2018

あんたの顔なんか見たくない。部屋に入ってくるなり眉を吊り上げて叫ぶようにして言ったnameに、宗三左文字は心の中で溜息をついた。またこの季節がやってきたのか、と。
春は嫌いなの。初めて迎えた春の季節、nameから告げられた。誰がどこからどう見ても彼女の顔は不機嫌そのもので、宗三左文字自身も普段それなりに憂いた表情をしているであろうけれど、ここまで他人に気を使わせるようなあからさまさはない。眉間に皺を寄せ、机に片肘をついた主の固く結ばれた血の気のない唇を横目で見ながら宗三左文字は「ああそうですか」とだけ口にしたのだった。
普段は自室にこもりっきりで、たまに出てきたと思えば八つ当たりだ。人の部屋に自ら、しかも勝手に入ってきておいて顔が見たくない、だなんてそんなのが道理じゃないのは火を見るよりも明らかで。けれど下手を言えば火に油を注ぐだけだということを宗三左文字はじゅうぶん心得ている。
腹立たしいと思う反面、彼女の苛烈ともいえる感情の起伏を宗三左文字はどこか懐かしく思っていた。あの男に似ているのだ。初めて見た時からそう思っていた。すっと細い眉や、涼やかなのに熱をもった目元。見た目だけでなく内面までにnameとあの男との共通点を見出すのにそうたいして時間はかからなかった。
とはいえnameはあの男とは違う。
宗三左文字は彼女の細い首に手を伸ばす。「目を閉じて部屋の奥に引きこもったところで、春は誰にも平等に訪れるものです。そろそろ無駄なあがきはやめたらどうですか」宗三左文字がnameの身体を引き寄せる。いや、とnameは拒むも、それは形だけだった。宗三左文字の薄桃の髪をnameが掴む。痛いのですが。彼がそう言うのなんて、まったく聞こえないていで。呉服枝垂の花びらのような桃色。ほころびだした蕾から覗く、本格的な春のおとずれを告げる桜の花弁のような、淡い、淡い。nameは憎しみを込めた目でひと房とった彼の髪をひととおり睨めつけると、ぺたりと脱力して宗三左文字の胸に頬を寄せた。
「宗三なんてだいっきらいよ」呟く声はか細い。「これが大嫌いな者に対する態度ですか」ふ、と笑みをこぼした宗三左文字からnameはガバリと身体を離す。まるで追い詰められた手負いの小動物だ、と宗三左文字は思う。痛々しい、と。彼女の姿は、とうに壊滅した巣穴をそれでもどうにかして守るべく、太刀打ちできるはずもない敵となおも対峙している小動物の濡れた一対の黒い瞳を宗三左文字に思い起こさせた。
なにをしたって駄目なのだ。そっとしておく他に方法はない。落ち着くまでひたすら待つしか。

「しばらくここにいる」

憤然とした表情のname。彼女の中でそれはすでに決定事項だった。

「はぁ」

「長谷部にそう言っておいて」

身勝手な。宗三左文字はやれやれと思う。すべて自分で決めてしまうのだ。そうして、ひとりで傷ついて、傷ついて、どうしようもなくなって僕のところにやってくる頃には手のつけようがなくなっている。
彼女が何をそんなに憎んでいるのか宗三左文字には見当もつかなかった。彼女を審神者たらしめているものが、彼女の途方もない怒りと憎しみの根源なのだろうということは想像がついた。取り除いてやろうにも、それは木々の根のように複雑に絡み合いもはや分離することは極めて、いや、ほとんど不可能に等しかった。怒りと憎しみが彼女の生の原動力なのだ。お小夜の中にある静かな青い炎とはかけ離れた、爆発的な赤い熱。いつか彼女はその身を己の炎によって失うだろう、そんな予感すら宗三左文字にはあった。
でもまぁ、と宗三左文字はひとり思案する。春は僕もあまり好きではない。眩しすぎるのだ。潤んでゆく空気。濡れたような草の緑と色とりどりの花々。圧倒的な生命の息吹に気後れしてしまう。

「身体がだるい」

「早寝早起き、適度な運動、節度ある食事、ですよ」

「長谷部みたいなこと言うのね」

きゅっと眉を寄せたnameは宗三左文字の顔をまじまじと見た。やめてくださいよ。宗三左文字は鬱陶しげに首を振った。
本丸の北側に位置する宗三左文字の部屋の、いちばん奥まった場所に文机を移動させ、nameはひたすら書類を書きつけていた。鬼気迫る表情で。それを宗三左文字はなにをするでもなく眺める。畑に出て野菜の種でも蒔こうと思っていたが、彼が部屋から出ることをnameは良しとしないのだ。あるじ第一主義、自称終身名誉近侍であるへし切長谷部に少し悪い気がするがこればかりは仕方がない。適当に選んだ本をぱらぱらとめくりながら、これからの数日をどう過ごすか宗三左文字は思案した。
彼が提唱した早寝早起き、適度な運動、節度ある食事の三つはまったく守られることなく二日が過ぎた。自分までもが春とnameの熱に浮かされている。夜、宗三左文字は布団の中でnameの身体を抱きながら濡れた息を吐く。暗闇に浮かびあがった主の身体は朧月のように曖昧な輪郭をしていた。

「綺麗ね」

nameは宗三左文字の髪に触れ唇をつけた。まるで春の化身。額に薄く汗をかいたnameは独り言のように呟く。

「春は嫌いなのでしょう」

動きを止めた宗三左文字が言えば、nameは無言で頷いた。「きらい」と続けた言葉の響きはあまりにもあどけなかった。

「宗三はまだ冷たい春のにおいがする。だから宗三でいい」

「でいい、ですか。あなたは本当に失礼な物言いがお好きですね」

なんとでも言って。そっぽを向いたnameの身体の向きを変え、背中からnameを閉じ込める。なにもかもが途中だったけれど、しばしすべてを放棄して宗三左文字はnameのすべやかな脚に自分の脚を絡ませその感触を味わった。いにしえの宋の時代に作られた白磁がごとく、ほのじろく冷たい脚だった。内に秘められた熱が何故皮膚を通して伝わらないのか、宗三左文字には不思議でしかたがなかった。けれど、彼を愛でたあの男の指先もまた熱気がなかったことを思い出す。綺麗な長い指が触れるとくろがねの身体がその冷たさに震えた。ある種の人間はそのような特性を持ち合わせているのかもしれない。しかし刀である彼には預かり知らぬことだった。
夜の帳を押し上げるようにして白んだ空が木戸の僅かな隙間から漏れ入っていた。それにすら抗うようにnameは障子に背を向けている。

「そろそろ木戸を開けたいのですが」

木戸が締め切られた部屋には、あかり取りの丸窓からのぼんやりとした光のみしか侵入を許されていない。空気はよどみ、澱のように沈殿した陰鬱さのせいで畳には黴が生えん勢いであった。唸るようにだめだと言ったnameの眼光は鋭さを増し、身体中から敵意の棘が全方位に向いている。さすがの宗三左文字もこれにはほとほと困り果てた。ということもなく、棘先に触れぬよう注意しながら彼女の棘を一本一本抜いてやるのだった。

「あと少しだけ。お願い」

かと思えば急に弱々しい態度になる。忙しい人だ。宗三左文字は「わかりました」と返事をし、投げ捨てられた書き損じを拾い上げて丁寧に折りたたんだ。傍若無人も理不尽極まりない態度も、宗三左文字にとっては見慣れたものだった。恐らく、彼らは怖いのだろう。移ろう季節に取り残されるのが。移ろう季節に己が追い越されるのが。終わりに向かう自分をよそに芽吹き花開く命とて、やがては朽ちるというのに。盛者必衰。それは宗三左文字、いや、この本丸にいる全ての刀剣男士の奥底にある絶対的観念だった。
nameは気付いているだろうか。彼女の周りを流れる時間が確実に緩やかになっていることを。宗三左文字は折りたたんだ紙をもう一度開き、百合の花を折ってゆく。折り終えるとnameの耳にそっとかけてやった。

「花が似合うのに春が嫌いだなんてもったいない」

「宗三の方が似合うと思うけど」

「まあ、そうですね」

その言葉を聞いて振り返ったnameは小さな笑みを浮かべていた。疲れた笑顔だった。折り紙の百合を手にとり宗三左文字の髪にさす。「ほらね、素敵」指先で髪をくるくるともてあそびながらnameは言った。宗三左文字は彼女の手に自分の手をそっと重ねた。

「明日は少し外に出ましょう」

聞くやいなや即座に拒否しようとしたnameの口を塞ぐ。担いででも行きますからね。念を押した宗三左文字をnameが睨めつけた。白い肌に浮いた隈をなぞる指先に、小さな救いをひっそりとのせる。願わくば彼女が内なる業火で身を滅ぼさんことなかれかし、と切なる祈りを胸にいだいて。
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