2018

時間が経つのはあっという間だった。オレたちは3年になり、2度目の「また同じクラスだったね」のやり取りを交わした。インターハイに向けた練習と前倒しで取得しなければいけない単位の為の課題で多忙を極めたけれど、オレはできる限りnameのために時間を作った。といってもnameは遠慮してなのか、どこかに出かける誘いにのるのは2回に1回程度だった。「あんまり無理しないでね」普段はそう言って、テスト期間で部活が休みの時に一緒に帰ってやるだけで馬鹿みたいに喜んだ。毎度、毎度。いっそ無邪気なほどの笑顔に、俺はnameを好きな気持ちの倍ぐらい罪悪感を抱いていた。

「なぁ、お前進路どうすんの」

「進路?英語、かな」

「あぁ、得意だもんな」

「巻島くんが色々教えてくれたから」

「別に、オレは……」

図書館で、誰もいない教室で、俺の部屋で、nameと向かい合って勉強した日々を思い出す。そこで、初めてキスをしたことも。小さくてやわらかくていい匂いがした。これまで以上に間近に体温と息遣いを感じて、自分はこれを大切にしなくてはならない、という責務を覚えた。できるのだろうか、できないかもしれない。自問自答の狭間で揺れながら、nameが繰り返した「大丈夫」の言葉だけを頼りになんとか自分を奮い立たせた。

「私、頑張るね」

「nameなら大丈夫ショ」

しばらくの沈黙のあと、nameはうんと首を縦に振った。
インターハイが無事に終わり、オレは部に退部届を出した。出発はいよいよ明後日に迫っていた。

そして、出発の前日。誰にも言っていなかったけれど、nameにだけは前もって伝えておいた。いつものように夏休みの図書館で勉強をして、夕暮れが近づいてくるとふたりで学校を後にした。同じ道、同じ景色、つないだ手、伸びる影。それでもやはりお互いに言葉少なだった。

「準備、できた?」

「あぁ……あとは手荷物と自転車だけショ」

「自転車、やっぱり最後までとっといたんだ」

「まぁな」

もう一度、最後一緒に走りたいやつがいるから。思いがけずしんみりした言い方になってしまってオレは焦った。

「明日の見送り、誰か来るの?」

「いや、お前だけ」

そっか。nameはつま先で石ころを蹴った。繋いだ手の力が緩んだ気がして、オレは指先に力を入れる。それっきりnameは口を噤んでしまった。ゆっくりとした足取りで歩いた。止まれ、の標識のところまでやってくると、nameが「巻島くん」とオレを呼んだ。ん。オレは小さく返事をした。

「ごめん、やっぱり大丈夫じゃないかも」

「……ッ」

泣いていた。nameが、泣いていた。静かに、涙だけを流して。
ほら見たことか。だから言ったんショ、あの時、さんざん。
母親と手を繋いだ子どもが泣いているnameを心配そうに見上げて去っていった。オレは何も言えないまま、何もできないまま立ち尽くしていた。

「ごめん、ごめんなさい」

黄金色の水面が音もなく流れてゆく。夕方の風はいまだ昼中の熱気を多分に含みどんよりと濁り、けれど足元の空気は草むらから湧きあがる冷気でひんやりとしていた。乾いた土にnameの涙がぱたぱたと落ちて湿った水玉模様をつくった。俺は空を仰いで目を閉じる。喉の奥が苦しかった。初めて見るnameの泣き顔。小さくて薄い肩が揺れている。見慣れた笑顔はどこを探しても欠片も見つけられなかった。「大丈夫」胸を張って言ったnameの姿も、今やどこにもありはしなかった。泣いたことによって、nameの匂いが濃くなった気がした。はっきり、くっきり、オレの中に届いてくる花みたいな果物みたいな香りは、手を伸ばせば触れられそうなほどだった。

「謝んな……ショ」

触れた頬は涙で熱く濡れていた。指や手の平、手の甲でどれだけ拭っても新しい涙がとめどなく溢れてきてオレの手を濡らした。あー、クソ。オレはnameを抱きしめる。これまでにないぐらいきつく。

「大丈夫だって思ったの。だって、あの時は知らなかったから」

巻島くんの体温を。嗚咽してnameは絞り出した。「離れるなんて、できないよ」堰を切ったように、nameは声をあげて泣いた。小さな子どもみたいに。

「……name、」

泣くなという無責任な言葉も、一緒にいてやるからなんて嘘も、また近いうちに帰ってくるからなんて気休めもオレには言えない。口にしても意味がないから。明日にはさよなら。それだけだった。それだけだというのに、胸の内側を抉られるみたいな痛みが絶え間なく自分を襲っていた。

「明日は絶対に泣かないから。だから、今日だけは、」

泣かせて。消えそうな声がオレの湿ったシャツに吸い込まれた。ながい間、nameを抱きしめていた。いつの間にか日が暮れ、辺りには夜の気配が漂っていた。その間ずっと、腕の中の体温を身体に刻むためオレは身じろぎひとつしなかった。nameの呼吸が整いはじめ、ようやく顔をあげたのは空の隅に星がひとつ光りだした頃だった。

「ごめん」

「だから、謝んなっショ」

涙でべしょべしょになったnameの顔に張り付いた髪の毛を指でよけてやる。大きく息を吸って吐いたnameがオレから身体を離すと、閉じ込めていた熱があっという間に風にのり遠くへ行ってしまった。がらんとした腕の中。これから何度も味わう羽目になるのだろう。どこにいても、なにをしていても、ふいにこの膨大な熱とひかえめな質量を思い出しては胸を痛め、顔を顰めることになる。そんな自分の姿が容易に想像できた。なんだかんだでオレも相当入れ込んでるショ、nameに。

「明日出発なのに遅くなっちゃったね。帰ろ」

「ショ」

ず、と鼻をすすってnameは歩きだす。さすがのオレも、今がずっと続けばいいのに、なんてガラでもないことを思ってしまうのだった。
はっきり態度と言葉に出すnameと違って、オレは表面に感情を出すことをあまりしない。本心を知られてしまうのは気恥ずかしい気がしたし、大々的に叫ばれるnameからの愛をいなすような態度をとる方が自分には合っていた。

「今がずっと続けばいいのに、って思ってるよ」

nameの言葉にオレは足を止める。不思議そうにこっちを見上げたnameの腫れぼったい瞼と濡れた睫毛をじっと見て、目を逸らす。

「同じこと、思ってたわ」

「え、」

その「え」があまりにも意外だったという響きだったのでオレはバツが悪くなる。そりゃ、オレだってお前と離れたくはないっショ。だからそれをそのまま口に出したらさっきよりも大きな「えー?!」が返ってきた。自業自得かもしれないが、お前はオレをなんだと思ってんだ。

「そっか、……そっか」

さっきまで泣いていたはずなのに、nameの顔は嬉しそうに緩んでいた。どうしよう、嬉しい。そう言って両手で頬を包んでいる。「寂しいけど、嬉しい。変なの」こっちを見上げたnameの困り顔がおかしくて笑ってしまう。「笑うとこじゃないよ!」今度は怒り顔。「悪ぃ」ぐしゃりと頭を撫でればたちまちしおらしくなってしまうんだから愛おしいことこの上ない。

「お前には悪いと思ってるよ、あー……、そういうことあんまり、ちゃんと言わないの、とか」

「いいよ、別に。巻島くんが言わない分私が言うから」

「それでいいのかよ」

「よくないけど、しょうがないもん」

でしょ?少しの意地悪さを目元に浮かべてnameは口の端を持ち上げた。ハイそうです、おっしゃる通りです。「オレはお前のことお前が思ってるよりずっと好きだし、会えなくなるのはやっぱ寂しいショ」だから今できる精一杯を口にした。やべぇ恥ずかしい。

「うん」

しみじみとnameは頷いた。そして「ありがとう」と。震える語尾を誤魔化すようにして両手を空に突き上げ伸びをして「絶対大丈夫だと思ったのにな。もー!悔しい!」と、眉毛を下げて笑うのだった。大通りに出てあたりが急に賑やかになる。行きかう車のヘッドライトがオレ達を照らしだす。オレはしっとりとしたnameの手を取った。もうすぐ別れる場所だ。また明日。最後の「また明日」だ。ことさらゆっくりと歩きながら明日の待ち合わせ場所を決めた。

「じゃあ、また明日空港で」

「ん。気を付けて帰れよ」

「うん」

そう言ったものの、nameもオレも中々つないだ手を離せずにいた。向かい合ったまましばしの沈黙。

「巻島くん、」

「んな顔すんなっショ」

「……うん」

「name」

「うん」

「また明日な」

結んだnameの唇がゆがむより先にオレはnameにキスをした。そして額をそっとくっつけて瞳を覗く。「もう泣かないよ、今度こそ大丈夫」nameは静かに言うと額を離した。じゃあ、と手を振って歩きだしたnameをオレはその場で見送った。途中、何度かnameは振り向いて、そのたびに手を振った。最後の曲がり角、両腕をまっすぐにのばして大きく左右に振るnameにいいから早く行け、危ないショ、と呟いて、オレも恥を捨ててそれに応えた。暗闇にどれだけ目を凝らしてもnameの姿が見えなくなってしばらく経つのに、オレはひとり立ち尽くしていた。ああ、明日なのか。進むしかない。決めたのは自分だ。さっきのnameではないけれど、今日だけは。そんな風に思いながら、ようやくオレは一歩を踏み出した。

翌日は快晴だった。手続きを済ませ空港のロビーでぼんやりしているオレを見つけたnameが走り寄ってくる。すっかりいつも通りのnameは「空港、初めてきた」と忙しなく辺りを見回していた。「荷物少ないね」「飛行機の中で何するの」「機内食ってどんななんだろ」「あっ見て!飛行機飛んでったよ!」オレの反応を特に気にするでもないnameを眺めていると、いつの間にか口元が緩んでいることに気が付く。いつもそうなのだ。顔がだらしない。東堂にも言われた。彼女ができたとわかった途端しつこく、それはそれはしつこく根掘り葉掘り訊いてきたから仕方がなくひと言「変だけど可愛いやつ」と言っただけだったのに。どんだけだよ、裕介。
ロビーでは最終搭乗案内のアナウンスが繰り返されていた。

「そろそろ行くわ」

「うん、いってらっしゃい」

昨日の宣言通りnameの目に涙はなかった。今度は逆にオレの方が泣きそうで、といっても実際に泣くわけではないのだが、それでも泣くのを我慢するみたいな力の入った顔になっているのが自分でもわかった。

「巻島くん、」

「なんショ」

「大丈夫だから」

「……」

「大好きだからね、どこにいても、いつだって」

「オレもだよ」

「またね」

その言葉が耳に届くのと同時にオレは全力で飛び込んできたnameの身体を受け止めていた。背伸びしたnameはこれでもかというぐらいオレに唇を押し付けて、「大好き」とまた言った。

「私、大学出たらそっちに行くから」

「は、……ハァ?」

今はじめて聞いたぞ、ンなこと。言い掛けたオレの胸を押すとnameは「それはまた今度会った時に話すね」と笑った。アナウンスが響いている。「ほら、乗り遅れちゃうよ」nameはオレの身体を反転させゲートへと押してゆく。

「今度こそ、いってらっしゃい、裕介」

「な!」

名前……。最後の最後にどでかい爆弾をふたつ投下して、nameは笑顔でオレを送りだした。アナウンスに急かされゲートをくぐった俺は、昨日のnameと同じように何度も振り返りながら出発ロビーへ向かっていった。
飛び立ってゆく飛行機の中、オレは初めてnameの口から出た自分の名前を反芻しては「顔がだらしない」状態になっていた。またね。また明日、を言うのと同じ気安さで手を振ったname。べつに金輪際会えなくなるわけじゃない。織姫と彦星なんて年に一度しか会えないんだ。それを思えば。
低い音と共に上昇してゆく機体。空港はあっという間に小さくなり、雲を抜け、快晴の空が窓の外に広がる。読みかけの本を鞄から出して開いたものの、自然と脳内に溢れ出したnameとの思い出があまりにも果てしなくて、目は紙の表面を滑るだけだった。
nameの熱の名残を確かめるようにオレは唇を指でなぞり、ひとり下を向いて小さく笑いをもらすのだった。
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