げてよこしただけだった。団長として忙しくしているハンジに同行するのかもしれないと思っただろうか。いや、そんなことは無いだろう。勘のいいリヴァイのことだから、私が部屋から出るのを好ましく思っていないことぐらい察しがついているに違いない。
部屋に籠りカーテンを閉め、目まぐるしく変わってゆく世界から目を背ければなかったことにできるなんて思ってはいないけれど、それでもいまだに新しい兵団服には慣れないし、港に停泊する巨大な船もまるで現実味がなく、島外から運ばれてくる美味しいはずの目新しい食材も私の舌には無味無感動だった。
巨人の討伐数を競い合い、宙を舞っていたあの頃が遠かった。あんなにも壁外に焦がれていたというのに。結局いまも心は壁の中に囚われたままなのだ。

「出るときは起こさなくていい」

「わかった」

そんな風に言って、寝ていたためしなんてないのに。ベッドから出ようとする私の腕を掴んで強引に引き戻して抱くリヴァイの、朝日に照らし出された精悍な肉体を思った。逞しく、そして孤独な肉体。
私はベッドに戻る。リヴァイの肌に触れると彼の手が私の頬に添えられた。ひときわ物憂げな顔をした彼の細い眉に指を這わせる。「眉間の皺、もうダメね」「妙な言い方をするのはよせ。生まれつきだ」「眉間に皺の寄った赤ちゃんなんてイヤ」「ガキなんざどれとったって眉間に皺寄せて泣いてんだろ」「言われてみれば」ふふ、と笑ったけれど、自分の発した笑いがあまりにも寂しく部屋に響いたので、波が引くように笑いは消え遠い目になってしまった。リヴァイの眉間の皺を何度もさするようにして撫でる。まだ彼が世界の憂いを知らなかった、無垢な姿を想像しながら。
身体が軋む。骨が、筋肉が。吐きだす息が熱い。私の肌全体がリヴァイの体温を吸収している。一夜限りの記憶。そう心に決めているけれど、それは点が重なり線となり私の中に「記憶」として堆積している。吹けば飛んで散り消えるような薄っぺらいものなんかじゃない。長い年月をかけ積もり固結し、私という人間の一部を確実に形作っているのだ。
リヴァイ。彼の名を声に出す。押しつぶされ、苦し気な吐息と混ざり合う。顔の両脇についてあるリヴァイの手を左右順番に自分の首元にそっと導く。熱く湿った手の平が脈打つ私の皮膚に食い込む。頬を伝っているのは涙だった。

「もう、」

もう、いっそ。呻くように口走った私の唇をリヴァイが塞ぐ。その表情は怒っているように見えた。いつからだろう、生き残ったことを誇らしく思う気持ちよりも、「生き残ってしまったのだ」という後悔の念の方が大きくなってしまったのは。気が付けば見知った顔なんてもう、リヴァイとハンジだけだった。どこまでゆけばいいのだろう、どこまでゆけるのだろう。私たちの立つ道は果てしないというのに、あまりにも暗く足元だっておぼつかない。その途方のなさに足がすくんで動けなくなる。

「せいぜい足掻け」

そう言ってリヴァイは私の首に数多のキスを落とす。この男の手は生きる術を生み出す手だ。薄い皮膚の向こうで発熱しているリヴァイの武骨な手に自分の小さな手を重ねて、感じたのは泣きたいぐらいの痛みだった。生きるしかないのだ、私たちは。慣れない兵団服に身を包み、刃を向ける先が巨人ではなく人間であろうと、見届けなければならないのだ。ここにはもういない仲間たちのためにも。

「辛いの」

「テメェだけじゃねぇ」

泣きながら抱かれ、混ざり合った嗚咽と嬌声が月の切っ先から垂れ落ちる銀色の静寂と混ざり合う。
悦楽の中で声を聞いた。「name、どれだけテメェが忘れようとしたって無駄な努力ってもんだ。忘れるより早く、骨の髄まで刻み付けてるんだからな」行為の最中にリヴァイがそんな台詞を口にするとは思えなかったので、快感にネジの飛んだ脳が勝手に作り出した幻聴だったのかもしれない。それでもよかった。時代に、運命に、世界に翻弄されるならせいぜい足掻いてやる。
振り落とされないよう私はリヴァイのわき腹の傷に爪を立てるようにしてしがみ付く。彼の身体に赤い爪痕を遺し、私は夜へと沈んでいった。
- ナノ -