2019

(現パロ)

流れてゆく車窓を眺めながら、私はぐんぐんと自分がほかの誰でもない自分に戻ってゆくのを感じる。午前9時半をまわった空は快晴だ。天頂の濃い水色は連綿と連なる山の稜線にかけて緩やかに白く淡くグラデーションを描いている。目を凝らすと、うっすらと白い月が残っていた。
ごおっという音と共に電車がトンネルに入る。打って変わった暗闇に映し出された自分の顔はひどく疲れているように見えた。そう、私は疲れていたんだ。

──「そうか」私が地元に戻らず就職を決めたと伝えた時、三成はそれしか言わなかった。そして「よかったな」と。私はうんと頷いた。特別遠いわけでもないし、会おうと思えば会える距離。それでもお互い顔を合わせる機会はどんどん減っていった。忙しい、その一言に尽きるのだけれど、やっぱりそれは言い訳だった。たぶん、変わってしまった私自身を見た三成に減滅されるのが怖かったんだと思う。そして、変わってしまった(かもしれない)三成を見るのが怖かったから。
三成の家は地元ではそこそこ名の知れた会社を経営している。代々からの土地の人間らしく、大きな敷地に日本庭園付きの古めかしくもそれがかえって箔となるような立派な家屋を構えている。母親同士仲が良かったことがきっかけで、というかただのご近所なんだけれど、私と三成はうまれた時からの仲だった。いわゆる幼馴染。お互いふにゃふにゃの赤ちゃんだった時にふたりして大泣きしている写真が両家のアルバムに貼ってある。酒の席ともなれば何かにつけて母親ふたりがその写真について嬉しそうに話すので、はじめのうちは恥ずかしくて「やめてよ!」と本気で止めたりもしたけれど、何とも思わなくなるのにそう時間はかからなかった。かくいう私と三成も凸凹コンビというか、まあそれなりに、いや結構、ウマが合ったのだ。
自分が良しと思った相手以外には極端に冷たい態度をとるし、だれかれ構わず正論を振りかざす(しかも容赦なく)性格に加えてあの眼つきの悪さなので、当然三成はまわりの子供に嫌厭されていた。悪いやつじゃないのにもったいない。私はいつもそう思いながら教室で本を読みふける三成の背中を眺めていたものだ。本当は優しくて、まっすぐで、淀みのない心の持ち主なのに。でも私だって元からの知り合いじゃなかったら「うわ、なにあの眼つき悪い人……しかも怖いし言い方キツいし」とだけ思って、あとは当たり障りなく接するだけだったに違いない。だから他の人間に対して努力をしてまで三成のことをわかってあげてほしいと思ったこともなければ、三成が他の人間に対して理解をし、歩み寄ってくれたらいいのにと思うこともなかった。わかる人だけわかればいい。それだけだった。そして、それは私だけでいい、とも。
傲りだったのかもしれない。私は誰よりも、いっそ三成自身よりも三成のことを理解している、なんて。そんなこと、ありはしないのに。
ともかく私たちは幼い頃から多くの時を共に過ごしてきた。だというのに離別はあまりにもあっさりとしていて。それはもう驚くほどに。だから就職の際地元に戻らなかったのは、ほとんど三成への当てつけだったといっても過言ではない。べつにいいんでしょ、私なんかいなくったって。はじめは小さな意地だったのに気が付かないうちにどんどんと大きくなり、それはいつしか、心の中からどかそうとしても自分ではもうどうしようもないぐらいの巨大な岩になり果てていたのだ。
全てを打ち壊したのは正澄くんからの一本の電話だった。「元気にしてるか?お前全然こっち帰ってこないし、三成に聞いても知らんとしか言わないしさぁ。嫁さんの手前俺からお前にしょっちゅう連絡とるのもアレかなと思って」朗らかな声の持ち主である三成のお兄ちゃん、正澄くんは四年前にお見合いで結婚をした。三成とは正反対の明るくて社交的な性格の正澄くんは、実家の会社を継いで若社長をやっている。お嫁さんをちゃんと見たのは彼らが結婚した年に一度きりだったけれど、あまり印象に残らない普通の人だったような気がする。あの時、結婚という、謂わばひとつの人生のゴール地点に到達するのなんか自分にとってはまだまだ先だと思っていたので、彼の結婚に関してはただ純粋に「おめでとう」という気持ちが沸くのみだった。これ、おれの嫁さん。と紹介するときの照れたような正澄くんの顔や、その隣で少し居心地悪そうに小さくなっていたお嫁さん。当然三成もその場にいた。普段と変わらないそっけなさで。弟としての振舞い、例えば茶々を入れたり間を取り持ったり、は当然なく、彼は始終無言で畳の縁を見ていた。お嫁さんの顔はろくすっぽ覚えていないくせに、そんな三成の些細な動作や表情ばかりをはっきり覚えている自分に呆れてしまう。どれだけ三成のこと好きなんだよ、と。そう。私は三成のことが好きなんだ。しかも救いがたいまでに。

電車がホームに滑り込む。ここまで新幹線を使えば早かったけれど、今回は在来線だけでやってきた。新幹線で来るにはあまりにもあっけない気がしたし、気持ちの整理をしたり心の準備をしたり、とにかく自分と向き合う時間が欲しかったのだ。
なんのとりえもない私は大学を出て小さな会社の事務として働いていた。やりがいなし、目的なし、出会いなんて勿論なし。満員の地下鉄の空気の悪さといったらない。毎日飽きるほど乗っているというのについぞ慣れることは無かった。それとなく流れる日々の中で生きる目的すら見失いそうになりながら、それでもなんとかやってこれたのは地元に帰れば三成がいるという心の絶対的安全地帯があったからだ。地元になんて戻るものかと決めていたくせに想うのは故郷と三成のことばかりで。そんな矛盾を抱えながら身を削って労働にいそしむ日々だった。
正澄くんから聞いた三成のお見合い話を「そうなんだ」「よかったね」と流して終わらせることだってできたのにそうしなかったのは、そうしなかったどころかこれまでの数年間を無に帰してまで地元に戻ったのは、やっぱり何かしら自分の中で決着をつけておきたいことがあったのかもしれない。見苦しくも想いを告げて決着もとい玉砕するのか、それとも想いは秘したままようやく対峙した自分の気持ちを葬り去って祝福の言葉を彼にかけるのか。
どっちを取ればいいのか私にはまだわからない。
都会からはずいぶんと離れてしまった。山頂にまだまばらに残る白い雪。間違って切り落とされてしまったみたいな形をしたあの山の雪が全部消えるにはもう少し時間がかかるだろう。なにせ今年は寒かったから。
ついさっき見た光景を思い出しながら、私はゆっくりと息を吐いた。遠くに見える山々。私を乗せた電車は気持ちのいいリズムでぐんぐんと進んでゆく。田んぼを抜け小さな踏切を幾つも渡り、段々と民家が増えてゆく。あとひと駅。無意識のうちに奥歯をかみしめていた。大きめのトートバッグと小さなショルダーバッグがひとつ。十年近く住んでいた場所にさよならをした私の、全ての荷物がこの中に入っている。地元から引っ越すときの方がよっぽど大荷物だった。あれもこれも。どうにかして新しい場所を馴染みのもので埋め尽くそうと躍起になっていた。でもどれだけ見慣れたもので部屋を飾ったって、決定的に何かが足りなかった。
何か、なんて考えるまでもない。三成が、に決まっている。
隣に三成のいない年月の何と無為だったことか。全部が嘘みたいに色褪せていた。楽しいのは皮膚の向こう側だけ。なにもかもは私の肌を撫でるだけで素通りしていった。
ずっと昔にふたりで分け合いっこをして食べた動物ヨーチの薄い緑や黄色や桃色が、閉じた瞼の裏でぺかぺかと輝いていた。どうしようもない夜、もそもそとした舌触りのあのビスケットを私はひとりで食べながら、携帯電話を手にしてメッセージ画面に文字を打っては消してを繰り返した。元気?調子はどう?打つたびにこんなんじゃない、と携帯電話を放り投げそうになりながら。そして、間違っても送信ボタンを押してしまわないよう、細心の注意を払いながら。結局何も送れないまま何度眠りについただろう。
「三成にさー、見合いの話がきてるんだよね。しかもマジなやつ」正澄くんは言っていた。「nameにも見て欲しくって。いや、兄貴としてもなんか心配でさ。お前ならズバッとビシッと言えるだろ?」ズバッとビシッと、の部分で人差し指を突き出している正澄くんの姿が容易に想像できた。「私なんかが大事なお見合いの話に首つっこめるわけないじゃん。しかも、もうずっとまともに話してないのに」それに、彼女だったことすらないのに、と心の中で付け足す。この数年は一年に一度顔を合わせる程度だったし、会えば会ったで話しはするものの、決定的な部分を意識的に避けたような会話ばかりだった。そのかわり昔話にばかり花が咲いた。話題が過去にのぼるとするすると時間が巻き戻ってゆく。過去は心地がいい。決して変わることがないから。
ホームに降りて、走り去ってゆく電車を背に私は深呼吸をする。帰ってきたんだ。数年前に綺麗になった駅にまだ馴染めない。タクシーを拾って乗り込む。この駅前も、三成の運転する車の助手席に乗って何度も通った。私が地元を離れたあの日も、ここまで一緒に来てくれたのは三成だった。
見慣れた道をタクシーは走り、我が家の砂利敷の駐車場にがたごとと乗り入れる。料金を支払ってタクシーを降りた私は、覚悟を決めたはずなのに内臓をすっかり漬物石に取り換えられてしまったみたいなどんよりとした気分だった。
仕事を辞めたこともこっちに帰ってくることも、予め伝えていなかったためその日我が家はてんやわんやの大騒ぎだった。母は怒りながらも私の部屋の掃除を手伝ってくれたし、いわずもがな父は隠すこともなく大喜びだった。なにせ父は私が地元を出ることに大反対だったからだ。当然、寂しいから、という理由だけで。何だかんだで三成の家に行きそびれてしまい、そうなると一世一代の決心だったにもかかわらずどうしようもなく気持ちがくじけてしまって、今さらどんな顔をして「帰ってきちゃったんだ」と三成に会えばいいのかわからなくなりそのまま数日間を無駄に過ごしてしまった。家同士は近いのだから、行こうと思えばいつだって行けるのに。買い物に行くときはばったり出くわさないように全力で祈りながら俯いて歩いた。それでもその間、私は視界のどこかに三成がいないか、常に全身の神経をアンテナみたいに張り巡らせているのだった。
一週間が経ち、そろそろこっちの生活にも慣れてきた私は求人情報誌を縁側でペラペラとめくっていた。ごろりとねっころがった私に春の日差しが降り注ぐ。祖父母の代から住んでいるこの家は古くてあまり好きではないけれど、この縁側だけは別だった。布団も干せるし、なんならその布団の上で昼寝なんてしようものならそれはそれは極楽浄土のような寝心地なのだから。昔はここで三成とよく昼寝をしたものだった。母に見つからないよう、こっそりと。ふざけて布団にくるまった私が顔だけ出したのを見て、三成が笑っていたっけ。三成の笑顔は素敵だ。基本的にあまり笑わないし、笑ったとしても笑顔というより嘲笑のように見えがちだけど。彼の引き結ばれた薄い唇がたまにふっと綻ぶと、私はとても幸せな気持ちになった。
春うらら、胸の中まであたたかくなって私はいつの間にか舟をこいでいた。がくん、と頭がさがった衝撃で目を覚ますと、誰かが私の隣に腰かけていた。

「起きたか」

「っう、わぁ」

素っ頓狂な声をあげてがばりと起き上がった私の目に映っているのは紛れもなく三成だった。なんで三成がここに。いや、私が戻ってきたという情報は遅かれ早かれ石田家に伝わるに違いないのだけれど、まさか三成本人が事前に連絡もなくやってくるなんて。
ゆるりとぬるい風が私と三成の間をながれる。満開の梅の花と、足元に植わった水仙があまい香りをあたりに漂わせていた。なにか言おうとしても、春のぼんやりとした空気が私の頭の中に満ちていて、それでなくても寝起きの頭はほとんど機能していないのだ。半端に口を開いたまま、しかもすっぴんで着ている服は色気もへったくれもない高校の時のジャージといういでたちの私を、三成は相も変らぬひんやりとした目でじっと見ている。

「どうしてすぐ家に来なかった」

「……えっと、あー……生理だったんだよね」

我ながらばればれの嘘だった。それなのに「生理痛ひどくて」と半笑いでさらなる不要な情報を付け足した私に、三成は表情一つ変えず「そうか」と返した。おずおずと三成の隣に腰を降ろした私は、覗き込むように三成の横顔を窺う。縁側に腰かけた三成は猫背気味に膝のあたりで手を組んで、椿の根元をぐるりと囲むように落ちた花びらのあたりに目を向けていた。
彼の纏う雰囲気というか空気は、びっくりするぐらいなにも変わっていなかった。はじめこそ動揺したけれど、三成の隣はやけにしっくりと私に馴染んでいて、ここを離れていた間にずっと自分の中にあった「私のいるべき場所はここではないのだ」という違和感は知らぬ間に遥か彼方へ消え去っていった。終わりなく続くと信じていた日々の、まるで続きの時間を生きているように思える。

「お見合いするらしいじゃん」

私がそう言えば、三成は心底くだらなそうに鼻を鳴らした。私は彼がなにか続きを言うのを待ったけれど、しばらくたっても一向に口を開こうとしないのであきらめて求人雑誌を手でいじくりまわした。お見合い相手の女の人はどんな人なのだろう。三成の両親が見つけてきた人なのだから良妻賢母の素質たるや私なんかとは比べるまでもないに違いない。そんでもって美人なんだろうなぁ。
nameは美人じゃないけどユニークな顔だよな。ずっと昔に正澄くんが言った言葉だ。三成も静かに首を縦に振っていて、美人ではないことは自覚している私としてもさすがに心底いたたまれない気持ちになったのだった。ふたりに悪気がないことはわかっていたので責めはしなかったけれど、仮にも女性に対して言っていいことといけないことがあることをはたして彼らはこの十年余りで学んだのだろうか。

「どうして急に戻ってきた」

「どうしてって。まぁ、色々」

言葉を濁した私に三成は不服そうな顔をした。昔みたいに何もかもを打ち明けるには、私たちはいささか年月を重ねすぎていた。

「ずっとこっちにいるのか」

「質問攻めだね」

「悪いか」

「悪くないよ」

私は笑う。「何がおかしい」と眉間の皺を深くした三成をよそに、両手を縁側の床板について私は足をぶらぶらさせながら空を仰ぐ。
いったい今はいつなんだろう。ここにいるのは何歳の私なんだろう。三成がいなかった時間が私の中からすっかり消えてしまっていて、巻き戻った時計の針はさよならをする前の日を指しているような気がした。あれも三月の、同じぐらいの時期だったからだろうか。でもそうじゃない。今は今だ。兄妹みたいにくっつきあっていた私たちは、もうずっと前に別々の道を歩み始めていた。それがわからないほど馬鹿じゃない。
あの時変な意地を張らなければ、地元を離れなければ、たとえ離れたとしてももっと早くに戻っていれば、強がらずまめに三成と連絡を取るなり会うなりしていれば。いまさら後悔の波が押し寄せてきて、私は笑いながら泣きそうになった。「お前は素直じゃない」いつか三成はそう言っていた。三成もね、と同じように返したっけ。

「ね、ちょっとドライブ行こうよ」

「生憎週末まで空きがない」

「じゃあ土曜日の朝9時半に迎えに来て」

お見合い前なら浮気にはならないよね。とは聞けなかった。三成は真面目だから。彼の中で線引きがされているのならここで断られるだろう。小学生が遊ぶ約束を取り付けるぐらいにはさらりと言ったつもりだったけれど、内心私はどきどきしていた。
三成の長い指が解ける。「わかった」予想外の二つ返事で三成は腰を上げた。

「ではまた土曜に」

私の真ん前に立った彼はこちらを見下ろして一瞥すると、くるりと踵を返して庭の角を曲がっていった。遠ざかる背中は、変わらずの猫背だった。
土曜日までの数日間で梅は盛りを過ぎ、代わるようにして桜のつぼみが大分やわらかく膨らんでいた。春の乾いた、けれど雪解けや伸びた青草の瑞々しさを含んだ空気はいぶく生命の濃度を濃くし、田を耕すトラクターがそこかしこの道路に泥のあとを残して田植えの季節がそう遠くないことを示していた。おこされた田畑へ多くの鳥が虫をつつきにやってくるのを横目に、私はあてもなくぶらぶらと散歩をして過ごした。開発が進む駅前に比べ、多少景色は変わろうとも私たちの家があるあたりはそうたいした変化もない。ただただのどかなだけの風景。
土曜日は快晴だった。約束の時間五分前に玄関のチャイムを鳴らした三成は律儀に私の両親に挨拶をし、母親から持たされたであろう手土産を手渡していた。三成の車は白色の外車だった。車など乗れればなんだっていい。免許を取った時、そう言っていた。
物に頓着のない三成の持ち物のほとんどは親から与えられたものだった。車も、服だってそうだ。「たまに俺が服選んでやんないと、あいつカッターシャツかタートルネックかそんなのしか着ずに一生を終えそうでさ」と正澄くんは眉を下げていた。自分の親の(今は正澄くんの、だけど)会社で働いているのだから、親が買おうが正澄くんが買おうが三成が買おうが財布的には変わりないのかもしれないし、彼の母親の服にセンスに関してはまったく問題はないのだけれど成人男性として果たしてそれでいいのだろうか。金持ちの考えることは私にはよくわからない。でもきっと三成は、親が車を買い与えなかったならばどこかへ行くのだって自分の足で歩いてどこまでも行ってしまいそうだったし、服だってとんでもないセンスのものを平然と着ていそうだった。要はどうだっていいんだと思う。三成の大切なものは彼の内側にしかない。そんな風に私には見える。
きらきらと輝く湖畔を左手に見ながら、車の窓を少し下げる。強い日差しで車内は汗ばむほどだった。「どこへ行くつもりだ」「決めてない」あからさまにめんどくさそうな顔をした三成に私は「じゃあ適当に」と言った。これといって行きたい場所があるわけではなかったのでエンジンをかける前に「北に」とだけ言った。ただ、運転している三成を見ていたかった。

「運転、上手になったね」

「当然だ」

免許を取りたての頃よりも随分とスマートになった三成の運転は心地が良かった。しぼられたヴォリウムでラジオが流れている。

「こっちに戻ったからには車買わないとなぁ」

「私を足に使うような真似だけはしてくれるな」

「しませんよ。失礼だなぁ」

ていうか、できるわけないじゃん。とは言わなかった。言えなかった。
三十分ほど北に走ったところで三成は車を右折させ駐車場に入る。止まっている車はまばらだった。「ああ、ここね」随分と昔に来たっきりだったこの場所は、渡ってきた水鳥たちの餌場にほど近い公園だった。水面が揺れるのにあわせて上下する小さな身体。愛らしいくちばしとつぶらな瞳。運転の練習、と銘打って昔ドライブに来た時のことを思い出す。つい最近のことのように思えるけれど、それはもう手の届かないほど遠い時間の記憶だった。
さざなみに乱反射する太陽のまぶしさはまるでぶちまけられた宝石みたいだった。コンクリートの防波堤を越えて、芝生の上を私たちは並んで歩く。足が長くて歩くのも早い三成は私と歩くときに歩調を合わせてくれはするけれど、それでも三成の方が半歩先になるのがおなじみだった。
背丈が変わっただけならよかったのにな。私は目を伏せて三成の影を踏む。水鳥の騒がしい声を聞きながら、私たちはぽつりぽつりとこの十年近くの出来事を語る。全く会っていなかったわけではないけれど、短い時間、うわべだけの会話のみしかしなかったため三成の口から聞かされる出来事はどれも想像もつかないことばかりだった。特に、大学で出会った大谷吉継という男と、二つ下の後輩の島左近という男の話。「よかったじゃん、友達できて」そう言うと三成は照れたような、むっとしたような、なんともこそばゆい表情を浮かべた。
よかった。私は本心から思った。寂しいけど、よかった。私がいなくても、三成と一緒にいてくれる人がいてよかった。でも、私は。喉の奥がぎゅっと苦しくなって、私は顔を顰める。自分のいるべき本当の場所はここではない。そう思いながら見知らぬ地で過ごした私に残ったものは何もなかった。友人も、仕事も。いまだに私には三成だけなのだ。なんて狭い世界なのだろう。緩やかな流れに身を任せ、終わりのない日溜りの記憶の円環を巡って生きることしかできなかった私。
踏みしめる地面はやわらかく、湖からは冷たい湖面を撫でた水のにおいが春風に乗って運ばれてくる。

「正澄くんからさ、三成のお見合いの話聞いたときびっくりしたけど、やっぱりなって思ったよ」

三成は何も言わない。

「正澄くんもお見合い結婚だったし、三成もいい歳だし。どうせ三成のことだから彼女とかいなさそうだし」

顔だけは整っているから女からの人気は無きにしもあらずだろうけど。と付け足すと「くだらん」とお決まりの台詞が返ってきた。

「でもさみしいな。三成が結婚しちゃったらもうこんなふうに遊べないもん」

ため息交じりに私が言えば、はたと三成は足を止め振り返る。

「寂しい、だと?貴様、どの口がそれを言う」

後半の声の大きさに、水面で揺れていたオオヒシクイが数羽ばさばさと飛び立っていった。歯を噛み締め、指先が白くなるまで拳を握ることによって辛うじて激昂を堪えている三成の姿に私はたじろいだ。なんと言っていいかわからず、ごめん。とだけ呟いた私に三成はまた背を向けて、けれど歩きだそうとはしなかった。鼓笛のようなトンビの鳴き声が頭上から降ってくる。ざわざわと葦が風になびき乾いた音をたてた。病的に白い三成のうなじ。彼がいったい何をそんなに、しかも突然怒ったのか皆目見当もつかなくて私は言葉に詰まってしまう。

「でも、本当だよ」

三成の背中に向かって私はひとりごとみたいに呟く。

「本当に寂しいし。っていうよりずっと寂しかった。意地なんか張らずにこっちで就職すればよかったって何回も後悔した。連絡ももっととりたかった。でも、寂しいけど、私は三成が幸せになってくれるならそれでいい。幼馴染だから。友達だから。三成はもうそんな風に思ってないかもしれないけど、私は今でも三成のこと大切な友達だと思ってるよ」

三成の背中はどうしてこうも私を素直な気持ちにさせてくれるのだろう。園庭の隅でテントウムシを見つけたこと。算数の宿題を忘れたこと。仲の良かった友達とクラスが離れて悲しかったこと。スカートの丈を先生に注意されたこと。進路で両親ともめたこと。些細なことからそうでないことまで、私の心中を三成の背中は揺らぎない安心感で受け止めてくれた。なにかアドバイスがほしかったわけでもない。ただ、黙って聞き留めて(あるいは聞き流して)くれる三成に私はいつも救われ、そして感謝していた。
反対に三成はどうだったのだろう。まっすぐで、それと決めたら突き進むタイプの三成の口から悩みだとか弱音だとかはほとんど聞いたことがない。白か黒かの判断基準を他人に委ねるようなことはしないし、彼がそれを誤った試しは一度だってなかったような気もする。もとより私なんかの意見を取り入れる気がない、というのが正解なのかもしれない。でも、さすがにそうだったら少しへこむ、かも。
ともかく三成の背中には私の本心がたくさん沁みこんでいる。背中が広くなってしまったぶん濃度が薄まってしまっただろうか。ぱりっとした白いシャツの襟を見ながら、なおも口を噤んだままの三成の背に告白をした。もういいや、この際だから言ってやれ、と。

「けど、三成は私と幸せになるんだなって思ってた」

三成は私と、なのか、私は三成と、なのか。共に過ごした時間が長すぎて、私は時々三成を自分自身のように感じてしまう。少女だった私は、このままずっと三成とふたりで生きていくんだと思っていた。付き合うだとか結婚だとか、そういう面倒な手続きなんて無縁の無垢な世界で。愛らしい幻想を捨てられないまま私はいつしか大人と呼ばれる年齢になっていた。
そう多くはない車通りの道路を三台ほどの車が通り過ぎ、ロードバイクに乗った一行が立ち止まったままの私達をやや不審そうな目で一瞥し走り去っていった。ざざ、ざざ、と岸辺の砂利を波が打つ規則的な音に耳を澄ませながら、私は三成の言葉を待った。身じろぎひとつしない背中。触れようと思えばすぐにでも触れられる距離にいるのに、私の手は鉛のように重たく垂れさがっている。あまりに長い空白の時間に、このままふたりともこの場で風化して砂になって、混ざりあいながら湖面を渡る風に乗ってさらさらと運ばれてしまえばいいのに、なんて馬鹿げた空想をしてみたりする。やっぱり口にしたのは間違いだったかなと後悔するも、茶化して誤魔化すにはあまりにも時間が経ち過ぎていたので、いまだ動かない三成の背中に「ねえ」と声をかける。

「貴様は、」

振り向いた三成の顔は言いようもない遣る瀬無さに満ちていた。その一言だけをなんとか吐きだすようにして、言ったきり私を睨んだままの三成。なんでそんな顔するの、と私が言うよりも早く彼はずんずんと先へ行ってしまった。ちょっと、ねぇ、待ってよ。小走りで追いかける。肩を怒らせ大股で歩く三成の姿は、子どもの時に何度か見たことがあった。縮尺の変わったその背中にようやく追いついた私は、さっきまで動かなかったはずの腕をあげて三成の腕を掴む。

「ちゃんと言ってよ」

「それはこちらの台詞だ」

「なにが」

そう言った私を馬鹿を見るような目で見た三成は「さっきの言葉だ」と憮然とする。まだわからないでいる私にあからさまに苛ついて「思いだせ」と命令してくるので、私は頭の中で会話を巻き戻す。直前のそれについて、思い当たらないでもなかったけれど、まさか彼がそれを指しているとは到底思えず、今朝三成が家にやって来たところまで記憶を戻したところで再び現在に向かって戻ってくる。けれどこれといって三成の怒りに触れるような発言は発掘されず、掴んだままだった三成の腕から手を外し困ったように彼を見上げた。

「私だってそう思っていた。しかしお前は私の前から姿を消した」

時間にして三分ほど渋い顔をして記憶のテープをくるくると送ったり巻き戻したりしていた私を、彼には似つかわしくない辛抱強さで待っていた三成は、けれど「さっきの言葉」がどれを指すのか明言しないまま会話を無理矢理前に進める。

「そんな、大げさな」

「大袈裟などではない。消えたも同然だ」

遣る瀬無い怒りは徐々に熱を失い、愁いを帯びた声になる。三成がそんな風に思っていたなんて、という衝撃に私は言うべき言葉を見つけられない。「でも、」とこぼれたのは弁解のもので、このまま続ければ会話は確実に悪い方向へと転がってゆくだろう。わかっているのに止められない。

「でも、三成だって引き止めなかったじゃない。そうか、ってたった一言で終わらせたじゃん」

「お前自身で考え導き出した結論だったのだろう?では何故私が口を出す必要があった?私にできるのは送り出すことだけだと思ったのだが、それは間違いだったと言うのだな」

まったくの正論に、正面から殴られた気持ちで私は口を噤んで俯いた。そうだ、三成の言う通りじゃないか。馬鹿げた意地を張り続けて、なにも成長しないまま歳だけを重ねてまたこの場所に戻ってきてしまった不甲斐なさと改めて対峙した私は、いっそ清々さすら覚えて笑いがこみ上げた。ふ、と笑った私に「何がおかしい」と三成はまた苛立つ。彼の悪い癖だ。カッとしやすい性格の三成に「カルシウムもっと取った方がいいよ」と昔から言っていたっけ。なんて、また過去に立ち返ってしまう。

「お前は私と幸せになると、思っていたのだ」

ざあっと吹いた風に三成の前髪が揺れて、普段は隠されている額がちらりと露になる。水鳥が一羽飛び立ったのを合図にして、何羽もの鳥たちが湖面にVの字を残しながら彼方へと飛んでゆく。なにも変わらないこの場所で、なにも変わらないままいられると思っていたのは私だけじゃなかったのか。私を見下ろす三成の視線をすくい上げる。

「言わなくたって、わかると思ってたの」

しばらく続いた沈黙の間中、三成は私からひと時も視線を逸らさなかった。風が強くなってきて身震いすると、なにも言わないまま三成はもと来た道を戻っていく。ついて行こうか迷っていると、振り返った三成に「早く来い」と睨まれた。
駐車場の片隅に設置された自販機で缶に入ったココアを買う三成を少し離れた場所から眺める。あったか〜い、というなんとも間の抜けた表示が私たちの微妙な空気を和ませてくれるかといえばそうでもなく、無言で手渡されたココアを私は「あっつ」と言いながら受け取った。服の袖を引っ張って、直接肌に缶が触れないように持つ。同じくあったか〜い緑茶のペットボトルを手にした三成は、けれどそれを飲むでもなく両手で包むとそばにあったベンチに腰を降ろした。なにも言わないけれど多分「座れ」という意味なのだろう。そう理解して隣に座る。ようやく素手で持てるほどの温度になった缶を開けると、ほのかに甘い香りが漂った。

「結論から言うと見合いは断った」

「え?」

危うく口の中に入れたココアを噴き出すところだった。すんでのところでとどまった私はもう一度「え?」と繰り返す。だって、そんな。正澄くんから聞いていた話と違うじゃないか。私がどんな思いで戻ってきたと思ってるのかと言い掛けてやめたのは、そんなのは私の一方的な行動なのだから三成が責められる筋合いはないからだ。と同時に、なんで、より、どうして、の気持ちの方が大きいことに戸惑う。少なからず家業に関するなにかしらの営利が絡んでいるであろうお見合い、ということは想像が付いていた。それを断るということは、それなりあるいは相当の理由があってのことだろうし、あの三成が異性に対して明確な拒絶をつきつけたのはやはり心に決めた相手がいるからなのだろう。私が地元を離れて数年、三成にも色々あったに違いない。
心のどこかでわかっていたけれど、認めたくなかった事実。私ではない誰かを、彼が選んだということ。大学で、もしくはそれ以外の場できっと素敵な人に出会って恋をしたんだろう。だからお見合いを断ったんだ。それしか考えられない。やっぱり変なことを言うんじゃなかった。無理にでも冗談にしてしまえばよかった。恥ずかしさといたたまれなさに、俯いたまま冷えかけたココアの缶のどこかにぬくもりが残っていないか手の平で必死になって探したけれど、スチール缶は虚しく冷えてゆくばかり。最終的には冷たい塊になって、よそよそしく私の手の中で沈黙してしまう。

「幸せになってね」

冷えてしまったココアを飲み乾すと私は立ち上がりゴミ箱に空き缶を捨てる。からん。空々しい音で幕引き。だってこれ以外に私が口にできる言葉なんて無いじゃないか。駅まで歩いていけない距離ではない。運が良ければタクシーが通るかもしれない。三成の車に乗って帰ることは今の私にはできそうもなかった。やっぱり帰ってくるんじゃなかった。正澄くんの電話なんてなかったことにすればよかった。いっそ三成が素直にお見合い結婚をしてくれた方がまだ救いがあったのに。
それにしても三成が結婚か。じわりと足元が滲んだので上を向けば、悲しいぐらいに青い空と眩しい太陽が涙の中で溶けあってゆく。
何通ももらった友人たちからの結婚式への招待状。そして小さな子どもの写真入りの年賀状。それらを見るたびに絶対にこっちで彼氏を作って結婚するんだ、なんて固く心に誓っていたのに。気を抜けば虚しさと悲しさと惨めさにその場に蹲ってしまいそうで。無駄に大股で歩くのに身体が前に全然進まない。コハクチョウの群れが光にまみれて飛んでいく。私も一緒に連れて行ってよ。ぼたた、と我慢しきれなかった涙が頬を伝い地面に落ちる。泣くな泣くな泣くな。泣くぐらいだったら正しい選択をすればよかったんだ。でも記憶をたどったところで間違いを犯した箇所が多すぎて、なによりどうしたって過去は変えられないのだという残酷な現実に、ただ年甲斐もなく泣くことしかできなかった。

「待て」

だから突然音もなく背後からやって来た三成に腕を掴まれた時は心底びっくりしたし、でも口からは「なんで追いかけてくるの」とか「車でさっさと帰ればいいじゃん」とか「もう放っておいてよ」とか、八つ当たりみたいな言葉しかでてこないので、私は三成の手を振り解いて走り出す。走り出すけれど数メートルも行かずにまた捕まる。色気も何もないスニーカーをはいているのに脚が思うように動かない。勝てるわけがないことなんてわかっていても、逃げ出さずにはいられなかった。

「はなしてよ」

「断る」

やだ、と身を捩った私の両肩を三成が掴んだ。無理矢理身体を三成に向き合わされ、それでも彼の目をまっすぐ見ることができずに私は顔を背ける。

「何故逃げる」

何故もなにも、説明しなければわからないのかこの男は。心に決めた人がいると告げられた男と同じ車に乗って来た道を引き返すことができるほど、私は図太い神経を生憎ながら持ち合わせていない。そんな心の潰れそうな空間に押し込まれるぐらいなら、タクシーが通る見込みがほぼゼロに等しい駅までの道のりを徒歩一時間以上かけて帰る方がよっぽどマシだ。という旨を三成に言ってやりたかったけれど、生憎泣いているせいで喉は塞がり、なにかしらの文章を発したが最後言葉は嗚咽となってばらばらになるに違いないので私は無言で眉間に皺を刻むだけ。
急速に景色が色褪せてゆくような気がした。帰ってきた故郷、抱いていた安息すら今となってはほとんど薄れ、自分の居場所がもうこの世界のどこにもないように思えてつま先から冷たさが湧きあがる。肩を掴む三成の両手からは途方もない熱がなだれ込んできていて、それはまるでこれからやってくる春みたいに活力にあふれていた。

「人に幸せになれと言っておきながら何故逃げるのか、と訊いている」

「だから、」

「私はname、お前と幸せになるのではないのか?先の言葉は妄言か?」

「……え?」

まるで逆再生みたいにしゅるしゅると音をたてて私の涙は引っ込んで、今しがた三成の言った言葉が頭の中で何度も木霊していた。日本語として彼の言った言葉は聞き取ることができたけれど、それがいったいどういう意味なのかまったく理解ができなかった。理解しようとすればするほど言葉はほつれてゆき、頭蓋骨の中にはふわふわと文字がくらげのように漂っている。
風に吹かれて涙が乾き、熱を孕んだまぶたとは対照的に頬が冷たい。

「ごめん、ちょっと言ってる意味が……」

「わからない、と言いたいのか」

この期に及んで、と今度は三成の眉間に皺が刻まれる番だった。

「だ、だってさっき、お見合いは断ったって言ってたじゃない」

「ああ、言ったが」

だからどうした、とでも言いたげな三成は、私にこれ以上逃げる気がないことを確認するとようやく私の肩から手を外す。

「それは三成に大事な人がいるからじゃないの?だから断ったんじゃないの?」

「そうだ」

なんの躊躇いもなしに顎を引いて頷いた三成に私はなにも言えない。それは、つまり?もう一度確認がしたくて「ごめん、さっき言ったのもう一回言って」と恐る恐る頼むけれど、三成の唇は引き結ばれたままだった。そして。

「私はname以外の女と結婚するつもりはない、ということだ」

薄い唇がややもすると開かれ、そう言ったのだ。脈絡のなさに私の頭は混乱を極め、けれど三成が私に向けて言った言葉に困惑し俯いて押し黙る。まばたきを繰り返しているうちに、再び両目から涙がぼとと、と滴り落ち、ついでに鼻水も垂れてきて私はあわてて鞄の中をがさごそと漁りハンカチを探す。でも視界は霞むわ鞄の中はごたついているわでお目当てのものを探しあてられないでいると、グレーのハンカが顔面に押し当てられた。ごめん洗って返すからとべそをかけば「言うべきはそれか、違うだろう」と乱暴な手つきで鼻をつままれ拭われた。私の涙と鼻水の跡がしっかりと残ったハンカチを丁寧に折りたたんでポケットにしまった三成は、私の手を取り歩きだす。さっきまで色味を失っていた世界はあっという間に元の色彩を取り戻し、どころか左手に広がる広大な湖のきらめきは三割り増しでこの目に映る。眩しさに視線を落として三成の踵を見つめながら彼の後について行く。
黒い細身のパンツに紺色のコートを羽織った三成の背中。靴の踵は踏まれて折れた形跡はなく綺麗なままだった。物に無頓着なくせに大切に扱う三成は物持ちが良い。例えばスチール製の定規なんかは小学生の時から高校生になるまで使っていたし、きっとそれは今も彼の引き出しの中にまっすぐにしまわれているに違いない。だから私が彼にあげた「おたんじょうびプレゼント」のマグカップもいまだに石田家の食器棚に置かれているのだ。現在でも、にっこり笑ったクマさんの絵が描いてあるマグカップでコーヒーを出されれば、何の文句も言わずにそれで飲んでいる。「笑っちゃうよ、あれ」と、相手にされないあまり悪戯まがいのちょっかいを弟に仕掛けた正澄くんからこっそり耳打ちされたのは去年のお正月のことだったっけ。そうやって、私のいないところで私の痕跡を手にしている三成を思うと胸の奥の方がじわっと甘く、あたたかくなる。頬っぺたの裏側を軽く噛んで顔がだらしなくならないよう細心の注意を払うのに、やっぱり最後は「へへ」と情けない笑い声が漏れてしまうので、取り繕うのに自棄になってしまうのだ。
車に乗りこむと私はヘッドレストに頭を預けてフロントガラス越しにまっすぐ前を見る。右側を見てしまったら、何かが起きるような気がして、でも起きなかったらそれはそれで悲しいので視線は不自然に前方に注がれたまま。「ねぇ、まだ10時だけどこれからどうするの」「知らん」「観光したい」「ドライブはいいのか」「いい」「……」三成の視線を感じるけれど、やっぱり隣は見れなくて、そうしていたらフン、と鼻を鳴らした三成がフットブレーキを踏んでシフトレバーを引く。クーペは帰郷時に乗ったタクシーよりも乗り心地が良くて、まだぽってりと熱を持ったままのまぶたを閉じると思わずそのまま眠ってしまいそうになる。車は滑るように湖沿いの道を走り、私がなにか適切な言葉を見つけるよりもはやく駐車場へと入ってゆく。
私たちの街の一番の観光地であるこの場所に、私たちが来ることはあまりなかった。だって地元の観光地なんてあまりにも身近すぎて、行くに足りない、というか、今あえて行かなくてもいつだって来られる場所、であったから。けれどそう思いながら足を運ぶこともろくにないまま私はこの街を出てしまい、十年の時を経てやってきたこの場所は私にとってまさに「観光地」になっていた。だから足取り軽く店先を覗いたり、食べ歩きのあれこれを手にぶらつくのはとても楽しく、さっきのこともあるので妙に上ずったテンションで私は三成の半歩先を歩いた。そんな私を三成は始終静観し、かといって湖畔での会話を無理に再開させるでもなく私の後をついてくる。土曜日だったものの賑わいもほどほどで、早めの昼食を済ませうどん屋の暖簾をくぐった私たちは一呼吸おいた後、どちらが先になるでもなく歩きだす。すぐそこの駅の向こう側にある公園は、観光地から多少外れているだけにしても人気はまばらだった。昔から変わらない、一角にお城のそびえるこの公園。うら寂しいような、それでいて不思議な安心感のある場所。小学生のころ、正澄くんを先頭にして時々自転車でやってきた。特に遊具があるような公園ではなかったけれど、お城の天守の展望台に登って見る景色は子どもの冒険心を大いに駆り立てたのだ。

「お金、払うんだよね」

「当然だ」

小学生の時は無料で入館できたこの場所も、いまや立派な(立派ではないけれど)大人になったので料金を支払って入らなければいけない。ひんやりとした空気に懐かしさを覚え、最後に来た時よりもずっと年季の入った壁や床をしげしげと眺める。「いくぞ」と言った三成の声がグレーとベージュの混ざった壁に淡く反響する。階段の暗がりで彼の表情は透き通るようにそこにあった。こういう場所に三成はよく馴染む。物静かな雰囲気だからだろうか、それとも元々の表情に影があるからだろうか。空気が静かに沈殿した澱に立つのがとても様になるのだ。
エレベーターは使わずに5階までの階段を上る。3階で太腿が痛くなった私をよそに三成の足取りは変わらない。ようやく空が見えた頃には私の息はあがっていて、はあはあ言いながら廻縁の手すりにもたれる私に「運動不足だ」と言い放った三成はまったくの涼しい顔で。というのも彼はこう見えて中学生の時から大人になった今でもテニスをたしなんでいるのでこれしきの階段なんて苦でもないということらしかった。ぐるり、というにはあまりにも一瞬で一周できてしまう廻縁。けれど360度街の景色が楽しめるので、あそこがあれで、とか、うちはあっちだ、とか言いながら身を乗り出していると、本当にいよいよ今がいつで自分が何歳なのかわからなくなった。もう一回小学生のあたりからやり直せたらいいのに、なんて思いながら東南の方角をぼんやり眺める。車の中とは打って変わった寒さに、私はスヌードの中に顔の下半分をすっぽり隠す。
さっきの三成の言葉について。あまりにもまっすぐすぎて、冗談なんじゃないかと思うのに、三成がそんな冗談を言うような人間ではないことは重々承知しているものの、まさかそんな、と信じられないのは、自分が現実を手放しで喜べる無邪気な年齢ではなくなってしまったからだろう。十年も離れていたのに。十年あれば人間なんて如何様にも変わってしまう年月だ。確かに私は彼のことが好きではあるけれど、十年という何月によって変化した三成を愛して受け入れることができるのだろうか。できる。と首がちぎれんばかりに断定できるのに、心のどこかで「私なんかが」と卑屈になっているのは同じ年月を重ねたくせになんの成長もしていない自分を三成に知られてしまうのが怖くもあり、恥ずかしくもあったから。
その言葉が欲しかったはずなのに、どうしていいかわからない。三成は三成で相変わらずの態度だし。
ため息をつくと、反対側から戻ってきた三成が私の隣に立つ。

「三成」

「なんだ」

「……」

「言いたいことがあるのならさっさと言え」

「それは三成なんじゃないの」

「私か?私ならばさっき言ったことが全てだ」

眼下の湖に視線を落としたまま三成が言う。

「なんで私なの?」

「知らん」

即座の返答に思わず笑ってしまう。三成は少しだけ首を傾げて「ただ、」と続ける。「ただ、ずっと、そう思っていただけだ」ひとりごとのように響いた彼の言葉に私は「ずっとって、いつから」と訊く。「さあな」いつから、なんて考えたこともなかった。私も、三成もそうだった。あまりにも近すぎて、あまりにもお互いがいることが当たり前すぎて、言葉になんてしなくてもわかり合えると過信していたのだ。

「恥ずかしいなぁ」

「なにがだ」

「わかんない」

欄干に額をつけると思いのほか冷たかったので、慌てて顔をあげて、代わりに欄干の上に腕を組み顎を乗せた。「もっと早く言ってくれたらよかったのに」「その言葉はそのままお前に返す」「ごめん」「……」あの時、と思う地点は何個かあった。私が地元を離れて大学に行った時。そのまま就職すると電話で告げた時。毎年帰ったお盆とお正月。もっと早く、と私が思うのと同様の思いではなく、多分彼は私がいつか必ず自分の元へ戻ってくるという信念に近いなにかを持っていたのかもしれない。なんて自惚れてみる。こっそり三成を盗み見ると、ばっちりと視線が合ってしまい慌てて景色に目を戻す。純情ぶるような年齢でもないのに、と可笑しくなるより、ただ本当に恥ずかしかった。
さっきとはなにもかもが変わってしまった風景あるいは空気に緊張しながらもと来た階段を降りてゆく。「大丈夫か」と言って手を貸すでもなく一段先を行く三成。外は相変わらずの晴天で、こんなことなら掛け布団を干して来ればよかったな、なんて妙に現実的な考えが頭をよぎったのだった。
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