2018

あの、観音坂さん、こんど飲み会があって。合コンやるんですけど、もしよかったら。テリトリーバトルに参加するにあたって女子社員から声をかけられることが増えた。これまで無の存在として社にいた俺は、突然浴びた脚光に戸惑いを隠せず、でも「すみません」といつも通り謝って断った俺のことを影で「やっぱアレ?童貞的な?」とか「折角声かけてやったのに」とか言っているのを偶然耳にしてしまいあぁやっぱりか、そうだよな俺なんて、と妙な安心感を覚えるのだった。

「独歩くん、最近凄いね」

「え、なにが」

「女子社員からの人気」

「あぁ、それか。別に、あれは俺だからってことじゃなくって、テリトリーバトルに出るやつなら誰でもいいやつだから……」

はは、力なく笑った俺を見上げたname。彼女の頭の上に鎮座しているもふもふとしたクマも俺を見ている。そして俺の頭の上にも同じクマが乗っている。あたりには楽し気な笑い声や普段聞きなれないメルヘンな音楽が満ちていた。休日の遊園地の雰囲気に、俺は少し気圧されている。「遊園地に行こう」と誘ってきたのはnameの方で。そういえば最近デートらしいデートもしていなかったので死に物狂いで仕事を片付けて今日という平穏な休みを勝ち取ったのだった。
隣の部署で働くnameと会社で話すことはほとんどない。俺と彼女が付き合っているということを知る者も誰もいない。俺がディヴィジョンバトルに出ることが公にされて以来時々俺が女子社員に囲まれているところをnameが通り過ぎることもあったのだけど、彼女は俺をチラッと見て他人行儀に小さな会釈をするだけで、その場で何か言うことも、ふたりきりの時にそれについて言及することも無かった。
なにか思うところはないのだろうかと疑問を抱くことはあったけれど、そのたびに、付き合っているとしても俺なんか束縛や嫉妬するに足らない存在なんだろうな、という結論に至り虚しくなるばかりだった。だから俺の方からそのことについて言い出すこともなく、なんとなく触れないまま時間だけが経っていた。

「ふーん……」

「ふーん、って」

ベンチに座った脚を投げ出したnameの顔を覗き込む。なにか気を悪くさせるようなことを言ってしまっただろうかと不安になった。だというのに笑顔を浮かべてしまうのは染み付いたクソみたいな癖。
そんな俺を無視して「ね、あれ乗ろ」と俺の手を取って立ち上がったnameに引っ張られ、ジェットコースターに向かって歩きだす。頭上に響くジェットコースターがレールを急降下する轟音と叫び声に俺はひるむ。残業続きの身でこれに乗ったらどうなってしまうのだろうか。冗談抜きで死ぬかもしれない。あるいは先生のところで厄介になるやも。でも俺はあれに乗りたいと俺の手を引いてくれたnameの期待を裏切るようなことはできなくて、震えそうになる膝を鼓舞して長い階段を上るのだった。
クマの被り物をとって俺とnameは並んで座る。「楽しみ」と目を輝かせるnameに俺は無言で頷くのが精一杯だ。周りの音が遠い。まだ動いていないのに俺は気づけば安全バーを握りしめていて、「独歩くん、まだ始まってないよ」とnameに笑われた。「ごめん」と口をついて出た口癖にnameは眉を下げると、俺の膝にそっと手を置いた。
かたかたと音をたてて登ってゆくジェットコースター。空だけが見えて、それはとても綺麗だった。そして無音、のち急降下。内臓ごとつぶされそうになったり、胃が口から飛び出してしまいそうになったりしながらの数分間を終えたころには、膝はガクガクになっていたし、目じりにたまった涙が風で冷えて冷たくなっていた。

「楽しかった」

そう言ったnameに俺は力なく首を縦に振る。座席から降りたnameは棚に置いておいた鞄とクマの被り物を手にすると、足元のおぼつかない俺の手を握ってくれた。「ちょっと休もっか」ゆっくり階段を降りて、すぐそばにあったベンチに腰かける。

「死ぬかと思った」

「独歩くん」

「ん?」

「乗りたくなかったら断ってくれてもよかったんだよ?」

「……」

乗りたくなかったわけじゃない。nameが乗りたいと言ったから。疲弊した身体だろうが絶叫マシンが不得手だろうが、nameとなら乗りたいと思ったんだ。でも俺はそれをうまく説明することができず、自分のつま先に視線を落としてお決まりの「ごめん」という言葉だけを彼女に向けてしまう。

「この被り物だって……そもそも今日遊園地に来るのだって、」

言い掛けてnameは口を噤んだ。濡れた語尾の気配に俺はハッとしてnameを見る。眉間に皺を寄せて、泣くのを必死にこらえている顔をしたname。そうさせてしまったのは他の誰でもない俺なのに、どうして彼女が泣きそうなのか全くわからずうろたえるしかできない。やはりさっきの会話の中でなにか気に障ることを言ってしまったのかもしれない。どうしたらいいんだろうか。このまま別れ話になってしまうのだろうか。嫌だ、嫌だ。

「い、嫌じゃ、ないって」

ほら!と俺はかたわらにあったクマの被り物を自分の頭に乗せた。

「全然似合ってない」

半べそで、でもnameは笑っていた。「目の下のくま酷いし、アラサーだし」「……知ってる」でもアラサーだってクマをかぶる権利はある、と主張した俺にnameは首を振った。「ううん、そうじゃないの、違うの」目の端にほんの少しだけたまった涙を手の甲で押さえて言う。

「謝るのは私のほう。急に変なこと言ってごめん」

濡れた睫毛を上下させるnameは、俺の頭からクマの被り物をとって自分の膝の上に乗せた。ぎゅっと握られた小さな手が、寒そうに白んでいる。触れてもいいだろうか。拒絶されないだろうか。俺はこんなにもnameのことが好きなのに、行動にはいつも戸惑いが付きまとう。一二三みたいなノリとテンションが自分にも少しでもあればよかったのにと後悔しても何も始まらないが、俺はそんな自分を我ながら恨めしく思った。

「俺こそ、なんか気に障ること言ってたらごめん」

「独歩くんはなにも。私が勝手に……してただけ」

「え、いまなんて?」

肝心な部分が聞こえずに俺はnameの方に身を乗り出した。nameは俺から顔を背けてクマの毛をいじっている。重ねて訊こうか、でも言いたくないのならこれ以上は。知りたい、知りたいけど、でも。知らず知らずのうちに眉が寄る。きっといつか、眉間の皺が消えなくなるんだろうなと思っている。そのいつかを迎えるとき、nameはまだ俺と一緒にいてくれるのだろうか。好きで好きで好きで、愛してほしくて、だというのに俺はあまりにも不器用で言葉足らずだ。なにがシンジュク・ディビジョンの代表だよ。こんな、目の前の恋人にすら伝えたいことも伝えられないのに。急に目の前が暗くなって、俺は気分が悪くなった。

「独歩くん」

ふわりと俺を包む甘い香りと体温。耳元で呟かれた名前。「嫉妬、してただけ」続いた言葉に俺はnameに恥ずかしげもなくしがみ付いた。その時俺は、これまでの躊躇なんて届かない場所にいた。抱き締めるなんて格好いいものじゃなくて、小さな子どもが母親にするみたいな必死さでnameの華奢な身体を抱く。前にそうした時よりも、少し痩せたような気がした。喧騒が遠くて、ここがどこなのかよくわからない。「恥ずかしいよ」消えそうな声で言ったnameはそっと俺の身体を押しやった。

「あ、ご、ごめん」

「謝らないでいいってば。あのね、やだったの。他の女の子たちが独歩くんのこと好き放題言ってるの」

「そうだったんだ……何も言わないから、どうせ俺なんて嫉妬するにも値しない男なのかなっていうか、気にならないのかなっていうか……」

「気になるよ。気になるに決まってるよ」

nameは俺の喉のあたりを見ながら怒った。それを見てまた「ごめん」と謝った俺の頭にクマの被り物が深々と被された。さっきとは違った意味で真っ暗になった視界に俺は成す術もない。「だって、独歩くんの良い所なんにも知らないのにテリトリーバトルに出るってなった途端キャーキャー言って、でもそういうことしてる子たちは皆私なんかより可愛くて、きっと独歩くんは私より好きな子ができちゃうんだろうなって思ったらすごく苦しくて、どうしていいかわからなくて」彼女の告白を俺は暗闇の中で聞いていた。

「だから遊園地に誘ってみたけど独歩くんあんまり楽しそうじゃないし、やっぱり私とじゃ、……」

今度こそ言葉に詰まったnameに俺は場違いなクマを脱ぎ捨てる。抜け殻みたいにくったりと落ちたクマが俺を見ている。

「そんなことあるわけないだろ!」

必死すぎただろうか。引かれただろうか。けどそんなことは関係ない。泥の中で呼吸すらままならず毎日を生きる俺を唯一引き上げてくれる存在。独歩くん、と俺を呼ぶやわらかな声。俺を映す大きくて黒目がちな瞳。全部全部、失いたくない。

「俺はただ、nameを悲しませたくないだけなんだ、それだけだよ。あと、えっと、nameが嫉妬、してくれてるって本当に?name、なんにも言わないから俺のことなんてどうでもいいんだろうなって、思ってた」

「どうでもいいわけないよ」

唇を尖らせてnameは言う。「言えなかっただけ」消え入りそうな声を、今度は聞き逃さない。

「俺は、他の女の子とかどうでもよくて、女の子のことはnameかそれ以外かでしか区別してないから。だから俺にはnameしかいないんだ……お、重くて、ごめん」

そんなことない、とnameは俺の手を握る。

「私も、同じだったから。重いって、独歩くんに思われたくなくて、気にしてないふりしてた」

「そうだったんだ」

俺は胸をなでおろし、地面に転がったクマを拾った。

「ねぇ、これ、自分で買っといて言うのもなんだけど、やっぱりかぶるの恥ずかしいかも」

「だな。アラサーだし」

「ね」

顔を見合わせると、今日初めて彼女の心からの笑顔を見ることができた。そのあと俺たちはクマの被り物を鞄に括り付けたままに、ソフトクリームを食べたりお土産を買ったりして月並みな恋人たちみたいに遊園地を楽しんだ。
自分が遊園地を楽しいと思える日が来るとは。不思議な感慨に浸りながら、退園ゲートをくぐる。ゲートの上にはクマやウサギが「またきてね」と手を振っているイラストが描いてあった。また来よう、そのうちに。俺は心に誓った。

「今日、来れてよかった」

「うん」

繋いだ手をぶらぶらさせて頷いた俺をnameが見上げた。「誤解されたままじゃなくて、よかった」吹いた北風にさらわれてしまいそうな声で言ったnameはそっと俺の腕に身体を寄せた。うん、同じことを馬鹿みたいに繰り返し頷いた俺をnameは笑った。独歩くんのそういうところが好き、と。「よくわからん……」首をひねるとnameはまた笑う。

「今日、うちで晩ごはん食べようか」

鍋しよ、鍋。楽しそうなnameに手を引かれる。ジェットコースターで感じたものとはまた違う、心地よい浮遊感に身体が包まれていた。「ちゃんこか胡麻豆乳がいい」「独歩くんの好きなのでいいよ」「じゃあ、ちゃんこで」「ん」長い影を伸ばしながら俺たちは駅へと向かう。
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