2019

(現パロ)

「ねぇ、私のブレスレット知らない?」そう言って下着だけをつけた姿のnameは、ソファに座って新聞を読んでいる俺を振り返る。「いいや、知らないな」腕にはついていないのか?含み笑いを向けられてnameは唇を尖らせた。

「時間がないのに」

「もうそんな時間か?」

「腕に時計はついてないの?」

もぅ、と言ってnameは洗面台に引っ込んだ。やれやれと新聞をテーブルに置いて腰を上げ、ベッドの上に散乱しているクッションをひとつずつどけてゆく。三つめの、一番大きなクッションを持ち上げるとそこから銀色の細いチェーンが姿を現す。外したのは多分自分だ。けれどいつそれをそのような場所に押し込めたのかは記憶にない。昨晩、今朝、それとも今日の昼過ぎ。何度もベッドを使ったため心当たりが多すぎた。
がたがたと洗面台を荒しているnameの後姿が見える。エアコンが効きすぎていて寒いのか、置いたままになっていたらしい俺のシャツを羽織っていた。裾から白い太腿が覗いていて、膝の裏側が俺を誘うようにこっちを向いているので、誘われるがまま欲望の吹き溜まりに手を伸ばす。「だめ」制そうと伸びてきた腕を捕まえてブレスレットをつけてやる。

「どこにあったの?」

「ベッドの上だ」

「……そう」

ありがとう、と続けるまでの数秒間の空白に、nameがなにを思っていたかは彼女の表情を見れば明白だった。広げた両腕を洗面台につき、髪をとかしているnameを閉じ込める。肩にかかった髪を持ち上げてデコルテをあらわにする。「髪、上げてた方がいいかな」鏡の中で視線が合って、俺は「いや、降ろしていた方がいいと思う」と首を振った。
彼女の首元は魔性だ。気休めだとしても、髪で隠していた方が安心なのだ。他の誰でもない俺自身が。見せられると、見せられるというか、そもそもうなじやらデコルテやらをあえて見せているという意識がnameには無いにせよ、ともかくそれが白日の下にひとたび晒されれば触れなければ気が済まなくなってしまうのだ。白日ならまだいい。厄介なのは夜の闇だ。ぼんやりと白く浮かぶそこはまるで虫を誘うあわい炎。ふらふらと、吸い寄せられては身を焦がす。
結局俺に押し負けたnameと慌ただしく事を終えて車に乗りこむ。対向車のヘッドライトに照らし出されたnameの横顔が綺麗で、次に止まった赤信号でキスをした。
「おいおい、頭がイカレちまったんじゃねえのかエルヴィンよ」先日、打ち合わせを兼ねてランチをとっていたカフェテラスの一席で、リヴァイが容赦ない一言を俺に放った。それを聞いたハンジは飲んでいたコーヒーを危うく噴き出しそうになりモブリットに諌められていたし、「まぁ、うん、そうだよね」と言ったナナバにミケが静かに肯いていたのでやはり俺の頭はイカレているのかもしれない。
自分でももしかしたらと思っていたところに同僚の決定的なひと言、そして右に倣えの反応だったので疑問は確信に変わる。「つまり、nameは人を惑わす魔女かなにかということか?」と卓上に質問を投げかけると、今度こそ我慢できなかったハンジが盛大にコーヒーをぶちまけその場はお開きになったのだった。
俺がnameに熱をあげすぎている、そうリヴァイは言う。確かにこんなにも夢中になった恋は初めてだった。
恋なんて、そのさ中にあればいつだって「これが最高の恋だ」と思うのが常だろうが、それにしたって常軌を逸している、ような気がする。なにせ四六時中nameを欲しいと願っているのだ。そんなこと有り得るだろうか?有り得るから怖いのだ。無分別な10代のようにひた走る恋愛をこの歳になってするとは思っていなかったが、落ちてしまったものは仕方ない。行き着く先がどこであろうと転がり続けるしかないのだ。ハンドルはおろかブレーキすらない欠陥車に乗って。無論、リコールなんてシステムはありはしない。
ちいさなレストランを貸し切りにしたパーティーだった。取引先のオーナーに声をかけられたので断るわけにもいかず、nameにうっかりそのことを話したところ「そのお店、中々予約が取れないところじゃなかったっけ。私も行きたい」と身を乗り出されたので連れ立って参加することになったのだった。
足早にピンヒールを石畳に打ち鳴らすnameは扉の前まで来ると俺の腕に自分の腕を絡ませる。内側から開かれた扉をくぐれば、控えめの照明に照らし出された瀟洒な店内で見知った顔の面々がグラスを傾け合っていた。

「遅かったね、エルヴィン」

奥のテーブルからハンジが手を振っていた。自分の事務所の面々はnameも知っているので、nameは嬉しそうな笑みを浮かべて彼らの元に早足で向かう。揺れた髪があまやかな香りを残すので、俺は消えゆく名残にそっと鼻先を寄り添わせる。その様をリヴァイが呆れた顔で見ていたとしても、いったいなんの問題があるというのか。
車で来たため飲むつもりはなかったが、ぜひ飲んでもらいたいワインがあると勧められれば断れるはずもなく、一杯飲んでしまえばあとは何杯飲んでも同じとすでに酔いが回っているハンジにグラスを押し付けられ、強い酒の好きなミケからカウンターの隅でnameとのあれこれを揶揄混じりの軽い詮索を受け、もういらねぇと飲みかけのシャンパンをリヴァイから受け取った時点でほろ酔いからは三歩ほど進んだ場所にいた。身体は芯からほてり、自然と笑みがこみ上げてくる。陽気な心持ちで何度かnameにキスをした。その度に冷やかしの声が上がり、nameは恥ずかしがりながらも素直に俺の唇を受け止めた。料理も酒も、店内にあるすべてが満ち足りた夜だった。

夏の夜の空気は気怠い。冬のピンと張り詰めて透き通ったそれとは比べ物にならないほどに。
一歩先を歩くnameの、大きく開いたワンピースから覗く背中。ネックレスのチェーンが後ろに長く伸びている。その先端に留められている水色の小さな輝きが街灯の灯りを受けてチラチラとまたたいていた。美しいと思う反面、nameにそんな飾りは必要ないと強く思う。時々、彼女に対してそのようなことを感じる。衣服もジュエリーも全て取り払って、ただあるがままのnameを暴いてやりたい、と。皮膚すらも邪魔だ。皮膚も薄い脂肪も筋肉もなにもかもを剥いで、最後に残ったあたたかく光るやわらかな心臓の、その中にある可愛らしいものを両手で掬って喉に流しこむことができたならどれだけ良いだろう。

「少し歩きたいわ」

後ろに手を組んで自分を見ているnameの声で我に返る。飲み過ぎた?心配そうに覗きこむ瞳に自分が映っていることに満足する。「大丈夫だ」そう言って俺はnameの腰に腕を回す。
時折鼻をかすめる香水はつけた時より幾分か薄れていたけれど、それがかえって俺を切ない気持ちにされるのだった。時間の経過すらも愛おしいなんて。はは、と気付けば声を上げていた。何がおかしいの?nameが見上げるので額にキスをした。

「なんでもないさ、ただの思い出し笑いだ」

「そんなに面白いことなら、私にも教えて」

「皆、俺がnameを愛しすぎていると言う」

「……だめなの?」

足を止めたnameが悲しそうな顔をするので俺はとんでもないと肩を竦め、nameを抱く腕に力を込めた。

「だめなことがあるもんか。むしろその逆だよ」

「あなたはそう思う?私を愛しすぎてると」

「いいや」

愛しすぎている?nameを愛しすぎることなどあるのだろうか。どれだけ愛しても足りないのに。手に入れられない部分を狂おしく思って夜更けにひとり顔をしかめるほど、まだ足りない、もっと欲しいと焦る自分が、時々空恐ろしくなる。

「どれだけでもきみが欲しい。俺の知り得ない過去も、現在も、未来も、全部が」

「やっぱり酔ってる。飲み過ぎね」

困ったように笑うnameは俺の手を取る。帰りましょう、そう言ってタクシーを探すために大通りの方へと歩きだす。時々手首にnameのブレスレットが触れる。ひんやりと冷たかった。
それは自分が彼女に贈ったもので、nameの誕生石が付いている。自らの所有物であるということを知らしめるようないかにも単純なプレゼントだったにもかかわらず、nameは「ありがとう」と花開く笑顔で受け取ってくれた。つけてやると手を掲げて「素敵」と潤んだ瞳で俺を見たので、まさかそこまで喜んでくれるとは思わず言葉に詰まってしまったのだった。
女を落とすには何かしらの駆け引きと、数手先を読んだ行動が必要だと思っていたし、それを楽しむのが恋愛だと思っていた。チェスの駒を進めるように、相手の思惑を予想するのは容易かったし、難航しても最終的には自分の手に落ちるとわかっていた。自分に過剰な自信があったわけではないが、それなりの容姿とそれなりの肩書とそれなりの経験があるというだけで女はおのずと寄ってきたのでいつも自分が優位な立場でやりとりを進めることが出来た。だから、といってはなんだが、そこまで執着する女もいなければ、離れていく女を引き留めることもしなかった。全ては一過性の楽しみであり、本心からモノにしたいと思う女に出会うことなくこの歳になり、そんなところに突然、陳腐な言い方ではあるが彗星のごとく現れたのがnameだった。
私の行きつけの花屋で働いてる子だよ、ナナバから紹介された時、後頭部を鈍器のようなもので殴られたのではないかと言うほどの衝撃をうけ、俺は自分の名前を言うのがやっとだった。いい加減身を固めた方がいいんじゃないかと余計な心配をしていたナナバを若干ではあるが鬱陶しく思っていたことを胸の内で詫び、nameの吸い込まれるような瞳に釘付けになった。駆け引きも何もない、突っ走るだけの恋だった。楽しむ余裕などどこにもなく、どうしたらnameが自分だけを見てくれるようになるのかとそればかりを考えていた。つつがなくデートを重ね、手ごたえがあるのかないのかそれすらもわからないままなし崩しに告白をしたところ、返されたのが「私なんかでよければ」と月並みな返事だというのにその言葉をnameが自分に言ったのだと思うだけでじわじわと心の端が溶けた角砂糖のようになってゆき、勢いに任せて彼女を抱きしめた腕はいささか震えていたと記憶している。
「いつ抱けばいい?いつならいい?」神妙な面持ちで相談を持ち掛けるも、その場にいた全員に寝言は寝て言えと冷たくあしらわれた。「お前らしくないな」とミケに肩を叩かれ、「まぁ頑張ってよ」とナナバに笑われ、「生理周期から排卵日を割り出せば一番いいタイミングでセックスに持ち込めるんじゃない」と生理学的見地から的確なアドヴァイスをくれたハンジに礼を言った俺の向う脛をリヴァイが力いっぱい蹴り飛ばした。
かれこれ一年が経とうとしている。無事に結ばれ、俺はnameを余すことなく愛する日々を送っていた。知れば知るほどその奥をもっと知りたくなった。探求心は果てしなく、またnameは俺のつまびらかな探求を恥ずかしがりはすれど拒否の姿勢を取ることなく受け入れてくれた。つまり相性が良かったのだ。不慣れで初心なところも、それでいて時折見せる大胆さも、彼女の全てが俺を魅了した。

「そういえばもうすぐ誕生日だけど、何か欲しいものある?」

「もうすぐと言っても、まだ大分先じゃないか?」

「早めに準備した方がいいかなと思って」

まだひと月半ほど先だというのに、もう俺の誕生日のことを考えているname。ひと月半先の彼女の日常に俺が組み込まれているのだと思うだけでnameへの愛おしさが募る。
ただ、愛し続けたいと願う反面、俺はnameが腕の隙間をすり抜けて去ってしまうことばかりに怯えていた。昨日まで燃え盛っていたはずの炎が次の日にはすっかり消えているなんてことは一度や二度ではなかったため、失う容易さは身に染みてよくわかっているだけ、余計に。

「俺が欲しいといったものをくれるのか」

「あんまり高いものは買えないけど。できるだけ希望に添うようにするよ」

なになに?とアルコールで心なしか潤んでいる瞳を向けられて、気が付けば足が止まっていた。これまでの俺だったら歩きながら「別にそんなものはいらないさ、君がいればそれでいいよ」とかなんとか、それっぽい台詞を吐いて終わりにしていただろう。けれど俺は恋という病に脳が侵されているので「きみが欲しい。結婚してほしいんだ」などと夢見る童貞のようなことを言ってしまうのだった。案の定nameは目を丸くしてキョトンとしている。

「えっと、」

「だめか?」

「ダメとかじゃなくて、ええと……」

nameの顔に困惑が広がったのを見てとり、一気に酔いがさめる。

「すまない、困らせるつもりはなかった」

「困ってなんかなくて、」

うぅ、と両手で顔を覆ったnameが小さな声で何かを言ったがくぐもっていたのと車の往来が激しくてよく聞こえなかった。

「もう一度言ってくれないか?」

身をかがめた俺に、nameは眉を下げて耳打ちする。

「だって、明日になって酔ってたからそんなのは忘れたって言われたら悲しいなと思って。あの、私、そんなこと言われたら本気にしちゃうから……」

ごめんなさいと全く無意味な謝罪をするnameを今この場で押し倒してしまいたい衝動に駆られる。冗談でもそんなことを言うものか、と口にするのももどかしかったので端的に口づけた。それだけでは気が済まなかったので舌を絡めて唇を吸った。キスの合間に「俺は本気だ」と何度も囁いた。聞こえているのか聞こえていないのか、nameは苦しそうに俺にしがみ付いていた。
乗り込んだタクシーの中、絡めた指は一足先に交わり合う。エントランスを抜けエレベーターを使い、部屋までが果てしなく遠く感じた。扉が閉まるのと同時にまたキスをして、抱き合った。脱げたハイヒールが逆さまになって転がっている。俺の肌はハイヒールの靴底と同じ口紅で色づく。晒された白くやわらかい肌は今や俺だけのものだった。パーティーの間中、彼女の背中に向けられる視線すべてに嫉妬していた。髪を降ろさせておいて正解だった。うなじまであらわになっていたら、どこかの男に妄想の中で犯されたやもしれなかった。見知らぬ男に犯されるnameを思ってなお興奮を覚える自分のイカレっぷりたるや。リヴァイよ、やはり俺はイカレてしまったらしい。それも手の施しようがないほどに。
部屋の空気すべてをはちみつ色に変えた後、俺とnameは乳白色のバスタブに身を沈めていた。ふたりとも泥のように疲れていた。首筋と肩に乗る水滴をひとつずつ指で掬うと、時々nameは身を震わせた。

「私のこと、そんなふうに考えてくれてたなんて知らなかった」

指先で水面を掻き混ぜながらnameが言う。

「それは本気で言っているのか?」

全身の力が抜け落ちていくようだった。これだけ愛してもまだ信じるに足りないというのか。何たる仕打ち。そういえばナナバが言っていた。「nameはね、言っとくけど鈍いよ」ニヒルな笑みを唇に乗せたナナバの言葉を今更ながらに実感する。

「遊びとまでは思ってないけど、エルヴィンにとっては大人の付き合いなのかなって思ってたから。エルヴィンはスマートだしいつも余裕があるし。私、釣り合ってないのかなっていつも心配だった」

ぶくぶくと鼻の下までお湯に沈み込むnameを引き上げこちらに向かい合わせる。

「釣り合っていない?別に釣り合う必要なんかない。俺はnameが欲しい、それだけだ。キミが一緒にいてくれさえすればそれでいい」

見つめれば細い腕が首に回された。「ありがとう」と首元から聞こえてくる小さな声は震えていた。「それで、今年の誕生日プレゼントに俺は希望のものをもらえそうだろうか」酔いは冷めているが、と言うと、nameはちいさく首を縦に振る。満足げな笑みを浮かべ、俺はまたnameの肌に舌を伸ばす。
ここまでしても完全に伝わっていないというのなら、俺の愛し方が足りなかったのだろう。それにしてもまさか「スマートだしいつも余裕がある」ように見えていたとは驚きだった。こればかりは彼女の鈍さに感謝するほかはない。けれど、つまりは今以上に我を忘れて愛したとしても、俺が思っているよりは見苦しくないということか。左手の薬指に赤い痕をつけながら、それならばと俺は欠陥車のアクセルをめいっぱいに踏み込むのだった。
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