2018

暑い日だった。ジメジメしていて、制服のシャツが肌に張り付いて不快なぐらいに。切実に自転車に乗りたいと思った。荷物は全部送ったけれど、自転車はどうしても最後まで詰めることができなかった。オレの半歩後ろを歩くnameの影がアスファルトの陽炎と一緒に揺れている。沈みかけた太陽が、川の水面をオレンジに染めていた。

nameは少し変わったやつだった。1年生の時に席が隣になったのがきっかけで、少しずつ喋るようになった。オレに喋りかけてくるやつなんてあまりいなかったから、世間話(といってもnameが主に喋ってオレは相槌を打つだけだ)や、あいさつ程度とはいえ、どうしてnameがオレに声をかけるのかいつも不思議で仕方がなかった。でも、まあ、気安い(というには若干挙動不審な部分もあったケド)挨拶と会話ははじめの頃こそ警戒こそすれ、嫌な気はしなかった。話の内容はいつもあって無いようなものだったけれど、見る限りオレ以外の男子とnameがそういう話をしているところを目にしたこともなかった。
廊下や下駄箱で顔を合わせればnameは一歩オレに近づいて、「あ、巻島くん」とか「宿題難しかったね」とか、口元に笑みをのせてオレを見上げた。ごくたまに、どうしてオレにだけ話かけるのかと聞きたくなることがあったけれど、そんなことを聞くのもなんとなく自意識過剰な気がしたし、クラスメイトなのだから話ぐらいしたって当たり前だといえばそれまでだ。だから、胸の奥で時々ざわつく気持ちに蓋をしてオレはnameと当たり障りない会話を重ねていった。
2年生になって、「また同じクラスだったね」そう言って笑ったnameを見て、多分オレはこいつのことが好きなんだと自覚した。格好いいね、とか、凄いね、とか、nameはオレを褒める言葉をよく使った。恥ずかしいからそういうのやめろショ。何度言ってもnameは「えー、でもそう思うんだから仕方ないよー」とのんびりと語尾を伸ばすだけだった。
つかず離れず、男女の友情ともいえないふわふわとした関係は、それでも少しずつ近づいていた。nameの親友が休みの時は昼飯を一緒に食ったり、部活のない下校時には途中まで一緒に帰ったり。間に引いた一線を越えそうで越えてこないnameをもどかしく思うこともあったけれど、自分の進路のことを思えばnameがそうしないのは有難いことだった。
自分の気持ちなんて、どうとでもできる。来年の夏が来れば、限りなく近づいた平行線も、また何事もなかったかのように離れていくだけだ。決して交わらないように、オレは細心の注意を払って日々を過ごした。気持ちを、想いをしまっておくことには慣れている。
nameより席が後ろになった時、授業中の彼女を眺めているのが好きだった。真剣な横顔や5限目の眠たそうな瞼、暇そうに揺れる足、スカートから覗く太腿、そして髪を耳にかけている時だけ見える小さな耳たぶ。
これは……すっげ―恋しちゃってるショ、俺。
白いブラウスに透けるキャミソールの紐と、それより少し幅のあるブラ紐の黒色(黒ってお前……)を目にして顔を顰めているオレは、我ながら自分が気持ち悪かった。机に突っ伏してため息をつけば、前の席のやつが「おーい巻島」とまわってきたプリントを頭の上に乗せてきた。「……ショ」顔をあげて受け取ると、振り返ったnameと目があった。キュッと持ち上がる口の端。親し気に細められた目に特別なものを感じてオレはたじろいだ。んな顔で笑って、ブラは黒かよ。なんて思ったらどんな顔をしていいかわからなくなって、無理に作った笑顔は自分史上最高に気持ちの悪い笑顔だったと思う。現に授業のあとnameがわざわざオレの席までやってきて「巻島くんはたぶん無理に笑わないほうがいいと思う」と真剣な顔で忠告をしてきたほどだったのだから。

「そういえば、巻島くんの誕生日っていつなの?」

「7月7日」

「七夕の日なんだ。素敵だね」

「素敵なのは七夕であって、つーか織姫と彦星のあれこれであってオレは一ミリも素敵じゃないっショ」

「その捻くれた言い方!」

「そう言われてもな」

そう言ったオレの背中をnameが「もう」と叩いた。いままでお互い触れることなんてなかった。これが初めてだった。体温など感じる間もなかったはずなのに、触れられた場所はいつまでもあたたかかった。

「巻島くんのねがいごと、叶うといいね」

「……そうだな……ショ」

願い事か。まぁ、色々あるケド。とか何とか言った方がいいのだろうかと思ったが、nameが詳しく聞こうとしなかったのでオレはそのまま口を噤んだ。お前の願い事は。聞いてみたかったけど、聞かなかった。というより聞けなかった。梅雨の合間の晴れの日で、久々の青空が窓の向こうに広がっていた。チャイムが鳴ってnameが「じゃあ」と小さく手を振る。ひるがえるスカートをオレはなるべく見ないようにして、教室のざわめきに紛れてゆくnameの背中に向かって中途半端に手を挙げた。
その年の七夕の日、nameは朝オレに会うと開口一番「お誕生日おめでとう」と言った。そして「本当は日付が変わったのと同時に言いたかったけど、連絡先知らないから、せめて学校で一番に言おうと思って。あ、でも朝練とかで誰かが先に言っちゃったかな」と少し悲しそうな顔をしたもんだからオレは「今日は朝練なかったッショ。だからお前がいちばんだ」と慌ててそう言った。日付が変わっていの一番に携帯を鳴らしたのはもちろん東堂だったが、それを今nameに伝える必要は全くなかった。

「ごめんね、プレゼントとかないけど」

「いや、べつに、んなの期待してないつの」

「だよね」

nameの表情が心なしか残念そうに見えた気がした。「行こっか」と教室へと歩き出したnameの背中にオレは訊ねる。

「なぁ、お前さ、なんで……」

なんで、何なんだ?オレは何を聞こうとしている?

「なんで?それは私が巻島くんのことが好きだからだよ?」

あれ、知らなかった?そう言って振り返ったnameは困ったように笑っていた。
立ち止まったオレたちを周りの生徒が避けていく。「へぁ?」みたいな間抜けな声を出したオレは、先にひとり歩きだしたnameを追いかける。今、あいつなんつった?

「ちょ、待てッショ。お前、いまなんて」

「だから、巻島くんのことが好きだから、って」

「悪い、恥ずかしいからやっぱり2回も言うなショ」

額に手をあてたオレの姿にnameが「巻島くん、変なの」と笑い声をあげた。「いや、変なのはお前だよ。この俺をす、好き、とか変にもほどがあるショ!」つい力みすぎて大袈裟なジェスチャーをしてしまった。

「変かなー」

「変だよ!ッショ!」

とんとんと軽い足取りで階段を上がるname。その後ろにオレはぴったり張り付いて躓かないように気をつけながら段差に足をかける。
なんでオレなんだ。意味が分かんねーショ。気の利いた会話ができるでもない。話だって盛り上がった試しなんかあったか?オレのどこが好きなんだ?見た目か?いやそれはあり得ない。じゃあなんだ。つか、いつから?終わりのない疑問がぐるぐると頭の中を巡っていた。

「ずっと前から好きだったんだけどな。気づかなかった?」

「ハァ?」

「これでも私、頑張ってたんだよ?」

「な、にを?」

「巻島くんともっと仲良くなれるようにって」

「……あぁ」

あぁ、じゃないッショ!オレ!いやでもなんて言えば。いつもはあっという間に着く教室だというのに今日はやけに道のりが遠かった。上履きの裏が廊下に張り付いたみたいに足が前に進まないし、床がぐにゃぐにゃと波打っているみたいに感じてまっすぐ歩くのも一苦労だった。

「巻島くんがなんて言おうと巻島くんは格好いいよ」

ようやくたどり着いた教室。けれどnameは教室には入らず廊下の壁に背中をつけた。「自転車乗ってるのね、何回か見たことあるよ。私は自転車のことはよくわからないけど、坂登ってる時の巻島くんの楽しそうな顔、すっごく眩しかった。あんな顔、教室では見たことなかったから」nameの真ん丸な目に吸い込まれそうだった。蓋をして、せっせとその上に積んだ重しが音をたてて崩れていく。「髪は緑だし、姿勢悪いし、入学してすぐの時に川で叫んでるの偶然見ちゃったりしてはじめはちょっと怖かったけど、でも私の消しゴム拾ってくれたでしょ?覚えてるかな、覚えてないよねきっと」そう言ってnameはつま先に視線を落とした。「嬉しかったんだ。私の消しゴムちっちゃくてさ、遠くまで転がってっちゃったのに巻島くんわざわざ席立って持ってきてくれたんだもん、授業中だったのに」nameの頭のてっぺんを見ながらオレは思い出す。忘れてなんかなかった。あの時、拾うつもりなんてなかったけれど、nameのあまりにも困り果てたハの字の眉を見てしまったらそうするより他はなかったのだ。「ありがとう」の小さな声と、広げられた白くて小さな手のことを、オレは今でも鮮明に思い浮かべることができる。つか、川で叫んでたの見られてたのか。でも。

「……オレはやめとけ」

「なんで?」

上げられた視線の強さにオレは負けそうになる。なんで、か。

「仮に付き合ったとしても、あと1年ぐらいしかお前と一緒にいてやれねぇから」

「1年?卒業まではもう少しあるよね、なんで?」

また同じ質問。その時がくるまで誰にも言わないつもりでいたけれど、こいつにだけは正直に言うことにした。そう、オレはnameの前だと正直になれるのだ。そのことに改めて俺が気づいたのはずいぶんと後、日本を発つ、少し前のことだった。

「来年の夏になったらイギリスに行くことになってんショ」

「そうなんだ、でもそれって私が巻島くんのこと好きなのに関係あるの?」

いつものふわふわとした笑顔のままnameは首を傾げることもせずオレに訊ねた。こいつがこんなに芯のあるやつだとは思っていなかった。やんわりと保っていた距離を急に詰められて、仕留められたのはオレの方だった。蜘蛛の糸に巻かれているかのような気分だった。覚悟を決めるしかない。そう思う一方で、それが結局nameを、そして俺自身を傷つける結果になることは目に見えている。どうせ傷つくなら傷は浅い方がいいに決まってる。

「関係あるショ。お前になにかあってもオレはお前のそばにいてやれないんだぞ」

つまりエンキョリレンアイなのだ。そんなの、絶対に続かない、続くわけがない。自然消滅するに決まってる。ずるずると未練と気持ちを残したまま終わる恋愛なんてしないほうがマシだ。

「なにかって、例えば?」

質問攻めかよ。今までと全く違うnameの様子にオレは気圧されながら、言葉に詰まりながらも「たとえば、お前が、オレに会いたくなったりとか、寂しくなったり、とか、」とそれらしい、けれどもっともな例を挙げる。するとnameは考える間もなく「大丈夫」と断言した。

「大丈夫だよ。だって私は巻島くんのこと好きだから」

繰り返してそう言ったnameにオレはぐしゃぐしゃと髪を掻きむしった。もうすぐ予鈴鳴るから行こう。そんな声が遠くで聞こえた。予鈴までには決着をつけなければ。

「あんま好き好き言うな、マジで。つか、本当に、無理」

無理なのは、多分オレの方だ。手の平にかいた汗をぎゅっと握りしめる。坂道を登っている時の方がよっぽどマシなぐらい心臓がうるさかった。オレはリアリストだ。夢は、あまり見たくない。

「寂しくないよ。大丈夫」

崩れた重しをようやく蓋に積み直したところだったのに、nameの言葉によってそれは一瞬にして崩れ去った。

「……大丈夫って、なんで言い切れるんだよ」

「えー……あと何回言ったらわかってくれるんだろう」

nameは怒ったような顔を作ってオレを見上げ、今日何度目かも忘れるぐらいの「好きだから」をまた口にした。

「それだけじゃ、どうにもならないことだってあるッショ」

「ない」

「ある」

「ない」

押し問答だ。それでもnameの気持ちが痛いぐらいにまっすぐで、しかもそれが他の誰でもないこの自分に向けられているということが心の奥では嬉しかった。なぜなら、オレだってこいつのことが好き、だから。

「私は、巻島くんがどこにいたってずっと好きだよ。だからイギリスでもアフリカでも南極でもどこにでも安心して行っていいよ」

ね?小首をかしげるname。アフリカ?南極?んなとこまで誰が行くかよバカ。降参だ。オレは観念した。やっぱりこいつ、変だ。でも、そこが良い。世間話をするみたいに、こんなに好きだ好きだと恥ずかしげもなく連呼するやつなんてnameのほかにきっといない。オレは両手を上にあげてお手上げのポーズをとる。クハ。自然と笑いがこぼれていた。

「知らねぇぞ」

そう言えば、nameは今まで見たこともないはにかんだ笑顔をオレに寄越した。それと同時に予鈴が廊下に鳴り響く。「ほら、教室入るショ」顎で促せばnameはもたれていた壁から背中を離してオレの後についてきた。「じゃ、」とオレの背中を指でつついてnameは自分の席へと向かっていった。
その日は先生の話も、授業の内容もほとんど頭に入ってこなかった。なにもかもが遠くて、視界の右端にあるnameの白くて小さな背中だけが瞼の裏に焼き付いた太陽みたいにぼんやりと発光していた。朝に言われた言葉の数々、好き、大丈夫、好き、大丈夫、はいまだ消えずに頭の中を巡っていた。頬杖をついて初夏が近い空を見上げる。目を閉じてもオレはnameの気配を感じることが出来た。つまり、そういうことなんだろうか、nameの言う「大丈夫」は。どのみち、そう遠くない未来にオレは答えを知ることになるだろう。
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