2019

ただいま、と言って本丸の門をくぐると、当たり前のように玄関の前に長谷部が立っていて私の足は動かなくなってしまう。長谷部は私のことを真っ直ぐに見ていて、大きく目を見開いたあと、訝しむように少し首を傾げて瞬きをする。立っているのが本当に私なのかどうか確認するみたいに。そして私がもういちど「ただいま」と呟くと、藤の花がわっと風に吹かれて揺れるような笑顔を浮かべて居住まいを正した。

「長谷部!」

ぎこちなく一歩を踏み出し、その後はもつれるようにして私は走った。

「お帰りなさいませ、主の不在の間もこの長谷部、本丸をお守りしておりました」

「ありがとうね」

「当然です。主はお変わりないですか?」

「それがね、ちょっと痩せた!多分だけど。皆がいないとあんまり食べる気しなくって」

どうかな、痩せたように見えない?といって腰に手を当てた私を長谷部の視線が上から下へ、右から左へとくまなく滑る。あんまり見られると恥ずかしいかも、と俯くと「そうですね。このあたりがほっそりされたかと」と長谷部の右手が私の顎のあたりに近付く。触れない程度の距離だけど、素手なのでほのかに体温を感じる。

「ほ、ほんと?あーでも帰ってきたらまたいっぱい食べちゃうからすぐ元通りだよ」

どきどきして視線が泳いでしまう。長谷部は私の手から荷物を取ると扉を開けてくれた。

「いいではないですか、元より太っているわけではないのですし」

「えー、お腹ヤバイよ、結構」

油断するとすぐに付くお腹周りの肉をつまむ仕草をすると、今度は長谷部が視線を泳がせる番だった。長谷部が空咳をひとつして「主のお帰りだぞ」と奥に向かって声をかけると、バタバタとたくさんの足音が聞こえてきて、私はあっという間に囲まれてしまう。お帰りなさいの輪の中で皆におみやげを渡し、ようやく中心から抜けだした私は、一連の流れを少し離れたところから眺めて待っていてくれた長谷部のところに行きひと息ついた。

「では参りましょう」

「うん。あ、そういえばね、今回は女の子少なくてちょっと緊張しちゃった。あと男の人、前よりも増えたみたい」

「新任審神者ですか?」

「そうそう。服装自由だからさ、スーツの人もいれば和服の人もいて。私なんかただのワンピースだったから変な目で見られてたよ。女の子の審神者といえば巫女さんみたいな格好って思ってたんだろうね」

形から入るならいいかもしれないけれど、研修と称された集まりや演練に着ていくには面倒なので私は審神者としての生活を和服ではなく普通の洋服でおくっていた。

「妙な輩に声をかけられませんでしたか?俺は主に悪い虫がついてしまうのではないかとそればかりが心配でしたよ」

「まさか。心配しすぎだって」

笑った私とは対象的に長谷部は渋い顔をして「そうでしょうか」と言って私の部屋の扉に手をかけた。

「本当に、心配だったのです」

小さな音を立てて扉が閉まると、しんと静まり返った部屋に長谷部の声が響く。それと同時に私の身体は長谷部の腕の中に閉じ込められる。
うん、と肯いて私はそっと長谷部の背中に腕を回す。

「でもやっぱり心配はいらないと思うな。だって、私だよ?」

「俺にとっては大切な主です」

そんなこと言ってくれるのは長谷部だけだよ。と思う。長谷部の愛は重たくて、私は時々疲れてしまう。だというのにその疲労はどこまでも心地良く、もうそれ無しでは生きていけないような気さえする。

「大好き」

私の大切なへし切長谷部。まっすぐ私を見る視線には迷いがなくて、私のほうがたじろいでしまいそうになる。その視線を受け止めるだけの器と資格が私にはあるのだろうか。
あまりにも凡庸で、なんの取り柄もない私を本丸のみんなは、長谷部は、主と呼んで慕ってくれる。愛してくれる。
俺の主であるだけで、それだけでいいのです。かつて長谷部が言ってくれた言葉。それにどれだけ救われただろう。
いつも不安で、それでもここまでやってこれたのは紛れもなく長谷部の存在があったからだ。初期刀と共にこの本丸をずっと支えてくれた彼にその事を伝えた時、私もびっくりしたのだけれど、長谷部は感極まって涙してしまったのだった。そのことに私は張り詰めていた糸が切れて、貰いに貰って貰い泣きをし、気付けば長谷部の腕の中で眠っていた。
それからだったような気がする。私と長谷部の間に主従以上の何かが生まれたのは。
荷解きを手伝ってくれながら、私がいない間の本丸の様子をつぶさに話してくれる長谷部の端正な横顔をこっそり盗み見ると、「どうされました?」と小首を傾げられた。ううん、なんでもない、とかぶりを振る。

「仰りたいことがあるのならなんなりと」

「本当に、なんでもないから」

「……そうですか」

とは言ったものの長谷部は腑に落ちていないようだった。「やはり現世で何か……」言いかけてやめる。勘ぐるようなことは何もなかったのだとさっき私が言ったのを思い出したのだろう。
現世では本当に何もなかった。何もない代わりに私は長谷部のことばかりを考えていた。会いたいと、触れたいと思っていた。そんな邪なことを考えながら新任審神者たちに先輩面をするのは後ろめたかった。

「長谷部に、会いたいなって思ってた」

「……それは、光栄です」

「そうじゃなくて、光栄ですとかじゃなくて」

伝わらないもどかしさに私は「そうじゃなくて、」ともう一度言う。

「だから、会いたかったの、長谷部に」

「あの、それはつまり」

「それはつまり、こういうこと!」

正面から抱きつくと、不意打ちだというのに長谷部は私のことをちゃんと受け止めてくれて、それが嬉しくて私はおでこを長谷部にぐりぐりと押し当てた。
これまでの長谷部なら慌てたように「主、そのようなことは!」とうろたえたのに今の長谷部は堂々と私の腰に手を添えてくれる。それどころか藤色の瞳で私を射抜くのだ。

「わかりました」

「あと、主じゃなくて名前で呼んで」

「しかし……」

「主命です!」

腕組みをして見せると長谷部はしばらく考えて「name」と私の名前を呼んでくれた。ありがと、と頭を撫でるとその手を掴まれ、手の甲にキスをされた。唇をつけたまま上目遣いで「会いたかった」と囁く長谷部に私の心臓は跳ね上がる。

「私も。ずっと長谷部のこと考えてたよ」

そう言うと、腕を引かれ私は長谷部の懐にまた戻される。砂糖菓子でできた檻みたいな場所。歯磨きもしなくていいし、寝そべったまま好きなだけお菓子を食べてもいい。夢のようだけど夢じゃない。
「あなたを俺でいっぱいにしたい」という長谷部の告白は砂糖よりも甘く、その後にしたキスは蜂蜜よりも魅惑的に私を濡らした。
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