2019

ひとり暮らしを始めたと聞いたので私はさっそく御堂筋くんのアパートの場所を石垣さんから聞きだして(石垣さんは御堂筋くんのことを何でも知っているけどなんでなんだろう。さすが石垣さん)、次の日の夜チャイムを鳴らした。電気はついている。ピンポン。ピンポンピンポーン。反応がない。もしかしてよからぬことが中で起こっているのではないかと心配になってドアノブをガチャガチャさせると大股でこっちにやってくる足音が聞こえてきてかちゃんと錠が外される音がした。

「やあやあ、遊びに来てあげたよーん」

「キモ、帰れ」

実際にはやあ、の時点で御堂筋くんの口からは「キモ」が発せられていた。私はめげないし、なにより御堂筋くんがこの熱帯夜に私を放りだすことなんてしないだろうと踏んでいたので「差し入れもあります!」と手に提げていた袋をつきだす。うちの近所の、美味しいお豆腐屋さんの絹ごし豆腐一丁と、豆乳500cc、厚揚げとがんもどき3枚ずつ。そう告げると御堂筋くんはあからさまに「その手に持っている荷物だけをドアの隙間からこっちに寄越してキミはとっとと帰ればええんや」みたいな目で私を見るけれどそうは問屋が卸さない!にへら、と笑うと御堂筋くんは舌をペロンと出して目を眇め、「靴脱いだらまず真っ先に手を洗うこと」と私が病原菌をべったり手のひらに付着させているかのような言い方をするので「はーい」と挙げた手をうねうねさせて御堂筋くんに向けてやった。
予想通りの殺風景さはいっそ清々しくて、手を洗いながら「掃除楽そうでいいね」という感想を述べた私を無視して御堂筋くんは律儀にも冷蔵庫を開けて麦茶を出してくれた。冷たくて美味しい。夏休みにおばあちゃんの家で麦茶を飲んだみたいなくつろいだ気持ちになった私は伸びをしてそのまま倒れる。そうしたらお腹がぐぅーと鳴って、誤魔化すにはあまりにも大きな音だったので「あははお腹減ったなぁ」と仰向けのまま御堂筋くんを見てお腹をさするジェスチャーをすると、御堂筋くんは「知らん」みたいな顔でそっぽを向いた。

「飢える!お腹と背中がひっついちゃう!お恵みをー御堂筋さまぁー」

「キミ、そのぎょーさん肉付いた腹で何を言うたはるの」

「……女の子にそういう事言ったらいけないんだー」

いーけないんだーいけないんだー、と言っていじけたふりをすると、御堂筋くんは「埃でも食べとればええんちゃう。まぁ、ボクの部屋に埃なんてあらへんけど」と舌を出す。ですよね。床にもテレビ台にも机の上にも埃なんてどこにもみあたらない。超几帳面、徹底的潔癖主義な御堂筋翔くんの部屋とはまさにこれだ、みたいな感じ。自分の部屋の惨状(山積みの服や乱れたまたまのベッドとか)をなるべく意識の隅に追いやって私はもういちど「あーお腹減った……」と呟いて目を閉じた。20時半、お腹が空いて当然の時間。

「野菜炒め」

「ん?」

「ぐらいなら作ったる」

「おぉ!」

ガバリと起き上がった私に「なんや、元気あるやないか」と上げかけた腰を御堂筋くんはおろそうとするので私はほふく前進で御堂筋くんのところまで行くと足にしがみついた。「どうかご慈悲を」「馬鹿が移るから触らんといてくれる」「お肉多めでおねがいします!」「タダ飯食いは出されたもん黙って食べ」うーん、ごもっともだね!冷蔵庫から野菜と肉とそして卵を取り出して、フライパンが乗ったコンロに火をつける。あっ待って、野菜炒めぐらいなら私だって作れるぞ。ここは女子力を見せつけるべきでは?
思い立って、まな板の前に立つ御堂筋くんの背中に忍び寄る。

「私が作るよ」

「ハァ?」

「や、だから、私が作る」

「あかん」

「なんでよ!」

「台所触られたない」

「嫁と姑みたいなやり取りやめてほしいな」

「nameに任せたら食材が無駄なるわ」

「だって野菜炒めだよ?失敗しようがないじゃん」

胸を張った私を御堂筋くんは胡散臭そうな目で見てきたので「いいから見てて」と無理矢理御堂筋くんとまな板の間に身体をねじ込んだ。

「よし、ここで焼き肉のたれを投入だ」

「たれェ?そんなんあらへんよ」

「嘘でしょ?」

「そないなもんなくたって味付けできるやろ。まさかできひんの?そんなわけないよなぁ、nameチャンあんだけ胸張って出来る―言うとったもんなぁ。醤油と酒と味醂と砂糖、ニンニク生姜、好きなの使うてええからね。きばりや。あーでもアレやね、ニンニク生姜入れるなら炒める前に入れなあかんかったのになぁ」

「……ニンニクは……臭くなるから入れないんですよ、あえてね、そう、あえて」

「ほーん。まぁええけど、ほんで、なんでそない野菜が水っぽいの?雨でも降ったん?おかしいなぁボクの部屋雨漏りでもしてんのやろか。nameチャン、来る時雨降っとった?」

そう言って御堂筋くんは手の平を天井に向けてわざとらしく首を傾げる。いつにも増して冴えわたっている嫌味に私は反論したいところではあるけれど、明らかに火が通り過ぎている野菜に早急に味をつけてやらないとべちゃべちゃでなおかつしおっしおの野菜炒めになることは目に見えているので、大急ぎで目の前に並べられた調味料を量りもせずボトルから直接フライパンへ投入した。

「はい完成!はい食べる!」

用意してくれたお皿にフライパンの中身をざざーっと開けると汁が飛び散って、御堂筋くんがため息をつきながらティッシュで拭いた。

「御堂筋くんも食べていいよ」

「いらん」

「見た目もあれだけど味もあれだよ」

「最悪や」

「お腹は膨れるから……いいんです」

クゥー!と続けたけれど笑ってもらえなかった。
女子力を見せるどころの話ではなかったし、多分というか絶対に御堂筋くんが作った方が美味しくできたと思う。御堂筋くんは人間関係以外はなんでもそつなくこなすので、料理だって冷蔵庫にあるものでそれなりに美味しいものを作っているんだろうなということは予想できる。そう考えればいいとこなんて見せようとせず最初から御堂筋くんに全部お任せしておけばよかった。

「御堂筋くんの野菜炒め、食べたかったよー」

「キミの作ったその、それ何なん?野菜の水浸しみたいなん食べさせられるよりかはボクが作った方がええやろな」

材料のためにも。と頬杖をついたまま半目で私のつついている皿を見ている。試しに箸で一つまみしたものを御堂筋くんの顔の前に持っていってみると歯を剥かれた。「ひと口でいいから!」と押し付けると躊躇いがちに口が開かれて、カメレオンが舌で餌を食べるみたいにして私の作った野菜炒めが御堂筋くんの口の中に吸い込まれていった。

「お味は?」

「それ、よう訊けるなぁ」

「で、お味は」

「ボクだったら恥ずかしくて訊かれへんわぁ」

マズいもん。と可哀想な人を見る目で私を見てきたので「はいはいどうもすいませんね」と私は唇をまげて食べることに集中した。奥行のない味なのにやたら醤油辛い。美味しくはない。むしろマズい。御堂筋くん、大正解。

「ごちそーさまでした」

流しにお皿を運んで「流し借りるね」とひと言断りを入れて皿を洗った。時計を見ると21時半を過ぎていて、そう言えば今日はテレビで好きな映画がやる日だったことを思いだす。

「御堂筋くん、ちょっとテレビ見てから帰ってもいいかな」

「いいわけないやろ、アホ」

「えっ、ケチ!」

「ケチ?人ん家ぃの野菜借りて水浸しにして腹膨らませた挙句言う言葉がケチって、キミどういう教育されて育ったん」

「御堂筋くんって結構言うことまともだよね」

「さっさと帰る支度しぃ。せめてもの情けで駅まで送ったる。なんやあっても後味悪い」

はよしぃ、と睨まれた。お豆腐という賄賂をもってしてもダメだったのか。映画、中盤が良い所だったんだけどな。というのは口実で、事実だけど口実で、だってそうでもしないと御堂筋くんは一秒でも早く私を部屋から追い出してしまうから。もう少し粘ろうかな、でもあんまり食い下がっても迷惑だしな。テーブルの表面をじっと見つめて考えていると、御堂筋くんが私の腕をぐいっと引っ張った。

「ほら、行くで」

「やだ」

あっ、と思う。咄嗟に口をついた言葉だったのに、すごくいやらしい言い方になってしまった。だって私は御堂筋くんの彼女じゃないし、だから、そういう「いやだ」みたいなことを彼に言うのは違う気がする。多分部屋に入れてもらえたことで調子に乗ってしまったんだ。部屋に入れたのだってお豆腐と引き換えだからだったのに。私の価値なんて豆腐と同等なんだ。価値にして数百円。ははは。あーやっちゃったなぁ、と後悔で心臓の裏側がひんやりする。さっき食べた野菜炒めが胃の中で五倍ぐらいに膨らんでいるみたいだった。

「って言うのは嘘で、帰りまーす!どうもご馳走さまでした。お豆腐手に入ったらまた来るね!」

んじゃ、と肘を直角に曲げて右手を顔の横であげる。御堂筋くんの手が私から離れて、さっきまで触れていた部分に冷房の風が当たる。そこに残っていた体温が消えないでほしいと、意味のない願い事をした。よっこらしょ、と意図せず口から出た色気も何もない掛け声が駄目押しになって、私の心はさっき作ったびしょびしょの野菜炒めそのものだった。

「もう来んでえぇよ」

「……考える」

「考えるてなんや。考えんでもわかるやろ」

「あははゴメン。じゃあ行くね」

映画見たかったな、とダメ押しで言うと御堂筋くんは目を細めた。

「キミの距離の取り方、ボク好きやない」

「私いま振られてるの?」

「昔っから許可もなく勝手にボクのテリトリーに入ってきて、ひっかきまわして。近すぎると思うたらいつの間にかどっか行って。挙句の果てにまっずい料理このボクに食わすやて?」

キミはなにがしたいん?御堂筋くんは言った。なにがしたいん、と言われましても。私はただ御堂筋くんのことが好きで、好きで、好きで。それだけ。付き合いたいなんて考えはおこがましくて持てなかった。だって、御堂筋くんが好きなのは自転車で、それは今も変わらない。私が御堂筋くんと自転車の間に入れるとも思わない。御堂筋くんは自転車のことは必要としていても、私のことは必要としていない、と思う。そう思っていないと、ほんの少しだけ希望を抱いてしまいそうだったから。

「今度までに料理練習しとく」

「せんでええわ」

「じゃあ今度は御堂筋くんが作ってね」

そう言って玄関に向かうと御堂筋くんがひょろ長い野良犬の影みたいに私の後をついてきた。靴脱ぎ場の壁にかけてある彼の愛車に別れを告げて玄関の扉を開けると、むわっと生ぬるい空気が私達を包んだ。サンダルをつっかけた御堂筋くんが鍵をしめる背中を眺めていたら、何かが私を突き動かした。八分丈のズボンから覗いた踝なのか、薄いTシャツに凹凸を作る背骨の影なのか、襟足からのぞく白いうなじなのか。
「行くでぇ」と振り返った御堂筋くんに向かい合う。背が高い御堂筋くんと目を合わせるにはかなり上を向かないといけなくて、目を合わせるのにも気合が必要なのだ。ゆっくりやると喉仏のあたりで心が折れてしまいそうだから、一気に、胸元から鼻先まで視線をあげる。
目があうと御堂筋くんは「ハァ?」みたいな顔で私を見下ろしていた。えぇと。何か言わなくてはこのまま歩きだしてしまう。

「私、帰っちゃうよ?」

「帰るから今こうして玄関の前に立っとんのやけど」

「玄関の前に立っているということは、これからドアを開けて入ることもできるよ」

「暑さで頭おかしなったと違うん」

「やだやだ、帰りたくないよー。据え膳食ってよー」

御堂筋くんの腕を揺さぶると彼の細長い身体がわかめみたいに揺れた。これはアレだ、多分もう御堂筋くんのアパート出禁確定だ。たとえお豆腐を提げてきてもドアノブに掛けとけお前は帰れと言われるに決まってる。それでも御堂筋くんをはなせないでいるのは、彼の言う通り、暑さで頭がおかしくなっているからなのかも。最悪出禁をくらっても「暑くて頭がおかしかったゆえ」と言えば「ほなしゃーないな。今年は暑いからな」となるかもしれない。ならないか。ドンマイ私。

「まっずい据え膳なんて食うたら腹壊す」

「マズいかどうかなんて、食べてみないとわかんないでしょ」

「……ほな、食べてみよか」

え?と訊き返そうと思ったら、ぐるんと身体が回って、さっきまで御堂筋くんが立ってた場所に自分がいた。食べてみる、とは。二の句を告げないでいるとなおも御堂筋くんはじりじりと、蛇が獲物を追い詰めるようにして私の前に立つ。まん丸の目を伏せて、無言で。ゆらりと、立つさまは、まるで、陽炎。御堂筋くんも暑さで頭がやられたのかな?

「……あのー、」

「ほな、戻ろか」

「え、もど、るって」

「キミが言うたんやろ」

伸びてきた御堂筋くんの腕が私の顔の横を通ったかと思えば手の平が扉にあたり、ばん、と金属の音がする。半歩、御堂筋くんが近づいてきて、熱帯夜の空気を挟んで御堂筋くんの体温を感じた。ふわりとあたたかい温度。石鹸のいいにおい。頭がぼんやりとして、ドアを背に仰け反るようにして御堂筋くんを見る。そうしたら、今度は右手が伸びてきて、私は御堂筋くんの長い腕の中に閉じ込められてしまった。背後で鍵が、開けられる。

「開いたで、鍵」

で、どないすんの?笑っていない、歯も見えていない、舌も覗いていない、唇をゆるく結んだ御堂筋くんが首を45度傾ける。えぇと。唾をのみ込んだら尋常じゃない音が自分の喉元から聞こえてきた。

「ど、どうしたらいいのかな」

「ハァ?なんでボクに訊くん?馬鹿なんnameチャンは」

「馬鹿か馬鹿じゃないかと言われたら馬鹿寄りだけど」

でもこのまま、じゃあもっかいお邪魔しまーすなんて言ってのこのこ部屋に入ってしまったらそれはそれで尻軽と言うか、軽率な感じがするし、それにもしかしたらこれは手の込んだ意地悪なのかもしれない。御堂筋くんそう言うところあるからな。一度降ろした視線を再び上に向けると、いら立ちを眉間に滲ませた御堂筋くんが顔を私の鼻の先まで近づけた。

「ほんならボクが決めたるわ」

そう言った御堂筋くんが浮かべた表情に、私はそうそうその顔!と手を叩いてしまいそうだった。三日月に細められた目と、極限までに持ち上げられた口角。見惚れていると、開かれた扉が急かすように私の背を押す。

「うん」

肯きながら、ドアに押されて私は一歩前に出る。でも私と御堂筋くんの間にある距離は一歩半だけだった。さっき御堂筋くんが詰めた半歩、そして私が今詰めた一歩。つまり、距離、ゼロ。Tシャツの生地が、鼻先に触れる。

「決まりやね」

歯並びのいい白い歯が何かの合図のように鳴らされた。今まで見たこともない御堂筋くんに、私はなにか間違ったことをしてしまったんじゃないかと不安になる。「本気にしたん?ぷぷ、残念でーしたー」と手を口に当てる御堂筋くんの姿が容易に想像できて、手を引かれてもつれながら靴を脱いでいるこの時点でもなお直面している現実を信じられない私は、何とか靴を脱ぎ終わって一息ついたところをまたしても御堂筋くんの両腕の中に閉じ込められて、唇になにかあたたかいものが触れてようやく現実を理解した。

「ホンマ、嫌いやわ」

その顔。と言う御堂筋くんの鼓動に包まれて、「私は好きだけどね!」と言えば「キッモ」とお決まりの文句が返されたのだった。
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