2019

わあわあとなにやら騒がしくしているやわらかそうなのがこっちへ向かってくる。そのやわらかそうなものはふたつの眼でまっすぐに僕を見据えて、特大の笑顔をうかべて、おまけに僕に会えたことが心底嬉しいということを両手を上にあげ全身で表現しながら跳ね転がるようにしてかけてくる。四書五経、武経七書に始まり僕の知り得るありとあらゆる知識を彼女の小さな頭蓋の中に詰め込んだせいで、廊下を走ってはいけないという何よりも単純な約束事は彼女の記憶の領域外にはじき出されてしまったらしい。
みぞおちから腰にかけて衝撃が走るとともに胸元から「半兵衛さま!」とくぐもった声が聞こえる。春の野あるいは蜜飴みたいに甘やかな香りが鼻先をかすめ、廊下は走ってはいけないと小言を言うつもりだった僕の口元は情けなくも緩んでだらしなくなってしまう。

「どうしたんだい、そんなに慌てて」

「半兵衛さまが見えたから走ってきたの」

破顔。にっこりと僕を見上げるnameにこれ以上表情筋の緩んだ自分の顔を見られるのは嫌だったので僕はnameを抱きしめて彼女の顔を胸に埋め直してようやく「廊下は静かに歩くんだよ」と言うことが出来た。
子どもっぽい振舞いについて思うところはあれど、三成くんとnameのふたりを見ていると豊臣の未来に光が射す気がして、大阪の城にドタバタと響く足音や物音(三成くんがnameに斬りかかる音だったり、nameが足を滑らせて転ぶ音だったり)を遠くに聞くと不思議と不愉快な気持ちはしないのだった。
彼女が僕のお手つきだと噂する者は少なくなかった。手籠めにしてしまうのはきっと簡単だろうし、実際僕は彼女の全てを欲しいと願っている。知略謀略なんのそので籠絡してしまえばいいのだけれどそうしないのは、単純に関係に亀裂が入るのを僕が極端に恐れているからなのだった。だって僕はnameを幼い頃から手元においているし、年端もいかないうちから自分のいいように育て上げ、年頃になったからといってものにしてしまうだなんて、そんなのはあまりにも物語じみていて失笑ものだ。
戦場で三成くんと家康くんを両脇に据えて、今日も元気に戦場で駆けまわるnameは振りかかる血しぶきをものともせず美しい太刀筋で鮮やかに舞っている。目に宿る光はやや昂ぶっているせいか奇しく、けれど可憐だった。刃についた血を振り落として、高台から眼下を望んでいる僕と秀吉に大きく手を振ってきたので振り返してやると嬉しそうな笑みを浮かべたのが遠目でもわかった。
敵味方入り乱れる中で呆けたように手を振っている彼女が気に食わない三成くんは、nameに背後から斬りかかろうとした敵方の雑兵をいつもの三割増しぐらいの力で袈裟懸けに斬り倒し、なにやら説教のような言葉をnameに向かって怒鳴りつけている。
明らかな味方の優勢であり、大将首に一番近いのは家康くんだった。それを追うようにして三成くんがnameに背を向け走りだす。nameはなおも僕達の方を見ているので、僕は手にした刀の先を家康くんと三成くんの走る先に向けてやる。こくりと肯いて踵を返しかけたnameは「あ」と口を開け僕の指示には従わずこちらに向かって走りだした。風に乗って「name!貴様何処へ行く!」という三成くんの怒号が聞こえてきた。敵に背を向けるなど云々かんぬん。三成くんはnameのことをよく見ている。nameのことも、家康くんのことも。
nameは僕らのいる丘を迂回して登っているらしく、姿が見えなくなる。三成くんはしばらくnameの背を視線で追い、けれど追従は勿論せず(敵前逃亡など秀吉の嫌う最もたるところだ)、大将首というよりむしろ家康くんの背を目掛けて疾走した。

「これで決まりだね、秀吉」

「ああ」

左に立つ秀吉を仰ぎ見ると、秀吉はゆっくりと肯いた。その時傍らの茂みから短刀を振り上げた敵方の忍らしき者が姿をあらわす。僕は避けない。秀吉も然り。

「ただ今戻りましたー」

男の断末魔とnameが刀を鞘に納めたカチンという音がしたのは同時だった。首を掻かれ放物線状に噴き出した忍の血の向こう側からnameが帰陣する。顔にかかった血を手の甲で拭うも、既に乾いた血液がそこかしこにこびりついている。見苦しくはなく、むしろ稚児がひく紅、あるいは、奔放すぎる手習いで粗相をした子どものようで、彼女の笑顔も相まって、まるで遊びの延長で汚れただけといったみてくれだった。

「お疲れさま。よくやってくれたね」

nameに笑むと彼女は両腕をバッと広げて一歩を踏み出す。けれど自分の身なりの惨状をかろうじて思いだしたらしくしょんぼりと眉を下げて思いとどまった。そんな顔を見せられて僕が黙っていられるわけがないじゃないか。知らずにやっているのだから本当にたちが悪い。
「いいよ、おいで」と手招きすればお天道様も霞むほどの眩しい笑顔で飛びついてきた。
勝鬨があがる。秀吉が満足気に息を吐く。疲れを知らない三成くんはnameの姿が無いことに怒りの相貌で、矢のようにこちらに向かって一直線に戻ってくる。残された家康くんはのんびりと戦場を歩いていた。
その夜、皆いい具合に酒がまわっていた。秀吉はザルだし、それに合わせて飲んだ三成くんも潰れていた。彼のそのような姿を目にするのは珍しいので、nameは今が好機とばかりに三成くんの前髪を結んだり「うぅ」と呻いている三成くんの両頬をつまんで無理やりな笑顔を作って遊んでいた。後が怖いぞと笑う家康くんの頬は血色はがよく、目元が薄く染まっている。こうしてみんなが楽しそうにしているのを、肘をついて眺めるのが僕は好きだった。
酔ったー!と足元が覚束ないnameが廊下に出ようと立ち上がるのを見た家康くんは「わしも行く」と彼女が転ばないよう気にしながら隣りに立つ。「待て家康……まだ酒が残ってい、る……ぞ」床に突っ伏している三成くんが手だけを上げて差し出した盃を苦笑して受け取ると、家康くんはぐいっとあおいでnameの手を取り外へと促した。僕と目があうと小さく会釈をするので口を持ち上げてそれに応える。
家康くんか三成くんか、nameに相応しいのはどちらだろうかとこの頃考える。はたから見ていてふたりがnameに少なからず好意を抱いているのは見て取れる。家康くんは自らの気持ちに気付いているだろうし、三成くんは……言わずもがなだ。そして当のnameはと言えば男女間の機微など露ほども理解していないので、どちらに軍配が上がるかどころか双方未だ土俵の上にも上がっていないのではないだろうか。
僕はといえばそうやって一歩引いた大人の目線で彼らを見ることで僕はnameと一線を引いているつもりだった。
「そろそろ失礼するよ」と誰の耳にも入っていなくとも一応酔いつぶれた面々に断りを入れて中座する。広間を離れてもそこかしこで祝杯を挙げる人々の声がして城内は賑やかだった。顔を洗って、ようやく静かな自室に戻る。床に就く準備をしていると、聞きなれた足音がばたばたと近づいてきた。かと思ったら断りもなく障子が開けられ、半ば呆然とした表情を浮かべたnameが立っていた。廊下は走ってはいけないよ、と言い掛けた僕を遮ってnameは口元に手をあてよろよろと僕の元へ歩み寄る。脱力したようにへなりと座ると困った顔で僕を見上げた。

「あの、半兵衛さま、ええと」

「いったいどうしたんだい」

視線をさまよわせながら言いよどんでいるnameの身体を抱きよせる。酒の入った身体は火照ったように熱い。「これで落ち着くだろう」そう言って背中をとんとんとしてやると乱れていた呼吸が徐々に正常に戻る。しばらくしてふぅ、と息を吐いたnameがじっと僕の唇を見つめている。

「僕の顔になにかついているのかな?」

「いいえ、そうじゃなくて……」

あーとかうーとか唸りながらnameが口を開く。
つまり、端的に言えば家康くんにキスをされたらしい。「私がよろよろってなって、そしたら家康が転ばないように身体を支えてくれて、それで、気が付いたら背中に壁があって、家康がすぐそこにいて、それで、」だそうだ。「家康はなんであんなことしたのかな」と、もちもちとした頬を手のひらでこすりながらnameが言うので僕は「きみに好意があるからじゃないのかい」とヒントを与える。ヒントというか正解なのだけれど、nameは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で僕を見た。

「つまり家康が私を好きってこと?」

「つまりもなにも、十中八九そうだろうね」

家康くん、きみという男は。nameに相応しいのはどっちだろうなんて考えていたくせに、いざ彼女をとられるとなると僕の中には言いようもないどろりとした嫉妬心が首をもたげていた。いや待て、とられる?そもそもnameは一度だって僕のものであったことなどなかったじゃないか。長い時間を一緒に過ごしてきたけれど、共に在っただけであり、それはつまり親子あるいは兄妹のような関係だったということだ。甘んじていたのは自分なのに、その自分にひどく腹が立った。僕でさえまだ彼女の唇を知らないというのに!
知らず知らずのうちに顔が険しくなっていたらしい。nameが心配そうな目を向けたのでにこりと笑ってみせる。

「好きならそういうことをするの?」

ああそうだよ。僕は肯く。物語で読んだだろう。唇を重ねたり肌を重ねたり心を重ねたり、男と女は互いのありとあらゆるものを重ねたがるものなんだ。それでもnameは納得していない様子で首を傾げる。

「じゃあ半兵衛さまはどうして私にそういうことをしないの?」

「えっ?」

眉間に皺を寄せ、唇を曲げたnameに訊ねられ、僕は返事に窮する。というかきみはいったいなにを言っているんだい。
僕も秀吉も子どもの扱いには不慣れだった。きゃっきゃと跳ねまわるnameは僕と秀吉の手に余ったし、むっつりと感情を押し込めた三成くんのかたくなさにも手を焼いた。けれどどちらもひたむきでまっすぐだった。それは今でも変わっていない。nameの真っ直ぐさは僕には少し眩しい。今だって本心を隠し、どうやったらうまく煙に巻けるかばかりを考えているし、もっともらしい理由をこねくり回すのに余念がない。
けれど。月明かりに照らしだされたnameの顔を見ると、彼女はもう子供などではなく、ひとりの女だった。

「きみは僕にそういうことをしてほしいのかい?」

「はい」

そこはもう少し躊躇って駆け引きをするべき場面なのでは?という疑問はnameには無意味だったようだ。自分で言っておきながら、まさかここではいなんて言われるとは思っていなかったので僕はどうしたものかと考える。ここで唇を重ねてしまえばもう後には引けない。しかしここで引いては敵前逃亡そのものではないか?いや、けれど三十六計逃げるに如かずという言葉があるじゃないか。nameの肩に両手をかけたまま宙を睨んでいると「あっ」とnameが声をあげる。

「私が半兵衛さまを好きだから、私がするんだ!」

などと言うものだから僕は短く息を吸って、言うべき言葉を探す。

「いいかいname、唇を重ねるというのはだ、恋愛感情を抱いている相手にすることであって、親兄弟に対する愛情を持つ人間にするのではないんだよ」

「でも半兵衛さまは親でも兄妹でもないよ」

「そうだけれど」

清々しいほどの真っ直ぐさに頭を抱えたくなる。こんなことになるならば武芸にばかり力を入れず恋愛の手ほどきもしておくべきだった。それを今更悔いても仕方がないので、だったらここはこれまで同様他の誰でもない僕が責任を持って彼女に教えるべきではないのだろうか。そうだ、それがいい。などと往生際悪く自己弁護をしている僕の両頬にnameの手の平がバチンと触れる。「痛いよ」と言えば「力みすぎちゃった」と舌を出すので雰囲気もへったくれもあったもんじゃない。だから僕は彼女の頬をそっと包むとゆっくり顔を近づける。鼻と鼻が触れ合って、そして唇。目を閉じることもしないで僕を受け止めたnameは唇が離れるや否や僕の首に腕を回した。

「半兵衛さま、大好き!」

えへえへと締まりのない笑いを僕の胸のあたりで響かせているname。先ほど月光の中に見た美しい女はいったいどこへ。腕の中にいるのは奔放で屈託のない、僕の手に余る可愛いnameなのだった。
それにしたって家康くんだ。自ら土俵入りするとは。これからは気をつけなければいけないなと肝に銘じつつ、僕はnameの唇をもう一度奪う算段をたてはじめる。
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