2018

「お疲れ様です、入間巡査部長」

「ああ、きみに頼みたいことがあったんだった。すまないが一緒に来てくれないか」

廊下ですれちがいざま頭を下げてきた女に入間銃兎は声をかける。ぽん、と肩に手を置くと、女はいいですよと彼のあとに続いた。
棟の一番北側にある使われていない部屋の扉を開け、銃兎は女を先に部屋へ入れる。「なんでしょう。頼みたいことって」折り畳み机に浅く腰掛けた女は後ろ手に扉を閉めた銃兎を見た。

「name、昨晩どこへ行っていた?」

「昨日?」

nameと呼ばれた女は小首をかしげる。彼女の正面に立った銃兎を見上げ「理鶯のところ」と答えた。

「ひとりで、か?」

「うん」

髪を耳にかけたnameは、さっきまでのよそよそしい態度と打って変わってくだけた言葉を銃兎に向ける。中指で眼鏡を直した銃兎は不愉快そうに目を細めた。両手を机の上について深く腰掛けなおしたたnameは「だって銃兎は昨日残業だったし、左馬刻は電話しても繋がらなかったし。仕方ないでしょ」と眉を持ち上げる。あんな場所にひとりで行くなんて信じられない、と銃兎は言うが、「理鶯が最寄りの駅まで迎えに来てくれた」と反論したnameに口を噤んだ。

「で、頼みたいことってなに?」

「ありませんよ、そんなもの」

「もしかして今のを聞きたかっただけ?」

「……あなた、なにかまだ隠していますね」

銃兎としては念のためにカマをかけただけだったのだが、nameの瞳がほんの一瞬揺らいだのを見逃すことはなかった。「べつに、なにも。理鶯のご飯食べて帰ってきただけ」平然と言ってのけるnameに銃兎は絶句する。「理鶯の、料理を、ですか」なにかを思い出したのか眉間に皺を寄せ苦い顔をするも、首を振って記憶を振り払う。nameの頭のてっぺんからつま先まで視線を走らせ、またつま先から頭へ。ふと首元で視線を止めた銃兎は人差し指でそこに触れる。

「これは?」

「え、なに?」

髪で隠されていた場所がちいさく赤くなっていた。銃兎の指し示す場所に、よくわからないといった表情でnameも手を伸ばす。「どうかなってる?」「すこし赤くなっていますが、虫にでも刺されましたか」「理鶯のお家に行くまでに刺されたのかな。気が付かなかった」だって腫れてもないし、と気にしていない風のname。彼女の様子をつぶさに観察し、その発言は嘘ではないと銃兎は判断する。では、何故彼女はさっき動揺の色を見せた?

「それで、食事をして、そのあとは?」

「そのあとって?普通におしゃべりして、駅まで送ってもらったよ」

「なるほど」

その言葉と彼の表情は一致せず、まだなにか聞きたげだった。nameは腕時計に視線を走らせため息をつく。

「なんで納得してないのかわからないけど、それ以上は説明のしようがないよ。そろそろ仕事戻ってもいい?」

ぴょん、と机から降りたnameの行く先を、銃兎は机に手をつき遮った。「夜分遅くに男のところへひとりで行くのは感心しません、と言っているのです」低くnameの耳元で囁くと、彼女の首の赤い痕に唇で触れる。ちょっと、と逃げ出そうとするnameの腰に腕を回し、唇を当てた部分を強く吸った。「やだってば!」怒るnameを諌めるように髪を梳く。

「上書きしてさしあげただけですよ」

「な、」

顔を赤くして目を見開いたnameに薄い笑みを向け、今度は唇を掠めとる。「銃兎!」と今度こそ胸板を突き飛ばされるも、彼の顔は満足げであった。「だから、虫に……」言い掛けたnameの唇に指をあて言葉を封じると、「ええ、わかってますとも」と口角を上げる。
そうだ、わかっているのだ。けれどnameの纏う空気にほんのわずかでも男の気配が混ざっているのが許しがたかったのだ。たとえ虫刺されだろうとも、自分の居ない場所で、自分以外の男の元へ行った際につけられた赤い痕なんてどうしてそのままにしておくことができるだろう。

「では、もう行って構いませんよ」

「言われなくてもそうする」

首の痕を手のひらで覆いながら仕事へ戻ってゆくnameの背中に「今晩は私が食事に誘いましょう。19時に最寄りの駅まで迎えに行きますので」と言ってちいさく歪んだネクタイを整えた。

「最寄り駅ってなに、普通に署の前の駅って言えばいいでしょ」

呆れ顔で振り返ったnameに肩を竦め、まだ消えきらない疑惑を腹の中で舐めまわす。「ではまた夜に」とnameの背中を見送って、銃兎は内ポケットの煙草に手を伸ばす。
昨晩の帰り際、nameが理鶯に「おやすみのキス」をされたことを彼は知らないままなのだった。
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