2018

この世界は音であふれている。どうして人々は何食わぬ顔で生きているのだろうか。電車がホームに滑り込んでくる轟音、乱暴な運転をする車のクラクション、話し声はひと固まりになり正体のない化け物と化する。ざわめきは渦となって蟒蛇のごとく俺をのみ込むのだ。
雨の金曜日、23時半。疲労困憊の身体に鞭打ってなんとか風呂に入り終え、どさりとベッドに沈み込む。部屋は一二三によって綺麗に片づけられていた。胃が痛いのは晩飯を食べていないせいか、それともストレスか。胃薬を飲んでも根本的な解決にはならないのでなにか少しでも口にしなければいけないのに、手も足もこれ以上動くことを拒否している。それでも思考のある部分だけは明瞭に働いていて、俺は頭の片隅にある扉にそっと手をかけた。
白樺色をしたその扉は俺が屈まなければくぐれないぐらい小さい。真鍮製のドアノブは繰り返された開け閉めによって艶が消え、俺の手が触れる部分は黒っぽくくすんでいる。音もなく開いたドアの向こうにはnameがいる。笑顔で、俺になにか言葉をかけている。現実のnameと会えない時間、俺は頭の中の小部屋に閉じ込めた彼女を眺めたり語りかけたりして空想のnameと時間を共にする。
その部屋の中に入った俺は現実の世界で生きているよりも卑屈ではないし、ある程度自由に振舞うことができるのだ。たとえば将来のことを語ったり、とつぜん乱暴に押し倒してみたり。俺のしょうもない話を笑顔で聞いてくれるのも、押し倒した時に少しだけ驚いて、でもそれから全部を許すみたいに目を閉じるのも、nameの態度は現実と空想に相違はなくて、だから俺は少し虚しくなる。ごめん、と言った俺を許さないでほしいのに、nameはいつだって「いいんだよ」と髪を撫でてくれる。現実でも、俺の頭の中でも。
name。声に出してしまうと途端に会いたくなってしまうので、すんでのところで口を噤んだ。携帯電話を手にしてみるも、こんな時間に連絡をするのも憚られ、画面をつけたり消したりしては枕元に置き、数分したらまた手に取ってを繰り返す。今電話をしたとして、たとえ受けることができなくてもnameは必ず掛け直してくれる。そして「こんな時間にごめん」と謝った俺に受話口越しにほんの少し伝わる程度の微笑で「いいんだよ」とこたえる。そして辛抱強く俺の話に耳を傾けてくれるのだ。nameはそういう女の子だった。
いいんだよ、ではなく、時には拒否され責められたい。なんて思ってしまう自分がいる。実際にそうされたら俺は深く傷つき絶望するに違いないというのに。彼女のやさしさを信じているからこそできる背徳の願い。甘えないで。あの優しい瞳が冷たく澄み渡るのを想像して、俺は胸の内に冷ややかな亀裂を感じては現実のnameのあたたかなぬくもりを思いだし心を満たす。
こんなのはnameのやさしさに対する冒涜だと頭の中でもうひとりの俺が言っている。いつまでもそうだとは限らないんだぞ。のばした先にnameの手が、飛び込んだ先にnameの胸があるのは絶対じゃないんだ。うるさいうるさいうるさい。俺はもうひとりの俺の首を締めて黙らせるとnameの待つ小さな扉の中へ入る。nameは静かに笑って俺に手を伸ばす。俺を包む身体はやわらかくあたたかで、遥か記憶の彼方に染みついたミルクなのか乳なのか、その類のほの甘い匂いがした。
疲れすぎていると眠れないのだろうか。さっさと寝てしまいたいのに眠りが俺を迎えに来る気配はいっこうになく、それは多分未練がましくnameからの連絡を待っているからなんだろう。金曜の夜だからもしかしたら友達と食事に行っているか、もしくは飲み会に誘われているかもしれない。だとしたらやはり俺の方から連絡するのは迷惑になるかもしれない。俺からの連絡に気付いたnameはきっと中座して一度外に出て、俺に折り返しの連絡を寄越すだろう。「独歩くん、どうしたの?」「いま外でご飯食べてて」「一週間頑張ったね。おつかれさま」とひと通り俺に言葉をかけ、それでも俺が何かを言おうとして、でも口を噤んだ束の間の空白にきちんと気が付いて、「明日、会えるの楽しみにしてるね」「好きだよ」と俺を安心させる魔法みたいな言葉をくれるのだ。機械を通していても無機質ではなく、彼女の体温をまとって俺の中に流れ込んでくるnameの声。俺が無言で頷いた気配にnameは唇を緩ませて「じゃあね。おやすみ」と電話を切るだろう。ひとたび電話がつながればやがて切れるのは定石なのに、俺はいつも心構えが間に合わない。あ、と思っている間に間延びした耳ざわりな機械音が鼓膜を無遠慮に突きさしてくるので、痛みにおもわず耳を押さえてしまう。嵐の中に打ち捨てられた鳥の雛みたいな気持ちで、通話終了と表示されている携帯電話を握りしめることしかできないでいる俺。耳元で俺に語り掛けてくれていたnameはいったいどこへ行ってしまったんだろう。いないとわかっていながら俺はあたりを見回してしまう。
だめだ、寝よう。寝なければ。俺に今一番必要なのは睡眠なのだ。強制的に自分に思い込ませて掛け布団を頭からかぶった。その時、不意に携帯電話が低く振動を始める。期待をしてはいけない。裏切られるのは嫌だ。きっと一二三だ。いや、仕事でなにか俺のミスが発覚したのかもしれない。nameではない、とは思わない。nameからかかってくるわけがない、と思うように努めているから。恐る恐る画面を覗くとそこには見慣れた名前。

「name、」

吐いた言葉は俺の顔のまわりを数度旋回し行き着くあてもないまま彷徨い、そして困ったように俺を見た。シーツの上で震えている携帯電話を手に取り通話の文字に震える指を置く。辛抱強く俺の携帯電話を鳴らし続けるnameは俺のこの有様を知っている。だから、電話を取るのに時間がかかっても切らずにいてくれる。呼び出し音が鳴る回数だけ、彼女が俺の名を心の中で読んでくれていたらいいと思った。思いを募らせてくれればいいと、思った。

「も、もしもし」

「独歩くん、夜にごめんね」

身体中の関節がわずかに緩む。俺は幾分か呼吸しやすくなっている。右耳から響くnameの声。電話越しに名前を呼ばれただけなのに、俺はもうnameに触れたくて仕方がなくなっている。

「気にしなくていいよ……なんか、あった?」

努めて冷静を装う。なにもないよ、とこたえたnameの背後を車が通り過ぎる音がした。「外?」と訊くとしばらくの躊躇いのあと「うん」と返される。今の間はなんだったのだろう。もしかして誰かほかの男と一緒なのだろうか。飲みに行って送ってもらった帰りなのだろうか。彼氏に電話でもしてみたら、と半笑いで唆されて俺をからかう電話を掛けているのだろうか。有り得ない。有り得ない。わかってる。俺は小さな扉を突き破るようにして開けその中で俺を待つnameの腕の中に飛び込む。大丈夫だよ、独歩くん。実体のない手で髪を撫でられながら、俺は電話の向こうのnameが次に発する言葉をじっと待つ。

「いま、お家?」

「うん、そうだけどなんで?」

「急に会いたくなっちゃって」

ごめん。ひっそりとした謝罪は扉と壁を隔てて数メートル先から聞こえた気がして、俺は玄関の方を振り返る。「え、え、」と言葉にならない音を喉から出す俺に「伊弉冉くん、いる?」とnameが訊くので「……い、ない」と短く答えた。その先に起こることについて、もう俺は淡い期待を止めることができない。期待するなよ。もう一人の俺が腕組みをして呆れたように笑っている。ベッドから転がり落ちて這うように玄関を目指す俺の脚をもう一人の俺が掴んでいる。やめろって。居るわけがないじゃないか。こんな時間だぞ。頭の中で声が木霊する。もつれる足で辿り着いた玄関の冷たい扉に両手をあてる。

「name、」

俺が呼ぶと、彼女の名前は扉に吸い込まれて消えていった。そして、ピンポン、とチャイムの音。まだだ、まだnameと決まったわけじゃない。もしかしたら強盗かもしれない。開けたら俺は包丁で腹を刺されて死ぬのかもしれない。有り得ない。有り得ない。俺はドアノブに手をかける。安アパートのドアは油の足りない蝶番が軋む音がする。隙間ができるや否やなだれ込んでくる初冬の冷たい空気と雨の水っぽいにおい。そして、あまい、かおり。

「独歩くん」

俺は泣きたい気持ちになる。nameは俺に電話をくれた。他の男なんかと一緒ではなく俺のところに来てくれた。玄関にいたのは強盗なんかじゃなかった。会いたいと、触れたいと一心に願っていたnameだった。今回はな、今回は。もう一人の俺がいう言葉を否定してほしくて、俺はnameを抱きしめた。彼女の服の繊維の隙間にまでもぐりこんだ冷気を追い出すように強く、強く。そっと背中に回される腕。内からも外からも俺はnameに満たされる。

「ごめんね、急に来たりして。月末だからきっと帰り遅いだろうなと思って。ご飯まだでしょ?」

「あ、うん」

馬鹿みたいな返事しかできない。ご飯。ああ、そうだ腹が減って胃が痛かったんだっけ。なんて、自分の身体のことすら忘れてしまっている。nameが今俺の目の前にいるということを認識するので精一杯な俺は、それ以外のことを脳で処理できずにいる。「伊弉冉くん帰ってきた時にいたら悪いから、今日は帰るね」俺にタッパーの入った紙袋を押し付けたnameが「じゃあ、おやすみなさい」と笑顔を向けるので俺は慌てて引き止める。

「一二三には連絡、しとくから」

だから泊まっていって欲しい。みなまで言えるほど俺は強くない。察してほしいし、あわよくば彼女の意志でここに泊まっていくよう仕向けたい。小さな扉の中で、そして俺の目の前で、nameは大きな瞳に俺を映して小さく微笑む。俺の弱さも狡さも全部全部見透かして赦してしまうnameの笑顔。

「じゃあ今度、何か埋め合わせしてあげてね」

「そうする」

俺はnameの手を引く。食べ物を口にする前にもっと欲しいものがある。それさえあれば生きていけそうなもの。俺を生かすもの。重なった唇。音もなく小さな扉が閉まる。
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