2018

nameは屋上のベンチに腰かけてコーヒーを飲んでいた。銃兎は自分を呼び出したnameの姿を捕えるとつかつかと彼女の元に歩み寄る。隣に腰かけることはせずnameの前に立ったままの銃兎はポケットから煙草の箱を取り出し火をつけた。

「けむたい」

「それは失礼」

眉間に皺を寄せたnameに形だけの謝罪をして、銃兎は顔を背けて煙を吐き出す。昼休みが終わってすぐの時間帯なので屋上にひと気はない。遠くに見える港には大きな船がちょうど入ってくるところだった。nameは彼が一本吸い終わるのを待ち、携帯灰皿の蓋がぱちんと音をたてて閉まるのを合図に口を開いた。

「ねぇ、最近やりすぎ」

「なんのお話でしょう」

嘘くさい笑顔を浮かべる銃兎をnameは睨め上げる。黙っていればむしろ可憐とか清楚とかの部類に入るであろうに、口を開けば強気な女なのだ。銃兎はなおも相好を崩したままnameを見下ろしていた。「座れば」とnameは自分の隣を指で叩く。素直に従って腰を降ろした銃兎がもう一本煙草を吸おうと内ポケットに手を入れたのをnameが制する。「口寂しいならこれあげる」ポーチの中からピンク色の飴玉を取り出すと、彼の返事を聞くまでもなく包みをやぶり、問答無用で銃兎の唇に押し当てた。「結構です」唇を閉じたまま銃兎は辞退するが、不服そうに目を細めたnameに負けて仕方なく口を開いた。「よろしい」満足そうにnameは笑う。

「最近私の方に困った話が回ってくるんだけど」

「さぁ、心当たりはありませんが」

「やるならもうちょっと穏便にやってね。それができないなら私がやる」

「ですから、」

「銃兎」

有無を言わさぬ声音に銃兎は黙る。彼女が言わんとしていることは理解していたが、これでも穏便に済ませている方なのだ。むしろ穏便でないのはあいつじゃねぇかよ。胸の内で毒づいていると、やおら伸びてきたnameの手が銃兎の眼鏡を奪い去った。「返してくれます」ため息を吐いた銃兎。「いいじゃない、なくたって見えるんだから」「それとこれとは関係ありません」サイズの合わない眼鏡をかけて「どう?」とすました顔を作るnameから眼鏡を取り返すと人差し指で掛け直した。

「そもそも、そんなに彼が大切なのだったらもう少しきちんと躾けられてはどうですか」

「じゃあ首輪でもつけておこうかな」

「それは名案ですね」

「じゃあ銃兎、よろしく」

「お断りします」

風が吹いてnameの香水と、銃兎の煙った香水のかおりが混ざり合って流れていった。「お腹減った」nameはまたポーチを開けて中を覗くも目ぼしいものがなかったらしく、チャックを開け閉めしながら足をぶらつかせている。

「ねーえ銃兎、お腹減った」

「この私をパシリに?」

「そーいうこと」

でもその前に、とnameが銃兎のネクタイを掴む。「さっきの話、お願いね。いろーんな話が明るみに出る前に取りこぼしをお掃除してあげてるんだから、これからは左馬刻の件は私にまわして。いい?」言動と口調及び表情の不一致に、銃兎はいっそ清々しい気持ちになる。左馬刻の幼馴染であるnameは、警官という立場を最大限に利用して左馬刻の面倒を見ているのだった。持ちつ持たれつの銃兎と左馬刻とは異なって、nameの行動はほとんど無償の愛に近い。なにより左馬刻自身がnameに迷惑をかけまいと(彼なりに最大限)気を使って、何かあって(当然なにかをやらかすのは彼自身の行動によってなのだが)「いつも通りよろしく」する際にnameの名前を出すのではなく銃兎を呼びつけるのだ。それを自分は左馬刻に頼りにされていないと思い込むnameは、やたら銃兎を目の敵にしているのだった。
元々同じ職場で面識はあったが、初めて三人で顔を合わせた際に「左馬刻と仲良しなのはいいけど、私の方が左馬刻と長い付き合いなんだからね」と銃兎にとっては心底どうでもいい牽制の言葉を投げたnameを、左馬刻は興味なさげに、けれど手にした煙草には火をつけずに聞いていた。銃兎としては「仲良く」というひと言について撤回を求めようと思ったのだが、どう足掻いても話がこじれる展開しか見えなかったため喉元まで出かかった言葉をのみ込むしかなかったのだった。
カラーピンのチェーンを人差し指で弄っているnameの手を掴んで外す。右頬の内側には嘘くさい桃の味が満ちていた。

「それは左馬刻に言ってもらえます?」

言えばnameは視線を足元に落とし、「言ったわよ、何回も」と小さく漏らした。「そういうことなら、私の方が頼りになるということなのでは」我ながら意地の悪い質問だなと思いながら銃兎は涼しい顔をしたけれど、その後に返された「そうなのかもね」というnameの珍しく弱気な発言に動揺するのだった。

「もー、銃兎のせいで悲しくなってきた」

「あ、いや……ほんの冗談のつもりで俺、じゃない、私は……」

俯いたnameの肩に触れようと手をあげるが、そのまま手を伸ばしていいものかと一瞬躊躇した隙を狙って彼のみぞおちにnameの拳が入った。「冗談とか、いらないから」低い声と歪んだ顔には清楚のせの字も、可憐のかの字もどこにも見当たらない。油断した自分を反省しつつも、先ほど彼女が見せた表情の全てが偽りだとはどうしても思えないのだった。

「まぁいいや。これ、もういらないからあげる」

「いりませんよ。あなたの飲むコーヒーは甘すぎて、コーヒーなのか砂糖水なのかわかりませんので」

しかも飲みかけじゃないですか。肩を竦めた銃兎の手を広げて「はいどーぞ」と無理矢理握らせるとnameは立ち上がり銃兎に背を向けた。そしてじゃーねー、とひらひら手を振る。「あ、別に私じゃなくて俺でいいから」言い残して扉の向こうに姿を消した。
扉の閉まる音と同時に銃兎は煙草をゆっくりとした動作で取り出して、しばらく手の中で遊ばせたのちに立ち上がる。屋上のきわにある手すりに背を預けライターを鳴らした。深く煙を吸って吐きだし空を仰げば、寒空に紫煙が吸い込まれていった。少しだけ残ったコーヒーは案の定甘ったるく、煙草の後ではなおさらだった。

「まっじぃなーオイ」

甘いものを飲んでいるにもかかわらず苦々しい顔をしている銃兎の携帯電話が鳴る。画面に表示された名前を見て彼はため息をついた。

「もしもし……あぁ?なにやってたか、だと?テメェのせいで面倒に巻き込まれてたとこだ左馬刻」

舌打ちをひとつして中身のなくなった空き缶を握りつぶすと、銃兎は煙草を床に落としてつま先でもみ消し通話の終わった携帯電話をポケットにしまった。
「なにが悲しくて、」とため息をつく。甘すぎたコーヒーに頭痛がしてきたような気がして眼鏡を外しこめかみを揉むが、なにかが改善される様子はまったくなかった。
なにが悲しくて、なんなのだろう。なにが悲しくて「あんな男を守り続けるのか」なのか、なにが悲しくて「あんな男を守り続ける女の泣き言を聞かされなければならないのか」なのか、それともなにが悲しくて「あんな男を守り続ける女の泣き言を聞かされて自分のこめかみが痛みを発しているのか」なのか。
考えるのが面倒になって銃兎はまた煙草に火をつけようと煙草の箱を振るも、どうやら先ほど吸ったのが最後の一本だったらしい。ち、と舌打ちをして潰れた空き缶片手に、靴音を響かせ屋上を後にするのだった。
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