2018

寒い寒いと言って翔くんのいるベッドにもぐり込むとあからさまに邪険に扱われる。ねぇ背中向けないで。私は言うけれど翔くんの背中は無言のままピクリとも動かない。寝たふりがお上手なことで。わき腹をくすぐると長い腕がぐるりと回されて私は身動きが取れなくなってしまう。

「寒いからあっためてください!」

「お断りや」

「翔くんって体温低そうなのに案外あったかいんだよね」

「ボクの話聞いとった?」

ただでさえ狭いのによけい狭なるわ。大袈裟なため息をつきながら翔くんは私から腕を離して自由にさせてくれる。向けられた背中には「好きにしィ」と文字が浮かび上がっているように見えるのでお言葉に甘えて私は彼の背中にぴったりとくっつく。「脂肪が多いと冷えるいうの知っとるよね」「知ってますけど!」「せやねぇ、nameチャンと脂肪は長い付き合いやもんねぇ」「翔くんともだけどね」そう返せば黙り込んでしまったので、おそらくこの返答は彼の想定外だったらしい。舌をべろんと出して不服そうな顔をしているであろうことは見なくたってわかる。
私のことを好き(彼に言わせると「嫌いではない」)という事実と真正面から向き合うことを不得手としている翔くんは、愛情表現がとにかく下手くそで。nameはとんだどエムの物好きだ、と友人一同およびかつて京伏自転車競技部であった面々からはさんざん言われているのだけれど、とんだどエスの物好きと一緒になって凸と凹がぴったり一致するように丸く収まっているのだからなんら問題はないのではないかというのが私の見解だった。

「あぁーあったかい」

「迷惑やなぁホンマ」

この前髪を切りに行ったので少し短くなった襟足を鼻先で遊んでいると、翔くんのお腹のあたりに回していた私の手に彼の手が触れた。「けど、体は冷やさんとき」ぽろりとこぼれた心配の言葉に私はつい調子に乗って「あ、じゃあもっとあっためて欲しいなぁ」なんて言いながら翔くんの服の裾からこっそり手を忍び込ませる。制されるかなと思いきやされるがままになっている翔くん。
おかしいなと思った時には後の祭り。最高に意地悪なお顔をした翔くんと肩越しに目が合って、口を開く間もなく私は呆気なく組み敷かれる。こういうの、久しぶりかも、とか思いながら瞬きをしたらすぐそこに翔くんの顔が迫っていた。いつも私をからかう時にするような舌なめずりをするわけでもなく、かといって唇を合わせるでもなく、それ以上の距離を詰めずに私の目をまっすぐに見ている翔くん。突き刺さるとかそういう冷たく尖った視線ではなく、ただ対象物を観察するような純粋な視線が私の中にすうっと入って溶けてゆく。その目で見つめられると私はすっかりのぼせたみたいに思考がたゆんとしてしまう。もっと見ていたいけれど、これから翔くんにしてほしいことのあれこれをすっかり見透かされてしまいそうなので、私は横を向いて彼の視線から逃げるのだった。
「あかんよ」と言って私の頬をつまんで正面を向けさせるくせに、私が見つめ返すと今度は翔くんがそっぽを向いてしまう。少しだけ唇を尖らせた翔くんの鼻の頭を人差し指で押して「えーなにそれ」と笑うと、「うるさい」と頬をつねられた。
「そういう雰囲気」は少し照れくさい。長いこと一緒にいるからなおのこと。でも時々どうしようもなくて、私も翔くんも手探りでその雰囲気に辿り着く。ここからどうやって持っていけばいいのかな。思案する私のパジャマに手をかけた翔くんはあっさり前を肌蹴させてしまう。

「これ、何なん」

「新調、しました」

「敬語キモい」

久々に下着でも新調してそして持ち前の冷え性を口実に誘ってみた私の魂胆は当然翔くんにバレバレなのだけれど、そこをあえて突いてくるのが彼のどエスたる所以。「はぁーnameチャンはこの貧相な胸を新品の下着でお上手に誤魔化して、足冷えたからあっためてぇ言うてしょーもない口実でボクのこと誘っとったいうわけやね。無駄な努力と短絡的な考えにボクゥ涙出るわ」そこまで言って一ミリも出ていない涙を拭う真似をした翔くんに私が反論しようとするけれど、口を開いた瞬間私の呼吸は奪われた。

「ええよ、そそるわ」

細められた目。持ち上げられた口の端。してもいない舌なめずりの音が脳内で響いた。
私の中は翔くんでいっぱいになる。さっきまでとは打って変わって濃密になった部屋の空気。口の中をくまなくまさぐる彼の長い舌に溺れながら目を閉じる。
やわらかくしなやかな翔くんの身体が好きだ。すべすべした肌とごつごつした骨。そして少し乾燥気味な肌の下にある全ての筋肉は彼の意識の支配下に置かれ、縦横無尽に躍動して私を焦がす。
自転車に乗っている時に比べたらたいした運動量でもないのに呼吸を荒げる翔くんの、その余裕のない顔をこっそり見るのも好き。汗ばんだ肌がぺたぺたとくっつく感触も、内臓ごと持ち上げられて揺さぶられる衝動も、食いしばった歯の隙間から漏れる吐息も全部全部。言葉を発するでもないのに、彼の無意識から発せられる私への意識は確かに愛情に満ちていて。こんなことを翔くんに言ったら「おめでたい頭やね」って冷たい目で言われること間違いなしなので絶対に言わないけど、でも私は目に見えない翔くんの愛情の温度を知っている。ぬくもりは私の奥底まで浸透して、私の体温の一部になる。浸透、あるいはやさしい浸食。
目を開いて仰向けになった翔くんの口からぺろんと垂れている舌。思えば昔からそれが好きだった。真ん丸な目、おまけみたいな鼻、薄くていつもリップクリームの塗られた唇、長い手足。翔くんの腕に頭を乗せて私は笑う。「なに笑てんのキミ」視線は天井のまま翔くんが言う。

「やー、私、翔くんの好きなところばっかり考えてるなぁと思って」

「……キモイを通り越して無になるわ」

「凄くない?99%報われないのにこんなにずっと翔くんの好きなところ尽きないの」

ねぇねぇ?見上げれば翔くんは360度ぐるりと視線を巡らせ無言で私を見て、出したままだった舌をしまうとかぱりと口を閉じ、また天井に目を向けた。別に彼からの言葉を期待していたわけではなかったので、私はまぶたを閉じて翔くんの鼓動と吐息に耳を澄ませる。さっきまでの生々しい感触が暗闇に浮かび上がって、体温が上昇するのがわかった。全部を食い尽くすみたいなセックスは私を空っぽにする。満たされているはずなのに空っぽ。注ぎ込まれる愛の音が身体の内側で響く。揺さぶられるたびにちゃぽちゃぽと音がする。翔くんの真っ黒な瞳の奥に満ちているもの。私の中で揺れるもの。きっとそれは、同じだ。

「あったまったら眠たくなってきた」

寄り添っていると本当にこのまま眠ってしまいそうだった。シャワーを浴びないと、と思うのに下半身の怠さに負けて動けない。明日休みだし、いいか。なんて。綺麗好きの翔くんがそれを許さないならきっと引き摺ってでもお風呂場に連れて行ってくれるはずだ。現に過去何度かそういうことがあったのだし。

「寝たらあかんよォ」

「動けないもん」

「もん、やないわ」そう言った翔くんに背を向けると背後でごそごそ音がして、裸足の脚の裏がフローリングについたかと思えばパンツをはいただけの翔くんに右手を掴まれ無理矢理ベッドの外に引きずり出された。翔くんの小さなお尻を眺めながら到着したお風呂場のひんやりとした床に思わずつま先立ちになる。慌ててシャワーのコックをひねれば飛び出した冷水に叫び声をあげた私を見る翔くんの目は冷水よりも冷たかった。結局湯船につかり直して、私たちの頬っぺたは揃って薔薇色だ。
お風呂上がりのサイダーはおいしい。時計の針は日付を越えようとしている。基本的に私たちは規則正しい生活を心がけている。栄養バランスのとれた食事(料理は翔くんの方がうまい)、十分な睡眠、そして翔くんのみ十分すぎるほどの運動(私はそこそこ)。
こんな夜更けに砂糖の入った飲み物を飲むなんて信じられないといった翔くんの視線は、私の口元からお腹周りにわざとらしい速度で降りてゆく。「背中向けたかてその肉消えへんよ」「知ってます!」いっきに飲み乾したサイダーが喉の奥ではじけて涙目になる。

「サイダー飲んだらまた寒くなってきたかも」

「アホ」

「くっついて寝よ」

「いやや、寝にくい」

いー、と歯を剥いた翔くんは私の額を指先で突いた。「痛ぁ」額を抑えた私の足に翔くんの脚が触れる。

「ぬくい」

ぽつりと呟いた翔くんの手を取る。指を絡めても払われなかったので私はそのまま目を閉じた。仲の良い双子の胎児のように向かい合って眠る私たちの頭上で、夜が静かに更けてゆく。浅くなった眠りの水面に浮上して、そのたびに隣にある翔くんの体温に安堵してまた水底に漂うように落ちていく。いつの間にか指はほどけているけれど、そんなことは気にしない。
明日の朝起きて、まだうっすら体温の残る布団の空洞と、キッチンから漂ってくるであろう目玉焼きを焼くにおい。丸めた背中と襟足から覗く白いうなじに向かっておはようと言えば、起きるのが遅いと苦言を呈されるに違いないのだけれど、それこそが私たちの幸福な休日のはじまりの合図なのだ。
翔くんが私に贈ってくれた冬用のスリッパが、ベッドの下で朝が来るのを待ちわびている。ごめんね、明日は出番ないかも、なんて。わき腹に乗った翔くんの腕の重みを感じながら、私は甘い暗闇に溶けるのだった。
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