2018

先生の部屋は白くて無機質。床も壁も天井も白いからまるで病室みたいだと私は思う。とうの本人は部屋で過ごす時間がそう多くないから気にならないようだけど。観葉植物でも置いたらいいのにと提案しようとしたこともあるけれど、ここは先生の部屋なのであって私の部屋ではないのだから、そんなことを言う権利は私にはない。

先生とは海で出会った。なんとなく朝の海が見たくなって、臨時で出社した土曜日の仕事が終わってから、そのまま終電に乗って海に向かった。適当に入ったファミリーレストランで朝まで時間をつぶし、日の出が近くなると店を出て海岸線を目指した。
夜明け前の海は寒かった。上着がいるような季節ではないからカーディガンすら持っていなかった私は、ブラウスの袖を目いっぱい引っ張って防波堤の上を歩いた。静かな波の音とこつこつというパンプスの立てる音は不釣り合いで、ついでに言うとこんな場所にこんな時間にひとりでいる自分もそうとうな場違いだ。なにかあったら、と思うよりもどうなってもいいやという気持ちの方が大きくて。あとは夜明けの海を見てみたいというただの衝動。
鞄からチョコレートの包みを出してひと粒口に放り込むと、甘さに少しだけ寒さを忘れることが出来た。水平線に向かって伸びていく防波堤に足を向ける。立ち入り禁止の柵はなかった。十分幅はあるけれど、よろめかないように裸足になって足元を見て進む。両手に片方ずつパンプスを持って歩いていると、急に身軽になったような気がして足取りが軽くなる。裸足で外を歩くのなんて子供の時以来じゃないだろうか。楽しくなってペタペタやっていると、水平線の向こうから燃えるような太陽が頭を出した。瞬間きらめきだした水面の美しさに思わず「わぁ」と声が出た。

「綺麗でしょう」

突然背後から声をかけられた私は、声にならない叫び声をあげて驚きのあまり手にしていたパンプスを取り落とした。二足とも好き勝手な方向に転がって、そのまま軌跡を描いて海に落ちていく。恐る恐る振り返れば背の高い男の人が釣竿を手に立っていた。

「すみません……驚かせてしまったようで」

「あの、えっと、いえ」

パンプスが海に落下してしまった気まずさと、こんなところを裸足でひとりウキウキと歩いているのを見られていた恥ずかしさに私は言葉を失う。髪の長い男の人は「ここでよく釣りをしているのですが、ええと……こんな時間、こんな場所に女性がひとりでいるなんてもしや、と思って後を追ったのですが……私の思い違いのようでしたね」と頭を少し傾げて言った。やわらかな声は波間にたつ白波に混ざり合うように溶けていく。伸びた影に捕えられてしまうそうで、後退りたいのに足が張り付いていうことをきかなかった。

「私もう帰りますので、邪魔をしてごめんなさい」

なんとか振り絞るけれど、道幅の狭さからして彼がどかない限り私が引き返すことはできない。「あの、」と言いかけると彼は静かに口を開く。

「もし嫌でなければ、もう少しここに居られては。朝の海は気持ちがいいですから。あなたの気が済んだら家まで送ります」

「えっ、け、結構です。だって釣りに来たんでしょう」

「釣りはいつでも来られますから。それに、あなたの靴が海に落ちたのは私が突然声をかけたせいですし」

あ……、と私は自分の足元を見た。マニキュアが剥げかけていて、裸足よりもそっちの方を見られたくなくて私はつま先をぎゅっと握った。「さすがにこのまま帰すわけには」ねぇ、と眉を下げた彼の言う通り、裸足で電車とバスに乗って帰るのは憚られる。それでも初対面の、しかもこんな場所で出会った男の人にほいほいとついて行っていいものかと彼の顔を見上げると、どこかで見たことのある顔であることに思い至る。ええと、たしか。

「もしかして、神宮寺寂雷、先生ですか?」

「はい。いかにも私が神宮寺寂雷です」

彼の名を知らない人がいるのだろうかというほどの名医と、まさかこんなところで会うことになるなんて。けれど会ったところで私には「テレビで見たことあります」ぐらいしか言うこともなければ、きっと彼の方もそんな言葉は嫌というほど受け取っているはずなので私は「お目にかかれて光栄です」とだけ言ってぺこりと頭を下げた。

「頭を下げられるほどの人間ではありません。それに今のあなたにとって今の私なんて自分の背後から突然声をかけてきた不審人物、ぐらいでしかない」

「そんなことは……」

不審人物とまでは思っていなかったので私はあわてて首を横に振った。「私は釣りをしていますので、適当な時間に声をかけてください」そう言って彼は腰を降ろすと釣りの準備を始めてしまう。どうしていいかわからなかったけれど、彼は私の存在を気に留めていないようだったので、私は防波堤の一番先端に腰かけて海を眺め、それに飽きたら仰向けに寝転がってあたたかい太陽をまぶたで受け止め眠った。波音が心地よく、裸足でいるからなのか不思議な開放感に身体が満たされている。時々頭上で海鳥が鳴いていた。

「起きましたか」

微睡の狭間で聞いた声が私を引き上げる。眩しさに手をかざし、どうして今自分がこんな場所にいるのかを束の間忘れて混乱してあたりを見回した。「気持ちよくて寝ちゃってました」体を起こすと、彼は私が立ち上がるのに手をかしてくれた。「そろそろ行こうかと思うのですが」すっかり片づけの終わった荷物を手に彼は微笑む。結構ですと断っても押し問答になりそうだったので私は素直に頭を下げた。前を歩く彼の細い背中を眺めながら歩く。まるで海の上を歩いているみたいだった。
先に防波堤の階段を降りた彼は「少しここで待っていてもらえますか」と言い残すと少し離れた場所に停めてある車に向かっていく。私はその場に突っ立ったまま置いていかれるのだろうかという考えがよぎったけれど、それならそれでいいかとも思った。けれど荷物を置いた彼は律儀に戻ってくると、「お待たせしました。どうぞ」と私に背を向けて屈み両腕を広げた。「え、あの」困惑していると「足を怪我してはいけませんから、さあ」と私におぶさるよう手の平で促した。それはわかっているけれど……。医師であるから他人との接触にあまり抵抗がないのだろうか、それともそういうことをあまり気にしない性質なのだろうか。おんぶなんてされなくたって車はすぐそこだし、足元に気をつければ怪我だってしないだろう。さすがにそこまでしてもらうのも申し訳ないので私は「歩けますから」と辞退した。

「万が一、ということもありますから。さあ」

「いくら神宮寺寂雷先生とはいえ、初対面の男性におんぶしていただくのはちょっと」

「あぁ、なるほど。確かにそうですね。配慮が足りずすみません」

納得のいった顔をした彼は「ではもう一度お待ちください」と再び車へ向かい、今度は乗り込むとバックで私の隣に車を停めた。階段を降りる私の手を取った彼は、最後の一段を踏んだ私の身体を抱き上げた。ふわりと浮いた身体に驚きの声をあげた私を車の助手席に降ろすと、何事もなかったかのように運転席に座りシートベルトを締めたのだった。マニキュアの剥げかけたつま先でやわらかなフロアマットを踏みしめ、流れてゆく海を眺める。もうすっかり日は昇っていて、明るくきらめく水面は目を細めるほどに眩しかった。

「本当なら朝食をご馳走すべきなのですが、靴がなくては始まりませんのでそれはまた改めて、ということで」

「家まで送っていただけるだけでも十分なのにそれ以上は……」

なんとなくで海に来たのがまさかこんなことになるなんて。絞られたヴォリウムでかけられているクラシックのゆるやかな旋律は眠気を誘う。睡眠の大切さを改めて痛感しながらうとうとしていると、神宮寺さんが「そういえば」と口を開く。

「何故あんな早朝におひとりであのような場所にいたのですか。先ほどもお聞きしましたが、仕事がら念のためもう一度。言いたくなければ無理強いはしませんが」

視線だけを向けて問う彼。

「朝の海が見たくて。見たこと、なかったので」

「なるほど」

「信じてもらえないかもしれないですけど。あ、でも変な気を起こして、とかではないのでご心配なく」

「信じますよ。楽しそうでしたのでね、裸足で歩くあなたが」

神宮寺さんはふふ、と細く笑んでハンドルを左に切る。コンビニ、ケーキ屋さん、ファミレス、公園。徐々に景色は見慣れたものになってゆく。「ふたつ先の信号を右にお願いします。しばらく行くと左手がアパートなので」「わかりました」なめらかに、氷の上を滑るように走るシルバーのボディ。狭い空、ここでは海も見えない。光るのはネオンとビルの窓ガラスばかりだ。そこに埋もれるように建っている私のアパート。「ここです」と言うと、ゆるやかにブレーキがかけられた。

「すみませんでした、本当に」

「いえ、私の方こそ」

ここに私の番号がありますので、とポケットから取り出した名刺を私に差し出し「後日また連絡します」と言うと、彼は外に出て助手席に回り込むとドアを開けた。風が吹いて神宮寺さんの長い髪が揺れ、朝だというのにあたりに夜みたいなにおいが微かに香った。視線が合い、私は急いで出ようとするも先ほどの事を思い出して「今度は自分で行きますから!」と先手を打った。「大丈夫ですか」「大丈夫です!」裸足で踏みしめるアスファルトは冷たい。

「では」

ぺこりと頭を下げて私は彼に背中を向けた。エントランスに入っても彼がまだ車に乗る様子はなかった。もしかしたら私がエレベーターに乗るまで見届けるつもりなのだろうか。エントランスの自動ドアを挟んで私たちは向かい合う。ひときわ強く風が吹いて、彼は右手で髪を抑える。儚い、と思いながら私はそれを眺める。さらさらと砂になって消えてしまってもおかしくないような夢幻の光景。すべて消えて、彼との出会いもなにもかもなかったことに、なんて。エレベーターに乗ってもう一度頭を下げると、彼は手を小さく振ってよこした。


「name」

「おかえりなさい」

金曜の夜なので、彼の帰りは遅かった。

「電気もつけずになにをしていたのですか」

「先生と出会った時のことを思いだしてました」

「あぁ」

上着を脱ごうとしていた手をいったん止めて、先生は懐かしむような目で窓の外に視線を向けた。「よく覚えているよ。きみが口ずさんでいた歌も、とれかけていたマニキュアも」そんなところまで見ていたのかと思うと改めて恥ずかしくなって、私は彼の後ろに回り上着を脱ぐように促した。けれど先生は身じろぎせずそこに立っている。先生の長い髪ごと腰に腕を回すと、冷たい夜の街のにおいが私の中に流れ込んできた。先生からはいつも夜のにおいがする。ネオンの真空管、あるいは消毒液。ひんやりと頬を掠める類の。

「そういえば、きみはいつまで私のことを先生と呼ぶんだい?きみは私の患者ではないというのに」

「なんででしょう。しっくりくるから、としか」

「私の方はしっくりこないのですが……」

まぁ、いいですけど。両袖を上着から抜いて私と向かい合い、そっと頭に手を置いた。「電気をつけましょう」と言った先生に私は「このままでいいです」と首を振る。眼下に広がる街の灯りはまるで夜明け前の海のようだった。それをもう少し見ていたかった。先生は無理強いせず、薄い暗がりの中で私の手を取ると窓際に置かれたソファに腰を降ろす。私は彼の身体にもたれ掛かり、磨かれたガラスの向こうで寄せては引く光の波を眺める。時々頭のてっぺんに先生の唇が触れるので、そのたびに私は上を向いて目を閉じキスに応じた。

「あの時のパンプス、今頃ハワイあたりの海に浮かんでいたりして」

「どうでしょうね」

先生はしばしば私に靴を買ってくる。恐ろしく私の足にフィットした靴を。どれも素敵で、それらを履くとどこにだって行かれそうな気持ちになるのに、私はどこにも行けなくて。違う、そうではなくて、実際どこかしらには行っているのに、先生のくれた靴は「どこかへ行くための靴」ではなく「彼の元へ帰るための靴」として私の足を包み込む。
あの時、彼と初めて出会った時にパンプスが海へ落ちてしまったのは何かの徴だったのだ、と今になって私は思う。
朝の海なんて知らないままでも生きていけたのに、私はその美しさを知ってしまった。太陽のあたたかさも、朝日のきらめきも。けれど、私の靴は沈んだ。ハワイなんかの温暖な海ではなく、光の届かない冷たい海の底でひっそりと朽ちているであろうそれら。
シャツから滲む先生の体温に頬ずりをして深く息を吸う。部屋は広いのに、私の居場所はここだけだ。先生の腕の中だけ。いつまでたっても空気からよそよそしさが消えないのは、きっとこの部屋があまりにも無機質なせい。大きすぎる窓ガラスの向こうに広がる光景は全部作り物みたいに私の目に映る。先生の腕の中は、まるで出口のない広大な迷路の中心のよう。私はずっとそこに閉じ込められている。
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