2019

人間には天賦の才というものがる。当人が望もうが望まざるが。調査兵団において突出して頭角を現しているのは誰もが名を知るリヴァイ・アッカーマンである。そして壁外に出る機会のあるごく限られた者達、つまり調査兵団のみが知る、人類最強と比肩するもうひとりの人間。その名は。

「name、今日も好調だな」

「べつに」

太い幹から横に張り出した枝に立つnameの隣にエルヴィンが降り立つ。肩を竦めたnameが手の甲で頬の汚れを拭うのを見下ろし、エルヴィンは喉の奥で笑った。「相変わらずだな」「嫌味?」眉間に皺を寄せたnameの頭にエルヴィンは手の平を置く。nameは拒否する素振りもなく乱れた髪を整えた。壁内での実地訓練を兼ねた演習で、いつも通りnameは先見の役を任されていた。

彼女がひとたび地を蹴れば、そこに重力は一切介在を許されない。機構から排出される煙は螺旋を描き、つま先は空気を切り裂きながらカーブする。瞬きをするごとに太陽に近づき、ひと呼吸分刃を日に照らすと地を穿つ雨粒の如く急降下して巨人のうなじの肉を削ぐ。もはや芸術。初めて彼女の跳ぶ姿を見たエルヴィンは感嘆のため息をついた。「まるで魔弾の射手だな」「そんな大層なものではありません」謙遜というより単純に興味がないのだというそっけない言い方でnameは足元の石を蹴ったのだった。
手腕を買われ、分隊長に就くよう何度も請われたが「部下を持つのは性に合わない」の一点張りでエルヴィンたっての願いを退けた。それを聞いたハンジは、あのリヴァイですら部下を持ったのにと笑い、酒の席では「部下ってのもいいもんだよぉー」と酔いつぶれてはモブリットに担がれて退場することもしばしばだった。班員の仲が良いミケの班や、リヴァイを慕う彼の部下たちを見てnameは時々部下について考えなくもなかったが、やはり面倒だなという思いが先に立つ。私はただ巨人のうなじを削ぐことができればそれでいいのだ、と。巨人を殲滅してやるのだという自分の強い気持ちと、野望と表現してもいいほどの目的を達成するための努力および鍛錬についてこられる人間などきっといないであろうことはわかっていた。
そしてなにより自分にはセンスがある。傲慢でも思い込みでもなく、事実なのだ。血の滲むような努力は抜きんでた才覚という肥えた土壌あってこそ育まれる。身体能力、第六感的な直観、立体起動装置を操る手指の正確さ、作戦や兵站拠点の立案をするにあたっての独自の切り口、活動に準ずる幅広い法的知識を会得する吸収力、加えて、時には冷酷とも思える判断を下す私を滅した冷徹さ。小柄な女にその全てが備わっていようと誰が思うのだろう。
エルヴィンにとってnameは対外的切り札でもあった。国家の中枢を担う堅物の男どもにとって、一見なにも知らなさそうな小娘然としたnameは格好の標的であったので、彼らの一枚も二枚も上手に出るために、男どもから投げつけられる礼を欠いた愚問と嘲笑を上品に喰らう術を彼女は心得ていた。リヴァイの援護射撃を受けつつnameに言いくるめられ、エルヴィンに論理的にまとめられ、二の句が告げなくなった老人たちの青い顔は、しばしば調査兵団幹部の酒の肴にされている。「あいつら何も学ばないの、本当になんなんだろーね」「あいつらは言いすぎです分隊長」「耄碌どもの間違いだろう」「こらリヴァイよさないか」中央に呼ばれた夜は、こんな会話が恒例であった。

リヴァイ班が統率の取れた動きで巨人の模型を各個撃破する様を遥か頭上の木立から見下ろすname。演習だというにもかかわらず気迫に満ちた瞳を覗き込み、エルヴィンは微笑した。

「ろくに動きもしない人形じゃ物足りないか?」

「新兵には丁度いいんじゃない」

「まあ、そうだな」

「こののろま人形が倒せないようじゃ壁外には連れていけないもの」

そう言ったnameにエルヴィンが目をくるりとして見せる。演習中に珍しくおどけた態度をとったエルヴィンにnameは目を眇めた。

「そう怖い顔をするな。きみにしては優しいことを言うんだなと思っただけだ」

「やさしい?」

「ああ。こんな木偶人形ひとつ倒せないやつは巨人の餌が丁度いい、とでも言うのかと思ったからね」

「口が悪いのはリヴァイの専売特許よ」

くだらない冗談はやめて、と会話を打ち切ったnameは後方の様子を探るためにエルヴィンの隣から去る。仰向けに落下するかの如く枝から降りたので、風ひとつ起こりはしなかった。数秒後にエルヴィンのマントを翻らせた風は、遥か彼方を飛ぶnameが届けたものだった。
地面すれすれを飛ぶnameの身体を影が包む。振り返ることもせずつま先で地面をひと蹴りしトリガーに手をかけたnameに、急降下して並走したのはリヴァイであった。

「毎度突出しすぎだ。後方が追いつけねぇ」

「追いつく必要なんてない」

「随分な言い方だなオイ」

隊を乱すような真似こそしないが、常に浮雲のような行動をとるnameにリヴァイはしばしば苦言を呈する。彼女の力量を知ってこその苦言であったが、すんなりと受け入れられることはあまりない。無言で速度を上げてゆくふたりを遥か彼方から見守るリヴァイ班の面々は、いつかあの場に己が並ぶ日を胸中に夢見るのだった。
夕食を終え、さっぱりした出で立ちでnameは書類を携えエルヴィンの部屋へと向かった。部屋の主は微笑と共に彼女を招き入れ、渡された書類に目を通す。所在なく書棚の本を出し入れするnameは、気になる本を見つけたのか数冊手に取り「借りるわね」と声をかける。「どうせだめだと言っても君は持っていってしまうんだろう」視線は紙に落としたままエルヴィンはおだやかに言うと目じりに皺を浮かべた。

「ダメと言われたら持っていかないわ。それに、あなたがダメなんて言うこと滅多にないでしょう」

「俺はきみには甘いんだ」

部下たちを前にしている時よりだいぶくだけた態度のエルヴィンに、nameはまだ仕事中なのにと顔を顰め、ソファに腰を降ろして本の表紙をめくる。しばらくしてnameが本の世界に没頭し、周囲への意識が散漫となったのを見計らってエルヴィンはそっとnameの顔に目線を移した。黒目がちな眼球だけが忙しなく動き、細い指が均一のペースで頁をめくる音が部屋の空気を震わせる。難解な場面なのだろうか、時折眉間に薄く皺が寄るたびにエルヴィンは声を忍ばせ小さく口の端を持ち上げた。そんな彼の様子に気が付いたnameは「大丈夫なら戻ります」と顔をあげパタンと音をたてて本を閉じた。

「戻ります、は無いんじゃないか?」

「なんて言えば気が済むの?」

「言わせないでほしいね」

nameの背後にまわりソファの背もたれに両手をついたエルヴィンは、身をかがめてnameを覗き込む。やわらかな眼差しに捕まらぬようnameは目を逸らした。

「私は強い男しか好きにならない」

あまい雰囲気とは対極の、突き放すような冷たい声音だった。
昔愛した男は巨人に喰われて無残に死んだ。彼女の同期生で、初めて心から愛した男だった。互いに競い合い、愛し合い、将来を誓った仲だった。無知で、無邪気だった。過酷な調査兵団に身を置いてもなお盲目でいられるような恋だったのだ。私達に限って、と、どれだけの惨状を目の当たりにしてもふたり手を握り合い、次もこうして周りの死を悼み、遺された側の者たちとして一歩を揃って踏み出すのだと信じていた。
愚かな、と今になってみれば思う。愚かすぎて笑い飛ばすこともできない。
何も遺らなかった。思い出だけがnameの記憶に残り、焼けつき爛れた。深い絶望の淵から這い出したnameは、誰に背中を預けるでもなく、日々肉体的技巧と才知を研鑽し、現在の地位を獲得したのだった。
信じられるものなど己の身だけなのだ。冷たいベッドでひとり眠りにつくたびにnameは唱えた。毎日毎日、唱えに唱え、その言葉は彼女の心に呪いのように染みついた。シーツの冷たい皺がつま先にわだかまり、やがて彼女の心を包む薄氷を形作った。
エルヴィンからの好意には気づいていたし、気づくというより気づかされていたのでむしろ無下にしやすく気が楽だった。戯れなのだ、と思える程度の恋の真似事。

「俺はどうだ?」

「あなたが強いかどうか?」

ああ、とエルヴィンは喉の奥で機嫌のいい猫のように唸る。隣に腰を降ろした男の読めない思考を瞳の奥に探るnameは、そのうち真剣になっている自分を馬鹿馬鹿しく思い目元を緩めると、ソファに背中を預けて伸びをした。

「生き抜いてから言ってよ、そんなこと」

nameの言葉にエルヴィンは少し目を見開き、ふっと口元をゆるめた。

「きみの言う通りだ」

おだやかな沈黙だった。nameは本の表紙を手の平で撫でながら眠気を感じていた。もし、この男に心を許してしまえば本当にこれが最後になるだろうということは直感的にわかっていた。自分の全てを委ねてしまうその恐ろしさは身をもって知っている。だから、隙を見せてはいけない。たとえわずかな綻びでもこの男は見つければ指先をそっと差し込み、ゆるやかにほぐして侵入してくる。ひとたび中に入ってしまえば逃げることも拒むことも自分には許されない。臍の裏が疼くような感覚にnameが身じろぎすると、エルヴィンが彼女の髪にそっと触れた。

「しかしそれでは遅すぎる」

「……なにが」

会話に間があきすぎていたのと睡魔に襲われていたせいで、nameの返答はやや遅れた。明瞭さを欠いた声を封じるように、エルヴィンの唇がnameの唇を塞ぐ。突き飛ばすまではいかずとも、押し戻すぐらいはできただろうに、nameは薄く目を開いたまま彼の口づけをただ享受した。頭で理解していても、感情はそうではないのだ。まるで世の理だ。nameは諦念する。どれだけ注意深く生きたところで、思いもよらない場所に落とし穴は潜んでいる。昨日まで、いや、さっきまではなかったはずの穴がぽっかりと口を開けてそこにあるのなら、落ちるのは必然なのではないだろうか。歩むべき道のすぐ足元にそんなものが突如現れたのだから、いったいどうして避けることができるのだろう。

「くだらない」

濡れた音を残して離れた唇を見ながらnameは呟く。「そんなのは詭弁よ」付け足した声は弱々しくエルヴィンの胸元に吸い込まれた。

「リヴァイのようにもっと直接的に強い男のほうが好みだったか?」

「そういう問題じゃないの」

「だとしたらそれはそうとう難解な問題だな」

鼻と鼻が触れ合う距離で言ったエルヴィンの瞳をしばらく見つめ、nameはそうね、と応える。

抜けるような青空みたいな目を持つ男だ。それが彼女が初めてエルヴィンに会った時の第一印象だった。入団後、nameはエルヴィンの分隊に配属された。かつての恋人も同様だった。エルヴィンの指揮統制能力は言うまでもなく優秀で、エルヴィン隊は常に連帯感を持って壁外遠征に挑み、かつ帰還率も他隊に比べて大幅に高かった。個々の能力が平均よりいささか高かったこともあるかもしれないが、理由はそれだけではない。彼らはエルヴィンのことを信頼していた。ただの信頼などではなく、全幅の信頼をおき尊敬していた。彼の言うことならば正しいのだ。彼が「やれる」と言えばやれるのだと信じ疑わなかった。戦局を見る目と先を読む勘、そしてあの涼やかさとは真逆の熱をはらんだ瞳で見つめられ鼓舞されれば、なんだってできる気がしたのだ。彼らは大いに働いた。そして、散ったのだった。
やむを得ないことだ。死は調査兵団に入った者の宿命である。逃れられないというわけではない。しかしそれはいつだってどこかで口を開けて待っている。ぽっかりと。落ちただけなのだ。必然にせよ、偶然にせよ。それがわからないほど幼いnameではなかった。熱に浮かされていたんだ。恋人を失ったnameは細く降る雨に打たれながら天を仰いだ。涙は次第に強くなった雨に流された。彼女の背中に添えられたのは、エルヴィンの嘘みたいに熱い手の平だった。
それからエルヴィンが団長に任命されるまでの期間、nameはこれまでと同様彼の下で働いた。全てを削ぎ落したかのようにひたむきに、あるいは静かな狂気すら感じるほどに職務へ励むnameを周りの者は心配し、退団を勧める者もいたほどだが、当の本人は全く意に介していなかった。誰かに背を預けるよりも、自分の足で立たなければ意味がない。最後はひとりなのだから。ペンを走らせ、腕を振りあげ、夜眠りにつき朝目覚めるたびnameは思った。こんな思いはもうこりごりだ。訓練と鍛錬と勉学によって余計な考えを排除することにより壊れそうな心をなんとか保ち、今を生きるためにnameは強くなった。
エルヴィンの団長就任の内通が届いてすぐ、その足で彼はnameに補佐の要請を求めた。「元々私の下にいたし、きみほど有能な部下が補佐になってくれればこちらとしても大いに助かるのだが」と食堂で向かい合ったエルヴィンに、nameは「お断りします」と即断した。断られる事態をある程度想定していたのか、エルヴィンは眉ひとつ動かさず「理由は?」と訊ねる。「得にありません」ミルクを啜ってnameは返答した。「残念だ。ではきみには分隊をひとつ任せよう」エルヴィンの言葉にnameはあからさまに嫌な顔を向ける。この男が用意する選択肢はあってないようなものだ。優しいようで意地が悪い。これまで分隊長の誘いを散々断っていた身であるnameには、彼の申し出を受け入れるほかに選択の余地はなかった。「団長補佐、謹んでお受けします」苦虫をかみつぶしたような表情のnameに、「ありがとう、頼りにしているよ。これからもよろしく頼む」と爽やかに笑うエルヴィンであった。
彼の補佐となったnameはある程度自由のきく立場がゆえにこれまで以上に職務に没頭できた。分隊を任されない代わりに各分隊長の手が回らない雑務や各方面からエルヴィンに回される山ほどの書類の仕分けや不備確認、返送作業等も受け持った。休日など無いに等しかったがnameは文句ひとつ言うどころか、朝早くからエルヴィンの執務室の隅に据えられた机に向かい、日が暮れるまで忙しくしていた。自分で頼んでおきながら見るに見かねたエルヴィンが食事に誘うこともしばしばで、行きつけの店で食事がてら酒を飲むことも少なくなかった。多々話すことはあれどそのほとんどは職務に関することばかりで、互いのプライベート、特にnameはそれについてあまり語ることはしなかった。それでもふたりの関係はいつしか打ち解けたものとなり、エルヴィンからの甘い気配を感じつつ、心地よい均衡を保ちながらふたりは同じ時間を過ごしていった。

ぼんやりと定まらなかった視線をエルヴィンの首元で艶やかに光るループタイのグリーンに向け、nameは口を開く。

「あなたの目」

「目?」

nameはエルヴィンの胸元に両手を当てそっと押し戻す。彼女の言った言葉の意味を理解しかねているエルヴィンは、数度まばたきをして首をかしげた。

「あなたは、自分の求めるもののためなら自分の命を惜しまない」

疑問文ではなかった。それは完全に断定だった。指先がエルヴィンから離れる。ふたりの間に沈黙が流れた。しばらくした後、エルヴィンは深く息を吸い吐きだした。まるで意識の奥底までを巡り、光が一切届かない場所にある心の澱みを掻き混ぜて体外に吐きだしたような息だった。

「それはつまり……いや、違うな。きみは俺の中になにを見た?」

「なにかはわからない。だってあなたはそれを奥深くにしまっているでしょう。知りようがないわ」

「しかし俺の中には命を投げうってまでも求める何かがある、きみはそう感じたわけだ」

nameは無言で肯いた。調査兵団の団長である以前に、彼はあくまでも超個人的な理由で壁の外に在るであろう世界を知ろうとしているのではないかと以前から感じていた。決定的な発言があったわけではないが、壁外に向けるまなざしが、他の誰よりも真摯であるようにnameには見えていたからだ。言ってしまえばハンジが巨人に対して尋常ではない愛情にも似た好奇心で巨人の生態を解明しようとしているのと同様に、彼もまた純粋に壁の外に出ることによって自分の中にあるなにかを立証しようとしている。
それに対してnameは真逆だった。調査兵団に在籍しているにも関わらず、意識は常に壁内にあった。壁外にあるのは憎むべき対象のみで、万が一にも巨人を殲滅したのち自由を獲得したとしても、壁の外で暮らしたいとは毛ほども思っていなかった。戦う理由は自由のためでも人類のためでもない。自分が自分であるために。それだけだった。己の存在の立証。ゆえに全てを投げうつことなどナンセンスだ。求めるものを得るには、得た先に喜びや驚きを感じるには、肉体が、命が必要なのだ。生きねば意味がない。だから、強くあらねばならない。

「だからあなたは駄目なの」

「では何故拒まない?」

試すようにエルヴィンはnameの顎に手をかけた。nameは弱々しく笑う。

「拒絶なんて、できるわけないでしょ」

「是非理由をお聞かせ願いたい」

エルヴィンがくつくつと笑うとソファが軋んだ。「言わない」とそっぽを向いたきりnameは口を閉ざした。これ以上言葉を続けても意図しない方向に会話が進んでいくと思ったからだった。沈黙をさらなる深い沈黙で埋めるような時間が流れ、その間にエルヴィンはnameの顎にかけた指を離し、繊細な形をした彼女の耳の輪郭を確かめ、ほっそりとした首の儚さを愛おしんだ。不機嫌な猫のようにじっとしているnameは「それ以上はだめ」とエルヴィンから半身分距離をとる。

「それ以上したらどうなるんだろうか」

「その右腕が大事なら今すぐ私にお休みを言って見送るべきね」

「できそうにないと言ったらきみはどうする?」

「どうしてほしいの?」

疑問ばかりが飛び交う会話だ。男の方は駆け引き、あるいはやり取りを楽しんでいるのかもしれないが。まっすぐに見つめられるのは苦手だ。特にこの男は。nameはなるべくエルヴィンと目を合わせないようにして「本、今夜中に読みたいからそろそろ行くわね」と立ち上がる。無論エルヴィンは彼女を引き留めた。「エルヴィン、」腕を引くエルヴィンを窘めたnameは、彼女の予想通りそのまま腕を引っ張られソファに倒れ込んだ。

「今夜ばかりはきみを部屋に帰せそうにない」

「帰せそうにないではなく、帰すのよ。あなたほどの男ならやればできるわ、絶対に。頑張りなさい」

「心強い励ましだな」

さあ、もう行かなくちゃ。nameは今度こそ本気でエルヴィンの腕の中から抜け出した。揺らいではいけないと、自分に言い聞かせる。甘やかされるまま男の腕の中に身を預けることができたらそれ以上に幸せなことはないだろう。けれど、それは永遠ではない。奪われるのは一瞬で、しかも強引だ。さよならを言う暇さえ与えてはもらえないだろう。目の前にいるのは生きたエルヴィンだというのに、心が傾きかけるたびに彼の背後に忍び寄る死の影が濃さを増すのだ。

「そんな顔をされたら余計に無理だ」

「エルヴィン、お願い」

それはもはや懇願だった。彼女の手に持っていた本を取り上げ、エルヴィンはやや強引にnameの身体を自身の腕の中に収めた。逃げ場のない熱がふたりの間で膨らんでいく。一日着ていたシャツはくったりとしていて、まだほのかにのこる彼の香水のにおいをそこに留めていた。言葉を発せず、身動きもせず、nameはただ呼吸を繰り返していた。まだ間に合う、と抜け出す算段をしても、まるで口の中の水分をすべて吸い取ってしまうぼそぼそのパンの屑のように思考は欠け落ちnameを混乱させた。頭の中にある考えを巡らせるための装置の油という油はことごとく切れ、微細な歯車の歯は欠け、そのうえ全てが瞬時に錆びついてしまったようだった。

「俺はきみが欲しい」

「できないのよ、無理なの」

「相変わらずの強情だな。いいかname?俺は”今”きみのことが欲しいんだ。それならどうだ」

今、の部分をエルヴィンは強調した。今。生きている今この瞬間に。彼の目はそう語っていた。

「今あなたに自分を許してしまったとして、もしこの先あなたを失うようなことがあれば今度こそ私は駄目になってしまう。そうなるわけにはいかないの」

もうあんな思いはしたくないの。絞り出すような声だった。エルヴィンは静かにnameの言葉を聞いている。「何もかもが嘘みたいな、色も温度もない世界で生きるのはもうごめんなの。私は、私は……そんなに強い人間じゃない」エルヴィンの胸元に拳を押し付けnameは唇を噛んだ。繕うこともしない感情の吐露なんていつぶりのことだろうか。ぼおっと熱を持った頭の芯から離れた場所で、冷静な自分が思い返している。

「できる限り努力しよう」

「できることなんてたかが知れてるのに。それに、あなたは私を魔弾の射手と言ったわね。最後の一発の行方はあなたになるかもしれないのよ?」

「きみに屠られるのか。まぁ、巨人に喰われて死ぬことを考えればそれも悪くない。しかし、最後の一発の行方を決めるのは誰だった?そう、悪魔さ」

しんとした部屋に響いたエルヴィンの声は、どこか孤独の色がにじんでいた。去来する記憶を宙に見る眼差しのエルヴィンを、nameはずるいと思う。と同時にひどく胸が痛むのだった。悪魔呼ばわりなど、誰がされたいことだろう。

「あなたは悪魔なんかじゃない」

「さぁ、どうだろう」

眉を持ち上げたエルヴィン。「悲しくさせないで」そう言ってnameは彼の胸板に頬を寄せた。もう悲しいのはじゅうぶん。弱い心を閉じ込めて、強さをまとえばどうにかなると信じてきた。現に自分は今ここにいる。悲しみはnameを強くした。今なお彼女が強くあるのは、彼女の悲しみがいまだ癒えていないが故だった。時間は痛みを忘れさせ辛い記憶を風化させる手助けはしてくれる反面で、記憶のコントラストを巧妙にいじくり幸福の度合いを大幅に偽装させてしまう。手の届かない美化されたノスタルジーとわかっていながらも、人はそこに思いを寄せずにはいられない。強さは辛い過去からの前進の証ではなく、むしろ囚われているから強くならざるを得ないという呪縛なのだった。
その男の瞳の輝きはnameに希望と破滅を同時に魅せる。相反するふたつが混在する碧い瞳は、過去の記憶に閉じ込められたnameが現在を生きるためのともし火でもあった。ああ、そうか。nameは閉じていた目を開けた。

「私は、あなたを目指して進もうとしていたのかもしれない」

「おだてると調子に乗るぞ」

「死なないって、約束して」

「それは無理だ。俺もきみもいつかは死ぬ」

nameの額にキスをしてエルヴィンは唇だけで笑った。「私は真剣なの」「知ってるさ」上目でnameはエルヴィンを睨む。

「できない約束はしない主義でね。俺は嘘はつきたくない」

「嘘……ね」

考えてみれば当然のことだ。口先だけの約束など何の役にも立たない。立たないが、時としてそれは慰めにもなるということをお互いに知ったうえで、それでも彼は口にしなかった。それは誠実さのあらわれでもあると同時に現実の残酷さを示していた。甘く甘く甘い、ふたりきりの世界を容赦なく切り裂く刃を、防ぐことなど不可能なのだから。

「嘘はいいから、じゃあ代わりにあなたが欲しいものを教えて」

「nameのことか?」

「違う。誤魔化さないで」

じっと自分を見据えるnameに、エルヴィンはどうしたものかとしばらく思案する。漠然とした焦点で膝の上で広げた手のひらに視線を落とし、何度か握ったり開いたりを繰り返し、ようやく自分の中で折り合いをつけたのか長いため息をつくとエルヴィンは静かに口を開いた。
彼から語られた過去について、nameは一切の感想を述べることをしなかった。「こんな話を誰かに話すのは初めてだ」そう言ったエルヴィンの声は掠れていた。自分の腹に感じる男の腕の重みをひどく大切なもののように感じ、nameはエルヴィンの腕をそっと撫でた。この男もまたいつか、私のことを置いて逝くのだろう。北斗星のように瞬き続ける不吉な予感は、いま語られた話を聞いて輝きをいっそう強めたような気がした。

「だったら生き延びるしかないわね」

「ああ、そうだな。そうすればつまり、俺はきみの隣に立つことができるというわけだ」

nameの頭頂部にキスをして「さぁ、そろそろ時間だ」とnameの手を取り立ち上がる。

「部屋まで送ろう」

「ここでいいわ」

本を小脇に抱えたnameは、思い直して本を手に持ち直すとそろそろとエルヴィンに近付き彼の胴に腕を回した。今この瞬間の彼の体温を感じるために。nameの方から行動に出るとは思っていなかったエルヴィンは完全に虚を突かれたらしく、これは参ったなと眉を下げた。小柄な女性であることは常々思っていたけれど、あらためて向かい合い腕の中に収めてしまうと自分との体格差を思い知らされ庇護欲をかきたてられる。庇護などこれっぽっちも求めていないnameにそんなことを言えば鼻で笑われるに違いないので、エルヴィンはそれを心で思うにとどめておいた。「庇護?自分の身ぐらい自分で守れなくてどうするの?そもそもあなたは私の庇護なんてしている暇があるの?ないでしょう?ふざけるのも大概にして」と小言が聞こえてきそうな気がして、nameの遥か頭上で苦笑するエルヴィンであった。

「おやすみなさい」

「自分で促しておいてなんだが、部屋に戻るのか?」

「もちろん。これ、読みたいから」

身体を離してnameは手にした本を顔の横に掲げた。「引き止めたり帰そうとしたり、忙しい人」緩んだ口元から笑いがこぼれる。name自身気が付いていないけれど、エルヴィンとふたりでいるときの彼女は幾分か表情がやわらかだ。たとえ言葉で多くを語らずとも、流れる沈黙は決して不快なものではなく、むしろ沈黙が彼と彼女の共通言語であるかのように絶妙な間合いがいつもふたりの間にあった。大人であるが故の不干渉と、それでいて同じ場所である程度の親密さをもって過ごしたが故に生まれた身内のような居心地の良さ。しかしその心地よさに甘えるではなく、nameはこれまで自分の足で立ってきた。
扉の前でふたりはキスをし、長い時間見つめ合った。「また明日」と言って先に視線を逸らしたのはnameの方だった。言葉の終わりの弱々しさに気付いたエルヴィンは「さすがに今晩死ぬようなことはないと思うが」とnameのことをもう一度抱き締めた。そんなんじゃない、と押しつぶされた声で言ったnameは、大きく息を吸い込んだ。約束をするのは怖い。反故にされて傷つくのは自分だ。なにも求めないし求められない。そういう日々に慣れて久しいので、たとえ習慣的な挨拶ひとつにとってもエルヴィンとの関係が変わった今「また」を口約束で交わすのは、彼女にとって大いなる勇気ある行動なのだった。

「name、愛しているよ」

深くやわらかい声で囁かれた愛の言葉は、耳殻を震わせnameの胸の奥に染みこんでいった。首を縦に振ったnameは、その拍子に涙がこぼれないようこっそりと頬の内側をかみしめた。これから自分の肌に降り積もるであろう愛がどれだけのものであろうと、風が吹けばそんなものは瞬時に吹き飛ばされてしまうのだ。嵐が咲きほこった花びらを散らしてしまうように。美しいからと、容赦なんてしてもらえない。散った花を拾い集めて押し花にしたところで色は褪せ干乾び、やがて粉々に砕け散ってしまう。愛だって同じだ。
夜、ベッドの中でnameは眠れずにいた。借りた本は数ページ読んだだけでそのままにされていた。これでよかったのだろうかと何度も思った。けれど言葉はもう身体の外に出てしまったし、なによりnameはエルヴィンの体温を知ってしまった。後悔せずに進むしか道はないのだろう。たとえそれが険しく、途中で途絶えている道だったとしても。
たぶん、いや、確実に自分は選択を誤った。のらりくらりと交わす「ごっこ」のような関係でよかったはずなのに。何日、何か月が経って季節が移ろっても、nameが己の過ちを反省し続ける現状に変わりはなかった。それでもエルヴィンとの関係解消を申し出なかったのは彼女なりの諦めと覚悟あってのことなのだろう。いずれこの男も自分を置いて去ってゆくのだという絶対的な結末を抱えて交わる愛は予想外にnameを熱くし、思いもよらぬ密かな執着心を芽生えさせた。そして芽生えたまだうぶ毛の残るやわらかなあおい双葉をむしり取っては、ひとりのベッドで声を押し殺し涙だけでひっそりと泣いた。翌朝エルヴィンに会えば、隠そうにも隠し切れない腫れぼったい目蓋にキスをされることはわかってる。彼にはすべてお見通しなのだと思うだけで、こらえていた涙がまたどっと溢れるのだった。
冬の始まりはハンジのくしゃみによってもたらされた。「さっぶい」と肩を抱いたハンジが自身の研究部屋に入って数分後、慌ただしい足音と共にモブリットが凄まじい形相で「水と……タオルっ……」と走り去っていくのとすれ違ったnameとエルヴィンは今年もこの季節がやって来たのかと目配せし合った。その夜、たっぷりと時間をかけて互いをあたため、数えきれないほどのキスをしてもなお不思議とふたりに眠気は訪れなかった。この夜は永遠なのではないかと錯覚するようなゆるやかな時間の流れに、愛情が赴くままに何度も愛を交わした。乾いた空気があまく潤い、それにより生じたとろみによって時間は歩む速度をさらに遅くした。

「いつもならもう眠たくなる時間なのに」

「もうくたくただ。これ以上は無理だぞ」

ベッドで仰向けになっているエルヴィンの胸元から赤みのさす顔をあげたnameは、呼吸を整えながら「私だって」と髪をいじった。なにもかもが満たされていて、ただ今ある幸福だけに浸っていられればいいのに。たぷん、と揺れる胎に右手をのせてnameは身体を小さくした。
熱を帯びた男の肌に手を置いて目を伏せたnameの頭をエルヴィンが撫でる。「余計なことを今考える必要はない」親指と人差し指で耳を挟むようにしてなぞられ、余韻もあってかnameの唇からは上ずった声が漏れた。「夢中で溺れていればいいのさ」そう囁いたエルヴィンの声は、身体の中心にある細い空洞に直接注ぎ込むような声だった。「じゃあもっと溺れさせてよ」nameは挑むような目でエルヴィンの心臓の真上に人差し指をつきたてる。

「name、」

誰も知らない密教の祝詞のような響きでエルヴィンはnameの名前を呼んだ。おごそかすぎて、もはや名前としての役割を失い掛けていた。nameは彼の言葉の続きを待つ。おそらくは望まない言葉を投げかけられるだろう、という悪い予感とともに。

「俺だけを愛してほしい」

ああ、ほら。nameは役目を終えた星が自らの光を音もなく消すみたいな吐息をはいた。泣きたい気持ちになって眉間に力を入れる。
この男は子どもなのだ。知的に振舞い雄々しく集団を鼓舞する一方で、団長という地位に在る理由はひどくいたいけで純粋だった。美しくて残酷。彼が彼たる所以こそが彼を殺すのだ。逃れられない。私の力でも彼を救うことなんてできっこない。悪魔から逃れられる人間などいないのだ。それは、つまり、私も。nameは唇を震わせた。

快晴の空の元もと白馬に跨ったエルヴィンの声が空気を震わせる。先日、夜半まで愛し合った際にnameの鼓膜を揺らしたものと同じとは思えぬほどに輪郭のはっきりとした咆哮だった。
誰よりも速く駆ける一騎に跨るのは無論nameであった。隣のエルヴィンをぐんぐんと引き離し初列の索敵隊すらも追い越し、風と同化したところで鬱蒼とした森へと入ってゆく。重なり合った木々の葉の隙間からちらちらと陽の光が漏れている。ひんやりとした木立の中は小鳥のさえずりが響くだけで、風も吹いていないためしんと静まり返っていた。馬から降り立体起動装置を使って樹上に上がると、視界を遮る邪魔な小梢を刃の先で払い除ける。あたりをぐるりと一望し耳を澄ませるも、はるか後方から後続の馬の蹄の音が聞こえてくるのみだった。最近、以前よりも耳の聞こえが良くなった気がするようにnameは感じていた。自分を取り巻く世界の音が、偽りなく正しく自分の中へ入ってくる。耳を塞いだところで音の聞こえ方に何ら変わりはなく、目を閉じればよりいっそう音は鮮明に彼女の中で実像を結んだ。
どこでもない場所に迷い込んでしまったみたいだ。世界も私を知らない。私も世界を知らない。鳥の声だけが唯一彼女をこの場に留める綱だった。あまりにも清らかな空気に、nameの頭には「もういいのではないか、ここで全てを終わりにした方がいいのではないか。そうすれば何も失わずに死ねるのではないか」という考えがふっと浮かんだ。そして彼女は目を見開く。なにも失わずに?自らの人生を変えてしまう程の多大なる喪失があったにもかかわらず、何も失わずに、と言ってのけた自分の愚かさをそら恐ろしくなると同時に、己の心を切り裂いた傷が時間の経過によっていつの間にか癒されていたことを知る。かさぶたを剥がすたびに傷は痛み血が流れたが、ささやかな皮膚の変色だけを残してすべて剥がれ落ちていたのだ。エルヴィンは彼女の傷跡ごとnameを愛おしんだ。nameもまた人知れぬ彼の過去ごとエルヴィンを愛した。
愛することに臆病だった。多分、そうだったのだと思う。新たに誰かを想うことは亡き者への裏切りなのではないかと怯えていた。けれどnameはもう、かつての恋人を思い描いても、彼の口にする「愛している」の言葉は、彼女がどれだけ記憶力を総動員したところでエルヴィンの声で再生されてしまうのだ。冒涜よ、こんなの。とある夜、nameは吐き捨てるように言ってエルヴィンの腕の中で泣いた。エルヴィンはnameの背中を我慢強く撫でつづけた。言葉は何の役にも立たないと彼は知っていた。今ここにある自分の体温と質量だけが彼女の救いになると信じて傍にいた。それは、nameのかつての恋人の死からちょうど5年が経った日のことだった。
蹄の音が近づいてくる。nameはブレードを収め両腕を大きく広げた。このまま背後へ落下すれば容易く死ねる高さにいる。深く息を吸い、吐きだす。つま先が木の幹からわずかに浮く。重心をほんの少しだけ後ろに移し、目を閉じ世界の幕を降ろす。地面と平行になり垂直になり、ゆるやかに回転し落下していたnameの身体がとうとう地面すれすれになる。表情は穏やかで、これから深い眠りにつく間際の子どものように満ち足りていた。
その時だった。無音だったはずの世界を真っ二つに切り裂くがごとく聞きなれた乾いた音が木霊した。木々の遥か上空を高々と上がる一筋の赤色を目にした次の瞬間、彼女の意思とは無関係に身体は宙を舞っていた。その目には焔が火の粉を散らして燃え上がっている。凪いでいた血流は瞬時に沸き立ち、いまにも音を上げて沸騰しそうだった。全身の筋肉が次の動作を求めて焦燥に駆られ、トリガーに伸ばした指先が震えた。

「やっぱりあなたは悪魔ね、エルヴィン」

まるでそこを撃ち抜かれたかのように左胸を抑え、nameは歪んだ顔で笑った。
森の手前、北西の方角で信煙弾は打ち上がっている。鋭く指笛で愛馬を呼び戻し、nameはひとり森を抜け隊列に戻った。左翼の3隊は大きく左に旋回し巨人と対峙、その他の隊は目的地に向け全力で駆けている。胸ポケットに入っているオペラグラスを片手に左右に視野を広くとり、他に巨人の姿がないか目を細めた。おそらく数十秒後にあと4体ほどこちらに向かってくる、そう予想したnameは次列中央のエルヴィンのもとへ一旦戻った。

「おしゃべりは後よ。読めなかった私が悪かった」

「俺はなにも言ってはいない」

ちらりとエルヴィンを横目で見たnameは彼に返事をする代わりに、エルヴィンを挟んで左手にいるミケの名を大声で呼んだ。ミケは右手を掲げ「4」の数字を作ってnameに見せると、先ほど信煙弾の上がった方向に振り下ろした。それを見て小さく頷くや否や、手綱を引き馬の腹を力強く蹴った。

「続きは帰ってからね」

エルヴィンを一瞥すると彼の返事を待つこともせずnameは巨人と交戦している左翼へと風のように走り去った。

「頼もしいな」

「ああ、心強いよ」

馬を近づけてきたミケにエルヴィンは涼やかに言った。疾風のごとき速度で小さくなってゆくnameの背中に翻る自由の翼は、まるで彼女が本当に飛んでいるかのようにエルヴィンの目に映った。通常通り上げる予定だった緑の信煙弾を弾倉に込め、彼はnameの帰還を待っている。
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