2019

部屋の持ち主がいない執務室で私は机に伏せる。磨かれニスの塗られた光沢のある表面はひやりとしていて、頬をつけたままにしているとその部分からじわじわと私の熱が移ってゆくのがわかる。
まぶたを閉じると団長の気配を至るところに感じて私の胸は苦しくなる。みぞおちのあたりが掴まれたようにぎゅっと窄まって、次に喉が狭まり呼吸が困難になる。そして目の裏が熱くなって涙が出そうになってしまう。

恋をしてるんです。そう告げた私を団長は抱きしめてキスをしてくれた。ずっと隣で見ているだけだった太い腕やたくましい胸板を服越しではあったけれど肌に感じて、私の体中の力は一瞬にして抜け落ちてしまった。
そんな私をソファに運んでくれた団長の顔は少し困ったような表情をしていて、案の定彼が発した言葉が「どうしたものかな」だったので、私は「困らせるつもりではなかったんです」と謝った。
「ああ、違う。そうじゃない」団長は綺麗に剃られた顎を人差し指でかいた。それから視線を左下に向け、何度か瞬きをして大きく息を吸って長く吐き、首を二、三度左右に傾けて咳払いをした。

「つまり、これからきみをどうしたものか、と思ったんだ」

言っている意味がよくわからず、でもそれを考えるには互いの距離が近すぎて、私の頭は思考がとっ散らかっていた。ええ、とか、ええと、とか、意味のない短い声を発することしかできずにいるのがまた恥ずかしくて。だからといって何か気の利く言葉が出てくるわけでもなかったので私は仕方なく団長を見上げた。

「そんな目をされたら、」

その続きは無かった。無かった、というか、キスによって打ち消された。予想していなかったので少し歯があたって痛かった。苦笑した団長に顎に指を添えられて、角度を変えてもう一度押し付けられた唇は不思議な生き物みたいだった。初めて知る私の唇の感触や薄い皮膚の向こうにある温度を確かめているみたいに動き、時々隙間から舌が現れていたずらに私の口の中を刺激した。

「あ、の……」

「好きだと言われたのでいいかなと思ったのだが、思い違いだったらすまなかった」

そう言った団長は「すまなかった」という顔は全くしていなくて、それを裏付けるように私に再びキスをした。彼のキスはとても甘い。これまで何人の女の人とキスをしたんだろうと思うと少し心がきゅっとなるけれど、私が最後の人であればなんにも問題はない。なんて、ささやかな独占欲は子供じみていて恥ずかしいので私はそう思うたびにいつも団長の背中に爪を立てて気持ちを誤魔化す。

早く部屋に帰ってきてくれたらいいのにと思う反面で、彼の不在をもう少しだけ楽しみたい。団長がいない方が、この部屋に在る彼の気配は濃くなる。すっぽりと包まれているような安心感に全身が安らぐ。
ピアノを弾くように指先で机を叩く。ピアノなんて弾けないのに。そもそも触れたことすらなかった。きっとピアノを弾く女の子の指は白くて長くて細いのだろう。右頬を下にしたまま、上下する自分の指をぼんやり眺めていた。
壁の向こうから足音がかすかに聞こえてくるので、それに合わせて指を動かした。彼のために私が紡ぐ曲。足音は段々と大きくなり、扉が開くのと同時に私は5本の指を「じゃじゃーん」と言って机に置いた。

「nameとピアノか。珍しい組み合わせだ」

「調査兵団団長、エルヴィン・スミスに捧ぐ」

立ち上がって、ドレス(そんなもの一度だって着たことがないのに)の裾を両手でつまんで持ち上げるしぐさをする。ぺこりと頭を下げた私に団長は大袈裟な拍手を送ってくれた。「本当は弾けないんですけどね」と両手をひらひらさせると団長は片方の眉を持ち上げた。

「べつにピアノなんか弾けなくたって、きみが聞かせてくれる可愛い声で私は十分満足なんだがね」

「団長!」

そう怒るな。と団長は私の額にキスをする。
そうやってなんの躊躇いもなく恥ずかしい台詞や言動をする団長を羨ましく思う。羨ましいといっても自分が彼のような振る舞いをしたいというわけではなくて、情愛を示す言葉をてらうことなく口にできたらいいのに、と思うのだ。
私が言うと子供じみて聞こえるからあまり好きだの愛してるだのは言いたくない。どうしても口から出てしまう切羽詰まった時(主にベッドの中で)はあるにせよ、それ以外においては基本的に思いは胸に秘している。
なにより本人を前にすると恥ずかしくなってしまうから。だから私は誰もいないこの部屋が好きなのだった。いつも団長が座っている椅子に座り、彼の愛用している羽ペンでその辺にある紙に彼のいい所を書き連ねてみたり、下手くそな似顔絵を描いてひとり笑ったり、それでもう十分幸せなので、目の前に団長がくると気持ちが溢れて喉のあたりで渋滞をおこしてしまう。
しげしげと私を眺める団長に「会いたかったです」と唇を動かさずに言う。

「name、会いたかった」

団長の言葉に肯いて、この人を好きになって良かったと震えるぐらい愛おしくなる。早く抱きしめてください。声にならない願いが叶うまで、あと3秒も必要ない。
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