2018

ぼんやりと駅の構内を歩いていたら階段を踏み外してそのまま2、3段転がり落ちた。しかも人波うねる夕方のシンジュク駅で。私を避けるように歩いてゆく人々の色とりどりの靴を眺めながら、まず脛がいたいなぁとぼんやり思い、そのすぐ後にストッキングが引き裂けたであろうことに思い至ってひどく憂鬱な気持ちになった。今日おろしたばかりだったのに。転んだことよりもそちらのほうがよほどダメージが大きい。大丈夫ですかと声をかけてくる人間は誰もいなかったし、いたところでなんの役にも立たないどころかいたたまれなさを助長するだけなので、私は人混みから漏れるくすくす笑いを遠くに聞きながら立ち上がるのが億劫な身体をなんとか起こす。案の定破れていたストッキングにおざなりに包まれた私の脚は、血こそ滲んでいなかったものの青痣がグロテスクに浮かび上がっていた。最悪、とこぼす代わりに息を吐いて私はまた雑踏に紛れ込む。ただの通行人のひとりとして。
夜、寂雷の部屋にて。
私の部屋にいる寂雷は、本人の感じ方はさておきとても窮屈で居心地が悪そうなので、私が彼の部屋に行くことのほうがよっぽど多い。勝手にお湯を沸かしてインスタントのコーヒを入れる。外は寒くて痛いほどに手が冷えていた。湯気の立ち上るマグカップを両手で包むと知らず知らずのうちに安堵の息が漏れた。
眠らない街に煌々と灯るネオンや、オフィスのビルの表情を作る蛍光灯は、この街の影の部分を一層濃く暗くそして深くする。ひとりで夜道を歩いているときふとその深淵に気が付く。触れてみたくなるけれど決して手を伸ばしはしない。うっかり触れてしまったが最後、果ての見えない暗闇に引きずり込まれてしまうかもしれないからだ。深夜など、ビルとビルの隙間や電柱の後ろに潜む陰からは、小さな手が幾本も伸びてきて近くを通った人間を引きずり込もうといまかいまかと待ち構えている。夜にこの街を歩く際は、それらの暗がりに捕まらないようできるだけ明るい道を通って慎重に歩く必要がある。
足を怪我した私は残業を断り定時ちょうどに退社をして寂雷の部屋を目指した。彼に怪我をしてしまったことを報告した方がいいような気がしたのだった。着替えをして、すとんとしたワンピース一枚で私はソファに脚を投げ出して横たわっている。髪の先には先ほどのコーヒーの香りがまだ残っている。
ストッキングから解放された私の脚はひどくのびのびして見えた。たとえ右脛にとんでもない青痣ができていようと、それすら一週間を戦い抜いた勲章のように誇らしく私の目に映るのだった。
けれど寂雷にとってはそうではなかったらしい。いつものように「ただいま帰りました」と私がいることをわかって帰宅した彼は、ひと通りの抱擁だとかキスだとかを済ませてから私の頭の先に置いた視線をゆっくりと降ろし、脛まで到達したところでぎょっとした表情を浮かべた。

「どうしたんだい、それは」

「今朝駅の階段で転んじゃって」

「転んじゃって、ではないですよ。相当な怪我じゃないか」

眉間に皺を寄せた寂雷は「手を洗って着替えをしてくるから待っていなさい」と言って洗面所へ姿を消す。そして早足で戻ってきたかと思えばその場に突っ立って待っていた私をひょいと抱き上げソファに降ろすと見分をはじめる。「どうしてすぐ私のところに来なかったんだい」手の平で包むようにして触れながら心底心配そうな表情で寂雷が訊くので私はおかしくて笑ってしまう。「だって転んで青痣になっただけじゃない」「万が一骨にひびが入っていたら、」「ないない」今すぐ50メートル走しろって言われても全然大丈夫だからね。そう言った私に寂雷はため息をついた。
寂雷は私の身体の中で特に脚が気に入っているのだ。たとえばセックスの時は皮膚が爛れてしまいそうなほど丹念に愛撫をするし、唇を合わせるのと同じぐらい脚の付け根からつま先までにキスをする。何がそんなにいいのかわからないけれど、私は、というよりも私の脚は私のものである以上に彼のものである、そんな気がしていた。だから転んでしまった脚の痛みなんかよりも、彼の愛する脚を損なってしまったという寂雷への罪悪感による胸の痛みの方が大きかった。

「ごめんなさい」

「大事なかったのならそれでいい。でも気をつけないといけないよ」

湿った音をたてて青痣から唇を離して寂雷が私を見上げた。彼の前髪に指を通すと、物憂げな寂雷の瞳が淡く揺れた。私たちはベッドに行かずソファで愛し合う。
翌日、青痣の腫れは引き、代わりに汚らしい色に縁どられた紫色の斑点と鬱血が無残な姿で肌に浮かんでいるのを見つけ、私は「ねぇ、見て」とまだ眠りの中にいる寂雷をつついた。ちょうど日の出の時刻で、夕陽と同じ色をした、けれど何倍も生命力にあふれた強い光を放つ朝日が部屋の中を照らし出していた。

「……なんだい」

半分だけ覚醒した寂雷の掠れた声が顔にかかった髪に吸い込まれる。「青痣、変な色になった」彼に見えるよう枕元に脚を晒すと、毛布の中から伸びてきた手が私の脚をいたわった。「じきに消えるよ」青痣に頬を寄せ、引く白波のように彼はまた眠りへと落ちてゆく。私は寂雷の頭をゆっくりと撫でつづけた。
数日が経って、痣は奇妙な黄色とも黄土色ともつかない色に変化し、じきに周りの肌との境を失った。もうすっかり転んだことなんか忘れていた私に対して、寂雷は日に数回怪我をした部分を見せるよう強要した。彼が私になにかを強要するということは大変珍しいことだった。彼が医者であるが故なのかもしれない。ので、私は素直に彼の患者となった。「先生、怪我の具合はどうですか」ふざけて訊くと「経過は良好」と至極真面目に言うものだから、私もそうですかと神妙に頷いた。けれどここは診察室ではなく、彼のマンションの寝室。
寂雷が私に触れるとき、触れた指先がそのまま薄い皮膚の中に潜り込んでゆく錯覚に陥るときがある。五本の指はしなやかな筋繊維の一本一本、乳白色をした骨のかすかなざらつき、そして拍動する鮮やかに赤い血管の丸みまでもを撫で愛でる。長い髪は私の身体の中の臓器ひとつひとつに絡まり、根を張ってゆく。私は暗闇の中で彼のひそやかな呼吸の音に耳を澄ませる。
寂雷の予告通りじきに青痣は消失し、当然のことながら骨にもなんの異常もなく、私の脚は何食わぬ顔でストッキングに包まれていた。
夜更け、私は寂雷の腕の中で膝を抱えている。

「痕が残らなくてよかったよ」

耳元に心地よく降ってくる声に私は苦笑する。

「過保護すぎるわ」

「いけないかい?」

「そんなことないけど」

けど、の先を促すように寂雷は無言で首を傾げる。「けど、少し苦しい」そう言うと背中に手が添えられた。ぬくもりに私は安堵する。そしてゆっくりとした速度で撫でさすられればその心地よさに眠気さえ感じる始末。自分の単純さが憎らしかった。私は震える喉で深く息を吸って吐く。私の怪我の跡地をなぞる彼の指先は、怪我をした当日の、不明瞭な部分も含めた青痣の輪郭を正確に辿っていた。
彼の手を取り頬に添える。ゆるやかに頬を滑る手。親指が唇に触れ、私はそれにキスをする。そのまま顎を持ち上げられ従えば、覆い被さるように唇を奪われた。視界を閉ざす長い髪はまるで夜の帳。「過保護にしたとしても、したりないということはないんじゃないかな」寂雷の透き通った瞳に私が映っている。そうなのだろうか。私にはよくわからない。「わからなくてもいいさ。わかる頃にはもう、きっときみは私の手の届くところにはいないのだから」深く静かな声はシンジュクの暗がりに似ている。「そんなときが私にくるはずないもの、わからないままで問題ないわ」鼻先が触れ合う。シーツが乱れる。指が絡み合う。
私たちは夜の縁から身を投げるように愛を交わす。
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