2019

その夜夕食を済ませ、部屋で爪を切っていると携帯電話が鳴った。三成からだった。心は奇妙なほどに落ち着いているのに、沸騰するように膨れ上がるどきどきが私の胸を苦しくさせる。振動する携帯電話を手のひらに乗せてしばらくその甘い響きをす楽しんでいると、次第に振動の中に「何故早く出ないのだ」という声にならない怒りがにじみだしたような気がして私はあわてて通話ボタンを押して耳にあてる。

「もしもし」

「次に会えるのはいつだ」

電波の砂粒の中から浮き上がってくる三成の声に耳を澄まし、「いつでも。暇なの知ってるでしょ」と笑う。「ではまた今週末同じ時間に」というや否や電話は切れた。一方的だなぁ、という私の呆れた声は宙ぶらりんのままゆっくりと床に落ちてゆく。
文字を打つのは面倒だからという理由で三成は電話を好んだ。といっても彼が長電話をするわけもなく、端的な用事、母が煮物を作りすぎたので今から持っていく、だとか、家族旅行に来ているが土産は何がいい、だとかのごく短い要件を伝えるツールとしてのみ携帯電話は私と三成の間で存在していた。単純で、とてもいいと思う。穿つこともせずてらうこともせず、そういう会話のできる人間が身近にいるということは幸せだ。
布団の中で三成の友人について考える。私の知らない十年を知っている友人二人。顔も知らぬ三成のお見合い相手(だった人)よりも、彼の友人二人に対して私は少しだけ嫉妬した。幼稚な独占欲なんかではなくて、彼の成長や日々の言動を当然のごとく目の当たりにして同じ場所で一緒に生活をしていたことに対しての、いわば羨望だった。
月曜から金曜まで、求人雑誌に目を通し、目ぼしい職場にボールペンで丸をつけてはコタツの中にもぐりこむという自堕落な生活をつつがなく送り、迎えた土曜日の朝。「なにあんた朝っぱらから化粧して。もしかして、デート?」と完全に野次馬モードの母親に「ほっといてよ」とつっけどんに返してしまい、これではまるで反抗期の十代みたいじゃないかと鏡に映った明らかに十代ではない自分の顔にげんなりしつつも必死になって化粧水をはたき込む。「デートかどうかなんて、私が聞きたいよ」と呟いたらビューラーでまぶたを挟むという初歩的なミスを犯して私は涙目になった。
なんとか時間内に支度を終え家の前で待っていると、前回同様五分前行動厳守の三成が姿を現す。今日は車ではなく徒歩で来たらしい。

「今日はどこに連れて行ってくれるの」

「私の家だ」

「家」

「そうだ、なにか問題があるのか」

「ない、です」

私の家と三成の家は徒歩五分ほどの距離だった。白塗りの土塀沿いを歩くと現れる立派な数寄屋門。屋根の上を横切る松の木を見上げながら、ここに来るのも久しぶりだなぁなんて感慨に耽っていると、三成は格子の引き戸に手をかけさっさと中に入っていくので感慨も感傷もあったもんじゃないと私は彼の後を追う。「お邪魔します」声が少し上ずったのは正澄くんと彼の奥さんのものと思しき靴が三和土に並んでいるのを見たからだ。正澄くん、三成に変なこと言ってないといいけど。石田邸は年月を重ねてなお重厚な佇まいをしている。手入れが行き届いているので古さを感じないし、むしろそれがかえって趣を醸し出している。おばさんとおじさんに挨拶をしに行こうと思ったのに、三成は長い廊下の向こうにあるリビングに向かおうとする私の腕を引いて階段をのぼる。「ねぇ、挨拶ぐらいしないと失礼じゃん」と抗議する。「見つかると落ち着いて話せない」だそうなので、あー、と納得して彼に従った。
三成のお父さんもお母さんも、ついでに正澄くんも、三成と似ても似つかぬ陽気さなのだ。陽気というか、気さくというか、社交的というか。いったいどうして三成がこうなったのかと不思議に思わなくもないけれど、三成の寡黙でやや排他的な部分も含めて「それが三成のいいところ」と包み込む彼の家族の優しさと寛容さは少なからず三成の救いであったのではないだろうか。結果として根本的には真っ直ぐな性分であるし、自分の中で大切にしているものをずっと大切にしたままここまできているのだから。
なにかと口を出しがちな自分の母親を思えば、一歩引いて見守る三成のお母さんが羨ましい。まったく今日だってデートか、なんて聞いてくるし。違ったらどうすんのよ。いや、これはデートなのだろうか。そもそもデートって付き合っている男女がするものであって私と三成は……。前回結婚の文字は出たけれど、だったらそれは付き合っているということでいいのだろうか。つまり、えーと、これはもしかしていわゆる「お家デート」なのでは。
三成の部屋はなにも変わっていなかった。椅子が変わりこそすれ、小学生のころから使っていた机も、本棚も、満ちている空気も。

「ベッドに変えたの?」

部屋の隅に大きなベッドが置いてある。ああ、と言うと三成は眉間に皺を寄せてため息を小さく吐いた。

「兄が勝手に買ってきた」

「さすが正澄くん」

「私は布団の方が好きだ」

「うちの縁側で干してた布団でよく転がったまま寝てたもんね」

ふふ、と笑いがこぼれた。太陽の光が透けた、やわらかな三成の髪の毛を思い出す。私も三成も日なたくさくて、あたたかくて、幸せだった。
小さかった時の三成を思い出してにやにやしている私を三成がじっと見ていた。「ん?」と首を傾げると、三成はベッドに腰かけ目を細める。隣に座っていいのかわからなかったのでとりあえず床に腰を降ろしてベッドに背中を預けた。

「私はお前とこれからを生きたいと思っている」

「それは、」

着いて早々の唐突な言葉に面食らってしまう。

「共に過ごした過去をnameが慈しんでいることは知っている。幼さ故の甘えが為に十年という長い年月を失った後悔も多分にある。だがお前が私の知らぬ地で誰とどう過ごしてきたのかなど私には関係ない。お前が、nameがここに戻ってきたこと、それが私にとっての全てだ」

「……私はね、怖かったよ」

「何がだ」

「なにも変わってない自分を三成に知られるのが」

「それはいけないことなのか?」

組んだ手を太腿に乗せた三成が私の隣に座り直す。三成の、こういう不意に距離を詰めてくるところ、心臓に悪いからやめてほしい。「いけないかいけなくないかは、わからない。でも、少なくとも三成は十年分前に進んだでしょう?私はここを離れたあの日からこれっぽっちも前になんて進んでないの。ただ無為に時間を過ごしただけ」「では何故戻ってきた」「それは」言い淀むけれど、全てを白状するまでは許してくれそうもない雰囲気だった。

「三成に会いたかったから」

「ならばどうして戻ってすぐ顔を出さなかった」

三成は語気を強めて結んだ唇を解くと、「お前からではなく、兄からお前が戻ったことを告げられた私の気持ちがわかるか?」と噛み締めるように言った。「それは、ごめん」本当に、としょげた私に三成はさらなる追い打ちをかけてくる。

「私に会ってどうするつもりだったのだ?」

「どうって……。どうするつもりもなくて、でもしいて言うならケリをつけたかったのかな」

「ケリとは」

攻めの手を緩める気配は皆無らしい。こうなった三成は自分の納得する回答を得られるまで、相手を壁際ギリギリに追いつめて尋問よろしく問い詰めるのだ。薄い唇は的確な言葉を紡ぎ、鋭い視線は私の挙動の一切を逃さない。全ての意識を私が次に発する言葉に注いでいる。

「三成への気持ち?」

「聞くな」

「三成への気持ち」

「どういった」

「えー……この前言ったじゃん」

やだよ二回も言うの、恥ずかしい。と私は身体の向きごと三成の視線から逃れる。言うまでもなくむんずと肩を掴まれ「言え」と凄まれるも、やだってば、と四つん這いになって部屋の隅に退避した。

「もう逃げるのはよせ。無駄だ」

数メートル離れているのに、コンマ一秒のタイムラグもなく私の耳に届く三成の声。自分自身に対する揺るぎない自信を湛えた三成の目。失いたくないし、誰にも渡したくないと今さらながらに強く思う。

「じゃあ私はどうしたらいいの?さっき三成が言った私とこれからを生きたいって、つまりどういうことなの?」

「……」

沈黙は反逆の狼煙だ。わかっているけれど、言葉にされなければそれはあまりにも不明瞭で、信じて縋るには脆すぎる。十年前「そうか」のひと言で断絶された過去を、今、他の誰でもない三成の言葉で現在とつなぎ合わせてほしかった。

「おねがい、言ってほしいの」

恥ずかしいことを口にしているのは重々承知だ。こんな懇願じみた台詞が似つかわしくないことだってわかってる。でも、確かなものが欲しかった。形も重さもな実態もない、けれど私を心の底から安堵させてくれるもの。それは言葉なのか、それとも体温なのか。

「なんと言えばいい」

「マジか……そこは三成が考えてよ」

「nameは私に何と言ってほしいのだ」

ビシッとバシッと、と言っていた正澄くんの声が脳内に浮かび上がる。三成ならビシッとバシッと決めてくれると思ったのに。
なんと言ってほしいのか、と訊かれれば私は胸中にある、口の裏側をかみしめたくなるような甘酸っぱい言葉を三成に告げなければならないし、この前のことがあっての今日なので、勢いに乗じて言ってしまうというわけにもいかず私は考え込む。首をひねっていると三成が立ち上がり私の前に胡坐をかいた。普段よりも拳二つ分ほど近い距離に、三成の喉仏がくっきりと見える。見上げなければ目を合わせることができなくて、私は薄い皮膚の下でひっそりとたたずんでいる白い骨を見つめていた。
結婚してほしい、とか、愛している、とか、私にはお前しかいない、とか。どれも正解で、不正解だった。目を閉じるのと同時に、身体が自分のものではない体温に包まれる。控えめに回された腕に抱き寄せられ、私は頬を三成の胸元にそっと押し当てた。あぁ、欲しいのはこれだったのだと、安堵のあまり脱力してしまいそうなほどに私は思い知る。足りなかったのは心の内を言葉できちんと伝えるということだったはずなのに、体温はそれを凌駕して私たちふたりの距離をゼロにし、そしてどこか隙間に潜り込んだままだったパズルの最後の1ピースが嵌まるようにして私と三成の関係を完全なものに変えた。静かな呼吸はやがて重なってひとつになる。真夜中のそれとはまた違った真昼の静寂が揺蕩う部屋で、私たちは初めてのキスをした。
ベッドの上で脚を投げ出した私と、胡坐をかいた三成はふたりして壁に背を預け、これまで互いが互いの生活に不在だった期間にあったことをとりとめなく話した。三成のふたりの友人について(「必要とあらば後日紹介する」と三成は言った)、私の会社の日当たりの悪さ、よく行った駄菓子屋さんが閉店したこと、美味しいコーヒーを淹れる喫茶店が私のアパートの近くにあったこと、通っていた小学校の体育館の屋根の色が変わったこと。半分以上は私が喋っていたけれど、そんなことは気にならなかった。時々三成は笑っていて、彼のささやかな笑顔を見るたびに私は三成の目元にそっと手を伸ばした。すると三成は私の手を取り、形を確かめるようにして握ったり重さをはかるみたいにして手の平同士を合わせるのだった。「そういえば三成の手ってあったかいんだった」「他人の手と比べたことはないが、生きている人間ならばそれ相当のあたたかさはあるに決まっている」「そうだけど。見た目が冷たいから勘違いしがちなんだよね」指と指の隙間を埋めていると、視線を感じたので顔をあげた。

「家を出ることにした」

「またそうやって唐突な話題を」

「正確に言えば大阪に引っ越す。なのでお前も一緒に来い。仕事も何もしていないのだから都合がいいだろう」

何も説明されていないんですけど。どうせなにを言っても三成の中ではもう決定事項なのだろうからとりあえず私は説明を求めた。曰く、家業である会社の大口取引先の社長に気にいられ引き抜きの話が出たらしい。どのみち今の社長は正澄くんなのだし、三成も年齢的になにか新しい道を模索しているさなかの出会いだったので、数度面談という名の食事会をしたうえでいずれ時期が来たらということで双方了承したのだった。ともかく社長が三成の実務能力を高く買っているらしく、私にはそれが誇らしく思えたし、なにより「あの方こそ私が目指すべき背中である」と言い切った三成の瞳の奥で熱い光が束の間放たれたのを見て、この先彼の道が大きく切り開かれるであろうことを予感した。
が、それとこれとは別の問題だ。

「それって私も大阪に行って三成と暮らすってことだよね」

「当然だ」

「簡単に言ってくれるねー」

「簡単なことだ」

言っただろう、逃げられない、と。三成は事も無げに言う。どうしよっかなー、とわざと渋る私に「嫌ならば嫌と言え」と三成は唇を曲げた。答えなんて決まっている。

「嫌じゃない」

三成に抱き付きやわらかな髪に頬ずりをすると、ぐるりと世界が反転した。背中はふかふかのベッドに抱き留められて、見上げた先には三成の顔と天井。私を見下ろす彼の眼差しが真剣で、たじろいだ。

「私はお前と幸せになる、そう言ったな」

「い、言ったよ」

まさかその話を蒸し返されるとは思わなかったので思わず私は赤面した。

「ならばname、お前は私と幸せになれ。失った時間など些末なものと思えるほどの時を共に過ごせ。いいな」

「ねぇ三成」

「なんだ」

「もうちょっとわかりやすいのがいい」

「……」

三成は束の間思案して、眉間の皺を深くすると薄い唇を犬歯で噛んだ。噛み痕があまり血色の良くない彼の唇に白く残る。細く長く息を吸うと、三成は一度しか言わん、と前置きをして口を開いた。

「私と結婚してほしい」

今度こそビシッとバシッと決めてくれた三成に私は肯いてキスをした。触れるだけのキス。唇を離して三成を見ると、いつもは白いはずの頬の血色が嘘みたいによくなっていて、逆にこっちが恥ずかしくなる。「了承したのならば、はいと言え」誤魔化すようにむんずと両頬をつままれ私は「ひゃい」と返事をした。甘い気配は立ち消えて、離れているとはいえ同じ屋根の下に三成の家族がいるのでそれ以上のことには及ぶわけもなく私たちはだらだらと部屋で過ごしていた。お部屋探検と称してベッドの下を覗いたり本棚の奥を漁ったりしたけれどエッチな本が出てくるはずもなく、それよりも引き出しの中にやっぱり入っていたスチールの定規を見つけて私は喜んでいた。使い込んだ証拠として表面は無数の細かな傷でくすんでいる。

「人の部屋を無断で漁るな」

三成は定規を私から取り上げ引き出しにしまう。キャスター付きの椅子に座った私の背後に立っている三成を仰け反って見上げると、隠れている額が良く見えた。良い角度。もっといろんな角度で三成を見たい。もっと、いろんな三成を知りたい。原始的な欲求に肌が彼を求める。

「早急に部屋を探さねばな」

伸ばされた私の腕を受け止めて三成が言った。触れ合った部分から彼もまた私を欲していることがわかる。手をつなぐだけではもう満足できない生き物になってしまった。その先があることを知っている。でもそれは今じゃない。必ずやってくるであろうそう遠くない未来の出来事を思うと、胸の奥が甘酸っぱく疼いた。

再び桜が綻ぶ季節、私と三成はクーペを背に両家の家族とあいさつを交わしていた。

「それじゃあ行ってきまーす」

「落ち着いたら是非いらしてください」

えいえいおーをするように右手を突き上げた私とは対象的に、殊勝な態度で頭を下げる三成。「三成くんなら安心だわぁ」「nameちゃんなら三成もちゃんとしそうね」なんて言い合っている母親を尻目に私は助手席のドアに手をかけた。同じだけど、違う。違うけど、同じ。私と三成のいく場所は同じなんだ。ガソリンメーターは満タン。大阪なんてあっという間だ。

「ヤダちょっと、うちのお父さん泣いてんだけど」

「窓を開けるぞ」

運転席側から操作をして開けてもらった窓から上半身を出して「またねー」と男泣きしている父に手を振る。「他に言うべき言葉があるだろう」と右側から叱られたので「三成と幸せになるからねー」と大声を出すと父を差し置き母親ふたりの盛り上がりは最高潮に達した。楽しそうで何よりだな。半ば呆れ顔の三成はあいさつ代わりのハザードを数回焚き、アクセルを踏む足に力を入れた。遠ざかってゆく私たちの生まれ育った場所。少し寄り道をして駅のあたりから高速に向かう。

「三成、好きだよ。ずっと一緒にいようね」

「……フン」

赤信号が青へと変わる。三成の長い睫毛が微かに揺れた。クーペは私達を乗せ、湖沿いの道へとエンジンを唸らせ進んでゆく。まだ見ぬ私たちの、未来への道を。
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