2019

やわらかそうな芝生は座ってみると案外ちくちくするということを知っている私は、御堂筋くんがコースを走っているのを眺めている間お尻の下にハンカチを敷いている。雨上がり、地面がぐじゅぐじゅいうときはコンクリートの階段に腰かける。雨の日は、私はお休み。
見学といってもただ走っている御堂筋くんを見る、本当にそれだけだった。この場所や、レース会場で御堂筋くんや他の人たちが走るのを何度も見ているけれど私にはちっともルールがわからない。いつだったか御堂筋くんにそう言ったとき、彼は「足らんオツムやからね、仕方ないんちゃうん」と舌を出したけれど、その後「一番にゴールライン割ったやつが勝利する、それだけや」と私から目を逸らしながら静かにこぼした。単純で明快。「せやからなぁんにもわからんnameチャンでもわかるように、いっつもボクゥが一番でゴールしてあげとるんよ」「えっそうなの?!」「ちゃうわアホ」「御堂筋くん今日機嫌いいね。あ、昨日の晩ごはんに美味しいお豆腐出たとか」「……」「あたりだね」「そういう変なとこで勘ええのウザいわ」御堂筋くんはベロンと舌を出すと汗を拭いていたタオルを私に投げてよこすと自転車に跨った。
御堂筋くんの身体はどんどん縦に伸びていくのに自転車のフレーム(それがフレームというものだということも、私は知らなかった)は変わらない。可愛い、あかいハートの描いてある自転車。自転車、というか、ロードバイク、というか。とにかくそれに乗った御堂筋くんは速くて、とにかく速くて、誰よりも速くて、かっこいい。「キモイけどカッコいいね!」トロフィーを手にした、なんの感慨もなさそうな御堂筋くんに毎度言うのだけど、それについて彼からなにかしらの反応をもらったことは一度もない。
外国のトゥーンアニメみたいにクルクルとコースをまわっているのはほとんど御堂筋くんより年上の人だ。でも大概御堂筋くんはいちばんでゴールにやってくる。一心不乱、という言葉がよく似合っているなぁと、私はフェンスの向こう側で呑気に見ている。時々はお菓子なんて食べながら。イカソーメンとか、チョコマシュマロとか。御堂筋くんに「食べる?」と訊いて受け取ってもらえるのはごく稀だ。金平糖のときが多い気がする。食べる、の三文字を言い終わるよりも早く長い腕がぬっと伸びてきて、金平糖の乗った私の手の平ごと持っていきそうな勢いで小さな星たちを掴むと、上を向いてぱかりと開いた口の中にざぁっと投下する。淡い色の金平糖はじゃみじゃみと音をたててかみ砕かれる。上下する彼の喉仏が、この前見た時よりも目立っていた。それでも、肌は綺麗に白くて私はなんだか恥ずかしい。
とある日を境に彼はこれまで以上にムキになって自転車に乗るようになった。そして、これまで以上に他の誰かを近くに寄せ付けなくなった。将来の夢を描いたポスターがやぶられたあの日、セロテープでそれを一緒に直した私を除いては。と言っても私は「拒否されていない」だけなのだけど。子ども特有の厚かましさと、持ち前の鈍さを両手に私は御堂筋くんと例え一方的であったとしてもそこそこの関係を築いていたように思う。
親の事情で他県の中学に進学した私は何度か御堂筋くんに手紙を書いた。元気ですか、とか、自転車乗ってますか、とか。返事は一通も来なかったけれど、私は気にしなかった。ママチャリに乗ってだらだらと走っていると、決まって御堂筋くんのことを思いだした。彼はいつだって私の意識の隅にひっそりといたので、思いだすというより気配が強くなるという方が正解なのかもしれない。前へ、前へ、前へ進む御堂筋くんの小さなお尻ときれいなふくらはぎをまた見たいなぁ、なんて、夕焼けをぼんやりと眺めながらこいでもこいでも御堂筋くんの背中には追いつかないペダルを回す毎日だった。
夜、ベッドの上で天井を眺めながら御堂筋くんの喉仏はいまどんなだろうか、と思いを馳せて眠りについています、と嘘偽りのない手紙を書いてもやっぱり御堂筋くんから返事は来なかった。
春。再び京都に戻った私は入学した高校で御堂筋くんと再会した。
最後にあった時よりまた縦に長くなった御堂筋くんは私を見下ろして少しだけ目を丸くして、ちいさな鼻の頭に皺を寄せた。

「キモい手紙寄越さんといてくれる」

「返事くれなかった」

「あたりまえやろ」

あないなキモい手紙、なにを書いて返せばいいんか教えてほしいわ。机に収まりきっていない御堂筋くんは、長い身体を折りたたむようにして席についている。喋るたびに喉仏がうごいている。喋るのをやめると動かなくなって、彼が顔の向きを少し変えるとその上を皮膚が移動して薄く影が生まれる。

「ストーカーなん」

「ていうか、ファン?」

「知らんわ」

キッモ。私から顔を背けた御堂筋くんの、気持ち長めの跳ねた襟足。自転車競技部に入る御堂筋くんについて行ったらなんだかとんでもないことになってしまって、そしてついて行った流れでマネージャーになってしまった。相変わらずロードレースのロの字もわからない私は指示棒を右手にした御堂筋くんにマンツーマン教育を施され、時々指示棒で額を小突かれたりしながらそれなりの知識を有するに至った。
部は御堂筋くんの管理下の元規律正しく馴れ合わず、ではあったけれど、ひとたび自転車から降りれば私は先輩たちと駄菓子を交換したり宿題を教えてもらいながらわいわいと過ごしていた。そんな私を御堂筋くんははじめ良しとしなかったけれど、次第に彼らとの人間関係に口を挟むこともしなくなった。くだらん馴れ合いせいぜい楽しんどればええんちゃう。だそうだ。
相変わらず御堂筋くんは速かった。鬼気迫る勢いで、鬼すらも逃げていきそうな勢いでゴールを割る御堂筋くんの姿に見とれて私は何度かストップウォッチを止め忘れて怒られた。「ごめん、あんまりにも……」言いよどんだ私に御堂筋くんは「使えん奴はいらんよ」と背中を向けた。
あんまりにも、何なんだろう。ボトルに入れたドリンクの粉末を溶かしながら考える。頭上で鳥の高い声がして私は空を仰ぐ。真っ青な空には一点の曇りもなく、太陽を横切るようにして飛ぶ二羽の鳥に目を細めた。睫毛の隙間から太陽の粒が細かな雨みたいに降り注ぐので、眩しくて手をかざす。

「きれい、」

そうか、きれい、だ。私は作りかけのドリンクのボトルを片手に走り出す。背後で誰かに声をかけられたけれど、ゴメン後でと振り返りもせず言い残して地面を蹴った。心臓が張り裂けそうで私は大きく開けた口から必死に酸素を取り込んだ。普段こんな風に必死に身体を動かすことなんてないので、私の身体はすぐに悲鳴を上げる。情けないなぁ。もつれそうになる足、潰れそうな肺、きりきりと痛む横腹。

「仕事さぼってどこ行くつもりや」

「み、どうすじ、く……」

背後から首根っこを掴まれて、バランスを崩した私は腕をあたふたと動かして体勢をなおす。くるりと丸い目と涼し気な眉は歪んでいない。ゴール前に見せるあの表情とはかけ離れた平坦な御堂筋くんの顔を見つめながら、私は「あのね」と絶え絶えの息で口を開く。

「きれい!」

はい、と手渡したドリンクのボトルを受け取りもせず、かといって言葉を発するでもなく身じろぎするでもなく御堂筋くんは突っ立っている。「きれい、ていうか、キモカッコいい、ていうか」と言い直したけれど、御堂筋くんはなんの感情も読み取れない乏しい表情で私を見下ろしているままだった。さっきと同じ鳥の声が遠くで聞こえる。

「言うとること小学生の時と変わらんて、ほんま、可哀想やなそのアタマ」

哀れなるわ。同情してまうわ。続けざまに言うと御堂筋くんはボトルをひったくるようにして私の手から奪う。上下する喉仏を私は遠慮なく凝視する。まばたきするのすら惜しくて、私はそのちいさなでっぱりが動くのをただ眺めた。口を離した御堂筋くんから突き返されたボトルにはまだ半分ぐらい中身が残っていたので私はそれを飲み乾した。全速力で走ったので喉が渇いていた。

「でも、ロードレースのルールはだいぶわかってきたよ」

口元を拭いながら言うと御堂筋くんは「このボクが直々に教えとんのやから当然や」と、ペロンと舌を出す。

「でも、ちゃんと一番でゴールに戻ってきてね」

「でも、て、なんや。でも、て」

うーん。私は考える。顔を歪めて、自らの起こした風に汗を散らして、まっすぐ誰よりも速くゴールに戻ってくる御堂筋くんが好きだ。全部出し切ってゴールを割って、そしてふわっとしたやさしい風に一瞬包まれた御堂筋くんは誰にもわからないような表情の変化を見せるのだ。ほんの、束の間だけ。そうして滑るように車体を走らせどこかへ消えてしまう。
ゴールにいれば、御堂筋くんは必ずここに来てくれるんだという絶対的な安心感。応援なんていらんよ。いつも彼は言う。でも頑張ってねと声をかけずにどうしていられよう。だって、私にはそうすることしかできないのに。届いていても、届いていなくても、そう、送り続けた手紙みたいに、私は馬鹿みたいに一方的に御堂筋くんに身勝手な思いをぶつけてばかり。
好きとか恋とかそういうことはよくわからない。ただ、こんなにもきれいな御堂筋くんのことをわかろうとする人は残念ながらそう多くないし(むしろ少ない)、拒絶されない限り私は彼の近くで彼の行き着く先の景色を一緒に見たいと思う。それがこのゴールゲートなのだ。はやく、はやく、はやく会いたい。スタートの合図が鳴った瞬間から私は願う。補給地点なんてすっ飛ばして、誰よりも速く私の目の前で風を起こして。

「私アホだから、やっぱりわかりやすいのが好き」

「キモ」

目を眇めると御堂筋くんはゆっくりと私から離れてゆく。校門からは大差をつけられた後続たちがようやく姿を見せたところだった。「あかん!喉カラカラやー」と部室の前に倒れ込んだ水田先輩を助けるべく私は小走りで駆ける。
部室の裏のしっとり湿った日陰で汗を拭く御堂筋くんの丸まった背中が、見えなくても私にはちゃんと見える。
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