2018

壁外調査から帰還して2週間が経とうとしていた。諸々の書類仕事や上層部及び国や貴族といったスポンサーへの報告もあらかた終わり、ようやくひと息ついた調査兵団の幹部たちは、交代で2日ずつの休みをとることになっていた。何度かこの嵐のような2週間を経験したけれど、未だに身体が慣れることはなかった。身体だけじゃなく、心も、だ。
分隊長たちは遠征時の細々たる部分までを各隊に配布された山のような書類に書き記さねばならないし、このあと控えた3兵団に中央の面々を加えた事後報告会議で雨あられと降り注ぐ質問に一点の隙なく答弁できるよう準備をする必要がある。部屋の隅の埃をつついてほじくり出すような彼らの質問にはほとほと呆れかえるし、それに冷静さを一切欠かずに答える団長と兵長はさすがだと改めて思い知らされる。団長の補佐である私は書記と資料管理の役目があるため常に後ろに控えているのだけれど、会議の間中、机上の空論をしたり顔で並べる老人達の向う脛を蹴り飛ばしてやりたいのをなんとか抑えるのに毎度必死なのだった。
団長も兵長も休みとはいえ自室に仕事を持ち込んでいるし、分隊長たちと同様に休みをもらうことに引け目を感じる。「きみは働き過ぎだ」と言って自身の休み明けに私の肩を叩いた団長の目の下の隈は、依然消えていなかった。私が休めばその分仕事は滞る。食い下がったけれど、休みを取らないことも、休みを1日だけにすることも、休むとしても仕事を持ち帰ることも、全て団長は許してくれなかった。

「あー……罪悪感」

「俺の顔を見るなりそれはないだろう」

とりあず仕事にきりをつけ、団長に追い出されるように部屋を後にした私が真っ先に向かったのはミケの部屋だった。彼も明日から2日の休暇に入る。私が来るほんの少し前に部屋に戻ってきたらしいミケは着替えの途中だったらしく、上半身裸のまま私の言葉に顔を顰めた。

「あいつは仕事が好きなんだ。放っておけばいい」

「とは言ってもね」

渋い顔で唇を尖らせると、ミケの腕が伸びてきて私を引き寄せる。

「明後日の朝まで仕事のことは忘れろ。エルヴィンの事もだ」

一瞬返事をためらえば、「嫌とは言わせない」と低い声。降参とばかりに両手を挙げる。それでいい、とミケは満足そうに頷いて、たっぷりと長いキスを寄越した。絡まり合いながら、肌と肌をぴったりと寄せ合いながら私たちはバスルームに向かう。点々と床に落ちた服のことなんてどうでもよかった。キスをしたままミケが後ろ手にシャワーのコックを捻る。頭の先までぎっちりと詰まっていた仕事のあれこれは、迸る熱い飛沫に洗い流され排水溝へと渦を巻きながら消えていった。
久しぶりのセックスはお互いの疲労なんてお構いなしに行われた。身体を洗うのさえもどかしくて、ずぶ濡れのまま、まるでお盛んな若者みたいに私たちは交わった。充満した蒸気にふたりして顔を真っ赤にして。バスルームの扉を開ける頃には息も絶え絶えで、それが面白くて私たちは抱き合いながらいつまでも笑っていた。

「飲むか?」

「いらない」

せっかくの休みなんだからお前も飲めばいいのにとミケは言うけれど、酒、ことさらミケの部屋にあるような強いお酒を飲んだが最後、気が付けば次の日の昼なんてことになりかねない。「せっかくの休みだからこそ有意義に過ごしたいの」髪を拭きながら言えば、「お前の言う有意義がどんなものか教えてほしいものだな」とミケは髭を少しだけ動かして笑った。からかわないで。拗ねた顔をつくると後ろから抱き締められた。まだ少し湿った肌のやわらかなぬくもり。心地よさに目を閉じて大きく息を吸う。

「ようやくあいつのにおいが消えた」

「鼻がいいっていうのも難儀なものね」

「どうだかな」

首筋に押し付けられた髭のくすぐったさに私は身を捩った。見た目とは裏腹に子供っぽい嫉妬をする恋人を、心底愛おしいと思いながら。
家具らしい家具はソファとベッドぐらいしかないミケの部屋。日に焼けたカーテンの隙間から白い月が見えた。指を絡めあい、仰け反れば唇を塞がれ、迫りくる快感から逃れようにもしっかりと腰を掴まれているせいで逃げようがない。震える肩をざらついた舌先がなぞる。我慢できずにこぼれた声すら手の平ですくい上げられてしまう。「name、」と名前を呼ばれ、瞬きでこたえたら涙がぽろりと落ちた。好き。空気の振動だけで私は愛を囁いた。
ミケの胸元に頬を寄せ、暗い天井を見上げる。指の先までミケでいっぱいだった。この部屋には物は無いけれど、愛が満ちている。時々、苦しいぐらい。私たちの愛は、この部屋以外に行き場所がない。
寝返りを打って背を向けた私を、ミケは全身で包み込む。一点の陰りもない安心感。私たちの身体が作り出す凹凸は、お互い実によく馴染む。まるで、元はひとつの生き物だったみたいに。あるいは生き別れの双子みたいに。

「もう寝る?」

「ああ、そろそろ」

「明日、どうしよう」

もう一度向き直る。顔に落ちてきた髪を耳にかけたのはミケの指だった。足の甲でミケのふくらはぎを撫でる。「さすがにもう無理だぞ」そういいながらミケは私の乳房を包む。大きな手で。「私もよ」頂を指の腹で擦られ声が上ずった。じゃれ合うような愛撫をしているうちに、眠りの波が静かに私たちに打ち寄せた。
翌朝、いつもより少しだけ寝坊をして私たちは街に出た。ぶらぶらと歩きながら店をひやかし夕食を買い込んでいるうちにお昼になったので、その辺で売っていたサンドウィッチを買って広場の階段に腰かけて食べた。パンがもそもそとしていたので千切って鳩にやった。パンくずに群がる鳩を見つけた幼い兄妹が駆け寄ってくるのを眺めていると、正午を告げる鐘が広場に鳴り響いた。

「もう一日が半分終わっちゃった」

「そうだな。まぁ、ゆっくりできたからいいだろう」

ミケの視線の先には鳩を追いかけて黄色い声をあげながら飛び跳ねている兄弟の姿があった。眩しいものを見るような眼をしているミケの横顔から、私は視線が外せなかった。
ふいに胸が締め付けられる。
未来。それは私たちができるだけ触れないようにしてきたもの。愛おしいが故の臆病さだとわかっている。「普通」に、未来を約束できたならよかったのに。もちろん調査兵団の中で結ばれた男女はいる。けれど。生き残ってきた私たちは知っている。ひとり残された者の悲しみを。独り遺して逝く無念を。そこに自分を置き換えることなんて、私には到底できそうになかった。そして時々思う。ミケはどうなのだろうと。彼との付き合い(仲間としても、恋人としても)は短いものではない。「普通」であれば付き合っているだけの次の段階に進んでいてもおかしくはないだけの年月は重ねている。ミケが、あるいは私が意識的にその話題を避けるのは、やはり……。
やめよう。そこまで考えて私は終着点のない思考を断ち切った。手についたパンくずを払い「そろそろ行こうか」と声を掛ける。けれどミケは返事もせず、立ち上がりもしなかった。

「どうしたの?」

顔を覗き込めば、ミケは無言で私の目をじっと見つめた。なにを言うでもなく何度かまばたきをするだけのミケに、私は恥ずかしくなったけれど、完全に視線を逸らすタイミングを逃してまい身じろぎひとつせずミケの次の行動を待つしかなかった。

「name」

「うん」

またしばらくの間。ここまで溜めておいて、彼がなにを言いだすのか見当もつかない。その先を聞きたくもあり、聞くのが怖くもあった。初夏の真昼の日差しに照らされて、肌はうっすら汗ばんでいる。雲が太陽を隠し日が翳る。雲がゆっくりと過ぎ去り再び太陽が顔を出すと、ミケはゆっくりと唇を動かした。

「結婚するか」

「……えっ」

唐突な問いだった。けれどミケの言った言葉は私の返事を求めているというよりはむしろ独り言のように私の耳に届いた。馬車馬の蹄が石畳を蹴る軽快な音、子供たちの喧嘩、物売りの声。そんな辺りの喧騒がすうっと遠のき、ふたりの呼吸の音しか聞こえない。
手放しで喜ぶことができたらどれだけよかっただろう。私だって本当はそうしたかった。二の句を告げないままの私に、ミケは「そんな顔をするな。言ってみただけだ」と目元だけで微笑んだ。

「戻るか」

「ねえ、ミケ……」

先に立ち上がったミケが私を振り返る。のばされた手を両手で掴む。日なたであたためられたミケの手の揺るぎない体温。「好き。大好き」辛うじて口にすれば、ミケは「俺もだ」と私を抱きしめた。もっと別のなにかを言うべきなのに、それしか言葉が出てこなかった。言葉どころか、なにも言わずに頷くだけでよかったのに。そんなことすらできなかった。
帰り道、私たちはほとんど口をきかなかった。繋いだ手をぶらぶらと揺らし、ふたつならんだ影を眺めながらただ歩いた。

「もう少し遠出をすればよかったかしら」

「それは考えもしなかった」

部屋に戻って紅茶を飲みながらふと思った。景色の綺麗な場所に行けばよかった。たとえば湖とか。二日もあるのだから普段は行けない場所に行くことだってできたはずだった。でもミケの言う通り、そんなこと今の今まで考えつきもしなかった。

「疲れすぎてたのかもね」

「お互いにな」

お酒でもないのに紅茶の入ったカップを顔の前に掲げるミケ。カチンと音をたててカップを合わせてわざと一気に飲み干した。
部屋の掃除を済ませソファでふたりくつろぎながら話すのは結局仕事の話ばかりで。「なんだかんだで私たちも仕事が好きなのね、きっと」ミケの腕の中で私は苦笑する。「仕方ない」そう言ってミケは私の髪に鼻を埋めた。
買ってきたもので簡単に夕食を済ませ、はやめのシャワーを浴びる。暮れなずんでいた茜空が空の端にゆっくりと追いやられ、あるいっときを境に宵闇が急速に街を覆ってゆく。開け放した窓からはあおく湿った初夏の夜風が吹き込んでいる。グラスに入ったアルコールをひと口だけ含み、時間をかけてのみ込んだ。窓枠にもたれている私の隣にミケがやってくる。短くキスをして、私は身体をミケの腕に預ける。なんでこんなに安心するんだろう。遠く離れた故郷の空気を吸っているような懐かしさすら覚える。ここが自分の居場所なのだと思わせてくれる無限のやさしい包容力がミケにはあった。

「ミケ」

「どうした」

「結婚しようか」

今度はミケが黙り込む。

「結婚して、子どもを産んで、休みの日にはお弁当を作って家族でお出かけしたりして、」

ミケの顔を見ずに私は続ける。彼がどんな顔をしているのか見るのが怖かった。
いままでずっと考えずにいたこと。私たちの未来について。結婚式や、新婚生活、私の姓が変わること。膨らんだ私のお腹を愛おしそうに撫でるミケの手、子どもの名前、どっちに似ているかで喧嘩をする私達、増えてゆく家族。そして。

「おじいちゃんとおばあちゃんになって、孫やひ孫に囲まれて……」

涙が、止まらなかった。グラスを置いて私は両手で顔を覆う。想像する未来はあまりにも眩しすぎて、なにもかもが光に消えて真っ白だった。死のうと思っているわけでも死にたいわけでもない。むしろその逆なのに。生まれてくる命よりも失われてゆく命の方が身近すぎるのだ。かつての仲間の亡霊が、未来へ向かおうとする私の脚を掴み、先を見据える目を塞ぐ。
嗚咽する私を、これ以上ないぐらいにきつくミケが抱き締めた。

「すまない」

後頭部に添えられた大きな手。なんどこの手に救われただろう。「謝らないで」涙交じりに私は言う。ミケのシャツが私の涙と鼻水で熱く濡れていた。こんなにも愛し合っているのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。

「私はこわがりなの。臆病で、慎重で、いつも失うことに怯えてる」

「知っている」

「多くを手に入れたらその分失う辛さが増えるでしょう。私はきっと、耐えられない。ねぇミケ、果たされない約束ほど悲しいものってないわ」

私はミケの背中に腕を回して力を入れる。窓から流れ込む風はいつしかひんやりと澄んでいた。ミケの呼吸にあわせてわずかに上下する胸。私とミケの体温の境目がなくなってゆくのと同時に、かなしみがふたりの中で混ざり合う。混ざり合っても薄まることは決してない。だって、私とミケの中にあるかなしみは同じ濃度なのだから。頭のてっぺんや指の先で、たぷん、と波打つ音すら聞こえてきそうだった。

「それでも、俺はお前と生きたいと思った」

俺だって怖がりだ。静かに付け加えてミケは私の頬に手を添えた。生きたい。彼の言葉に塞がれていた視界があかるくひらける気がした。顔をあげると火照った頬や熱を持った瞼に夜風が心地よかった。

「ありがとう。ミケが私の人生にいてくれてよかった」

目じりにキスを受けながら言えば、「おかしな言い方をするな。これからもいるんだ。nameが望むかぎり、ずっと」とミケはちいさく笑った。彼の瞳の中で、幸福と嘆傷がせめぎあい揺れていた。

「約束してくれる?」

「ああ、するとも」

確固たる彼の返事を全力で信じようと私は努める。身を裂かれるような努力。
それでもやっぱり涙があふれてしまった私をミケはベッドに運ぶ。無力な赤ん坊をあやすみたいに、私の背中を撫でたり髪を梳いたりキスをしたりする。とめどない涙の流れの中でたゆたいながら、私は全身でミケを感じる。静かに発熱した彼の恒常的な愛を、吐息を、やさしさと残酷さを魂に刻み付ける。なにもないこの部屋の天井にまで愛が満ちていて、私とミケは愛に溺れる。手を繋いで、脚を絡め合って。相思の繰り言を、魚の吐く泡のように果てしなく紡ぎながら。それは浮かんでは消え、一筋の列を成し光り輝く。

「name、だからお前も俺と生きろ。諦めるな、絶対に」

約束できるか?ミケは言う。

「……できるよ、ミケが望むなら」

こたえれば、ミケは目元をゆるませて笑みをつくった。「いい子だ」耳元で低い声。
濡れた睫毛に触れるミケの指先に、私は目を閉じる。
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