2019

怖い夢を見た。息は上がって顔は熱いのに、冷たい汗で身体がぐっしょりと濡れていて不快だった。涙がほっぺたを伝ってぱたぱたと布団に落ちている。喘ぐように私は空気を吸う。外は激しい雨が降っていた。
秀吉さま、半兵衛さま。声にならない声で私はおふたりの名を呼ぶ。ここには居ないことは知っている。ここには居なくても、大阪には居ることも知っている。不安な気持ちが膨れ上がって私は嗚咽する。
夢。夢の中で秀吉さまと半兵衛さまは私を置いて、どんどん先へ歩いて行った。待って!といくら追いかけてもふたりは私の方を振り向きもせず、その先にある暗闇の中へ吸い込まれるように消え去ってしまった。後を追おうにもふたりをのみ込んだ暗闇はいつの間にか消えていて、私は途方に暮れてしまう。時々半兵衛さまの笑い声や秀吉さまの話し声が微かに聞こえてくるけれど、姿はどこにも見当たらない。秀吉さま!半兵衛さま!何度叫んでも無駄だった。遠い記憶の中で同じ思いをしたことがあるような気がする。死の気配のようなもの。身を切るような痛切な絶望が、虫の大群が米を喰らい尽くすように私の身体をびっしりと覆い蝕む。
助けて、三成!
私は破れた喉で叫ぶ。
乱れた夜着もそのままに、もつれる足で三成の部屋に向かう。障子を開けようとしたら指先が障子紙を突き破った。三成、三成、三成。叫ぶ声は雨音にかき消される。濡れた廊下で足が滑り何度か転んだ。痛みはなかった。心臓が破れそうで、苦しいのに喉が張り付いてうまく息ができない。
灯りの消えた三成の部屋の障子を押し倒しそうになりながら、息も絶え絶えに転がり込む。三成は布団の上に座って私を真っ直ぐに見ていた。

「何時だと思っている」

ごめん、と言う代わりにまた涙があふれた。前のめりに腕を伸ばすさまは、さながら現世で生者を探し惑う亡霊のようだった。倒れこんだ私を三成は受け止める。細いくせに、がっしりとした身体。
寝てたんじゃなかったの、と聞きたかったのに疑問は言葉にならずに私はひっく、としゃくりあげた。いまさらながらに少し恥ずかしくて、でもそれどころではなくて。三成に縋らなければそのまま夜の闇に蝕まれて息絶えてしまいそうだったから。

「怖い夢、」

見た。着物のあわせの部分から覗く三成の白い首に額を押し付ける。声に出したらまた夢の中でのそこはかとない恐ろしさが背筋を這い上がってきて、首を絞められたみたいに引きつった声が出た。「落ち着け」と三成は私の背中を撫でてくれる。あえて夢の内容は聞かない三成のやさしさ。
部屋は透き通った三成のにおいが満ちていて、そして私を抱きしめてくれる三成の胸元が私の涙で濡れたせいで、そのにおいは私の顔の周りでぐっと濃くなっている。なんという密度なんだろう。規則正しく私の背中を上下する三成の手の平の控えめな熱のお陰で私の気分は大分落ち着いた。
熱っぽい息を吐きだして洟をすすると、途端にバツが悪くなっていたたまれない気持ちになった。さっきまであんなに三成を求めていたのに、これだ。だって冷静になって考えれば夢は夢で、ただそれだけで、今この瞬間私たちが生きている現実には何の干渉もしないわけで。「悪夢に怯えるなど童のすること」と一刀両断されてもおかしくないのにそうしないのは、多分三成も同じような夢を見て、同じような思いをしたことがあるからかもしれない。
前に一度だけ、そんな三成を見たことがあった。額が真っ二つに割れてしまいそうなほど深く眉間に皺を寄せ、苦しそうな声で呻く三成を起こそうか迷っているうちに彼は目を覚まし、震える唇で私を呼んだ。かさかさに乾いた声は力なく、死んだ蚊の脚よりも細かった。あの三成の口からこんな声が出るんだなぁと呑気な感想を抱いていた私は、目の前で顔面蒼白になっている三成をしげしげと眺めた。今にも力尽きそうな腕が伸びてきたかと思うと、びっくりするぐらいきつく抱きしめられたので「うひゃあ」と間抜けな声が出た。深く吸われた息が私の首元で長く吐きだされる。「やな夢でも見たの?うなされてたよ」つるんとした髪を梳きながら訊ねると三成は子どもみたいな仕草で首を縦に振った。よしよし。そう言って三成の薄い背中をぽんぽんと叩くと、次第に呼吸は平静を取り戻し、そのうち寝息へと変わっていった。

「血が出ている」

三成は私の腕を持ち上げ眉を寄せた。どこかで擦ったのか切れたのか、一線が赤く滲んでた。迷うことなくそこに唇を寄せる三成の艶っぽい表情に私は嗚咽を忘れて息を飲む。ちゅ、と音をたてて唇が離れて、上目遣いに私を見る彼の視線にドキドキした。あれほど取り乱していたのに、こうして三成の部屋で三成の気配に包まれるとあっという間に普段通りに戻ってしまう。

「夢。秀吉さまと半兵衛さまが、いなくなっちゃう夢、だった」

「お二方とも大阪にいらっしゃる。先日半兵衛さまからの文も届いたばかりだ」

「えっ?!お手紙きてたなんて聞いてない!」

「言っていないからな」

なんで教えてくれないの、と唇を尖らせる。半兵衛さまからの手紙ならきっと私についての伝言もあったはずだ。nameは元気にしているか、とか、勉強を怠っていないか、とか。半兵衛さまの優しいお声を思い出して胸の奥があまく揺れた。半兵衛さまにまつわる全てはあまい香りをまとって私の胸に蘇る。会いたいと思った。半兵衛さまに、そして秀吉さまにも。

「離れ離れはさみしい」

昔は同じお城で暮らしていたのに。豊臣が巨大になるにつれ、どんどんおふたりは遠くへ行ってしまう。すぐ目の前にある背中を追いかけていればいいと思っていた。その先に幸せがあると信じていた。私も三成ももう子供じゃない。下知の合間を自分たちの力で埋めてゆかなければいけない。守るべき城もある。お前ならばと任せてもらったこの城を、三成は自分の命よりも大切にしていた。
それでも。目と鼻の先にあるかつて過ごした城での日々があまりにも心地よくて、未だに近江と大阪の距離に慣れることはできない。城の廊下をひとっとびすればいつだって会えたのに。今では数日かけて行かないといけないなんて。
さっきの悪夢と過去が混ざり合って溶けていく。三成の着物の裾を握って私は現実に推し留まる。呼吸を繰り返すごとに気分が凪いでゆく。心臓の音が、三成と重なり合う。

「寂しいなどと思う暇があれば、その時間を豊臣の御為に使え」

そう言って三成は私の身体を抱いたまま布団に横になる。

「一緒に寝てもいいの?」

いつもなら「貴様が居ると暑くて眠れん!」と言って布団から叩きだされるのに、今日の三成はどうしたんだろう。恐る恐る見上げると、長い睫毛の向こうにある金色の瞳が不機嫌そうに揺れた。

「部屋に戻してまた悪夢を見たからと再度起こされてはかなわんからな」

「……ありがと」

ず、鼻を鳴らした私の後頭部に三成の手が添えられる。

「翌月に秀吉さまと半兵衛さまが城にいらっしゃるそうだ」

「ほんと?!」

「誰が嘘をつくか」

やったー!と三成の首に手を回すと「先程まで泣いていた癖に」と掠れた声が耳元で聞こえた。吉継と左近にも教えてあげよう、と言おうと顔をあげたらすぐそこに三成の顔があって、しかも少し近づいたら唇や鼻が触れてしまいそうな距離だったから私は言いかけた半開きの口のまま固まってしまった。でも三成はその距離で私を見ている。綺麗な瞳に吸い込まれてしまいそうだった。

「ど、どうしたの。あの、目、そらしてもいい?」

許しを請わなくてはいけないほどに視線は強く私を捉えていた。私を見ていない時はもっとこっちを見てほしいと思うのに、いざ視線を向けられると恥ずかしくて、しかもこんな近くで、さらに布団の中となると一刻も早くどこか違うところを見るかあるいはもう少し視線を緩めてくれたらいいのにと思ってしまう私はわがままでとても面倒くさいやつだ。
瞬きをするのも憚られて目を開けていたら乾いてしまってひりつく眼球に涙が滲んだ。苦しいよ、三成。そっと首を絞められているみたいな息苦しさは不快じゃなくて、むしろ心地がよかった。だから私は目を閉じようとまぶたに入れていた力を抜く。

「許可しない」

三成の左手が伸びてきて私の眦に触れた。「私を見ていろ。ここに確かに在る現実を、」見ていろ。身体の中に流し込まれる言葉。唇が重なり、離れ、食まれる。

「み、つな、り……」

「私の部屋に来て正解だったな」

三成の前髪が私の顔にあたってこそばゆい。

「先に見たのは夢なのだと、存分に知るといい」

多分これからも同じ夢を私は見るだろう。あるいは三成も。忘れた頃に痛みを訴える臓腑のしこりのように悪夢は私達の中に巣食っている。遠く、大阪の方に目を向けて私は三成を受け入れる。雨はまだやまない。閉じ込められたまま、私達は肌を合わせる。決して離れないようきつく指を絡め合い、奥深くで繋がりあう。

「離さないで、」

どこにも、行かないで。内臓が押し上げられ涙が出た。悲しいわけじゃないのに、涙が止まらなかった。身体を包む浮遊感がまるで夢みたいで、熱くなった三成の生肌を直に感じているのに不安で仕方なくなる。涙が流れるたびに三成が吸いとってくれるので、そんな、普段見せない仕草も、嘘みたいにやさしくてますます不安になってしまう。だから私ははしたないとわかっていても欲しがった。もっと、もっと、奥に、奥まで。私の中に確かなものが欲しかったから。三成から放たれる熱と質量を持ったわだかまりが。私の中の闇に溶けて、やがては私達の腕の中にやってくる途方もない熱を想う。それを囲む面々の笑顔を想う。眩しさにまた涙が出る。

「離すものか」

荒い呼吸と混ざり合い、三成が紡いだ言葉に私は肯くことしかできない。雨はやまない。朝はまだ随分先らしい。障子が一閃明るくなり、西の方で雷鳴が轟いた。三成の頭を抱き、言葉にならない声をあげると、煩い黙れと言わんばかりに口を塞がれ歯列を割られた。膨張する快楽に全てが追いやられてゆく。もう何も考えられなかった。だから最後まで私の中に残り続けたものの名前を呼ぶ。

「三成、三成、」

濡れた吐息が肌を流れ落ち、三成は私を壊れるぐらい抱きしめる。現実が私の中に満ちてゆく。悪夢の気配は欠片も残っていなかったけれど、私がそれに気がつくのは汗で湿った布団に沈んだ頃だった。
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