2018

先生はやさしい。
先生の部屋の広いベッドにひとりでいるとシーツがやたら冷たくて、今朝がた出ていってしまった彼のぬくもりを探すように枕を抱いた。早く帰ってきてほしい。でも今はまだ午前11時。
私は白い床に掃除機をかける。埃なんて落ちていないけれど所々に抜けた髪の毛が落ちていて、それが時々絡まっているのを見つけると拾わずにはいられない。私の髪と、先生の髪が絡まっているのを見るのが好きだ。指先でつまんで胸に抱いてしまいたいぐらいに。
午前中の強い光が射し込む寝室から逃げるようにして先生の書斎に入る。大きな肘掛椅子によじ登って膝を抱えた。ブラインドの閉められたこの部屋は、先生の気配がいっぱいでとても落ち着く。背もたれに身体を預けていると、まるで先生に背中から抱き締められているようだった。
いつの間にか寝てしまっていたらしい。時計が今何時をさしているのかなんてどうでもいい。先生がいる時間といない時間。私の中にあるのはそのふたつだけだった。なにもしなくていいといわれているけれど、ほとんど居候も同然の身分なので掃除と料理ぐらいはすることにしている。洗濯に関しては全てクリーニングの業者に頼んであるため、やることといえば引き渡しと引き受けの作業のみだ。よって私は気ままな猫のようにこのマンションの一室で暮らしている。
ベーコンと冷蔵庫にあった野菜をありったけ入れて鍋で煮込む。菜食主義者というわけではないけれど、先生はあまり肉を食べない。どちらかというと魚派。でも生憎今日の冷蔵庫には魚がないし、そもそも先生が家で晩ごはんを食べるのかどうかも私にはわからない。彼が家を出るとき私にかける言葉は「いってきます」と「いい子にしているんですよ」のふたつだけ。私が玄関で彼を見送ることは少ない。ほとんどがベッドの中。
キッチンの床に腰を降ろして、本棚から適当に拝借した本を捲る。文字の羅列は文章を形作らず散り散りになって紙から逃げていくので、また私は眠たくなってしまう。先生がいないと起きている意味がない、と思う。先生がいないときの方がこの部屋にある彼の気配は大きくなる。それなのに私の目の前に先生がいないから私は混乱してしまう。私は携帯電話を持っていないし、この部屋に電話はない。だから私は待つしかない。
夕暮れはなお悲しい。街に明かりが灯り始めるのを眺めながら、この街のどこかにいる先生を想う。正確にいえば彼の働く病院の場所は知っているし病院の電話番号も、彼の仕事用の電話番号もプライベートの番号も全て諳んじている。なぜなら私は彼の病院で働いていたから。でもそれはもうずっと昔のことのように感じる。
仕事を辞めてここで暮らし始めても、先生は先生のままだった。
なんで私なんですか。私のなにがいいんですか。一緒に暮らさないかと、なにか雑用でも申し付けるような口調で私に言った先生に私は訊いたけれど、「そういうところが面白いと思ったからだよ」と明瞭さに欠ける回答しか得られなかった。その当時先生に対して特別な好意があったわけではないけれど、人間として尊敬していたしこれといって断る理由もなかったので私は彼の申し出を承諾した。そうやってこの白い部屋での生活が始まったのだった。
この部屋に蜂蜜のように流れる時間の中で、私は先生のことを愛していった。大きな手の平や、細くやわらかい髪、すこしくたびれた首筋、そして深みのある声を肌に受けて、彼を愛さないでいられるわけがなかった。土に水が沁みこむように私の身体は彼の全てを蓄える。愛撫も、睦言も、体温も、甘い汗も、涙も、全部、全部。思えば思うほど彼が欲しいと切望してしまう。
すっかり暗くなった部屋にはスープのコンソメのにおいだけがある。きっともう夕食の時間なのだろうけれど、ひとりでは食べる気にならないのでバスルームに向かった。たいして何もしていないけれど、熱い湯船は気持ちが良かった。鼻の下までお湯につかる。時々先生と私は一緒にお風呂に入る。先生の長い髪が湯船の中を揺蕩うのを見るのが好き。髪が普段とは違う動きをするので、なにか秘密めいた特別さがそこにはあるのだ。私しか知らないこと。先生は私の全てを知っているけれど、私はそうじゃない。全てを知りたいとは思わないし、きっと彼も私に全てを話すことはないだろう。でもそれでいい。不可侵の領域が多い方が、時に心地良いことだってある。現に私たちはそれでうまくいっているのだから問題ない。
下着だけをつけて髪を乾かしていると玄関の鍵が開く音が聞こえたような気がして、私は半乾きの髪のまま音のした方へ向かう。

「そんな格好で出てきてはいけませんよ。私じゃなかったらどうするんですか」

「そんなことあり得ないじゃないですか」

だってこのマンションのセキュリティといったらとんでもないのだ。この部屋の扉を開けるのはただひとり、先生しかいないに決まっている。おかえりなさい。と彼を見上げると「おいで、手を洗ったら髪を乾かしてあげよう」と先生に手を取られた。ぺたぺたと裸足の足音が響く白い部屋は、先生がスイッチを入れたらしい間接照明によってぼんやりと照らし出されていた。

「今日はなにをしていましたか」

「少し掃除をしてスープを作って、あと本を読みました」

ほとんど寝ていたけれど、と付け加えた私に彼は満足そうな笑顔を向け「素晴らしい一日だ」と頷いた。過ごした一日が素晴らしいのかどうか私にはよくわからないけれど、先生がそう言うのならそうなのだろう。だから「はい」と首を縦に振った。床に腰を降ろした先生の脚の間に座って私は大人しく髪を乾かされる。先生の胸に背中を預けたいけれど、そうすると髪が乾かせないので自分の筋肉で背筋を伸ばす。髪に櫛を入れながら先生は「綺麗な背中だ」とか「私はね、きみの耳の形が好きなんだよ」とか私が恥ずかしがるようなことを耳元で囁いて、長い指先でその部分にそっと触れた。

「よし、いいよ」

仕上げ、とでもいうようにして先生が私の頭をひと撫でしたので、たまらなくなって私は先生に抱き付いた。おやおや、と微笑交じりの声が頭上から降ってくる。「おかえりなさい」先生の胸に鼻を押し付けながらもう一度言うと、「それはさっき聞きましたよ」と背中に腕が回された。「でも、そうですね。ただいま、name」頬に手が添えられ面を上げられる。乱れた前髪をそっと直してくれる先生の、こわいぐらいに澄んだ瞳を覗こうとすると彼は瞬きでそれを遮った。

「ではスープをいただこうかな。せっかくnameが作ってくれたんだ。どうせきみもまだ食べていないんだろう?」

「じゃあ、あたためます」

先に立ち上がった私は先生の両手をとって立ち上がらせる。ひとりで立てますよ。と先生は笑った。
夕食というにはあまりにもささやかな食事を済ませ、先生がシャワーを浴びている間に私は食器を洗う。今日は魚も肉も扱っていないのでまな板の漂白はしない。「生の肉や魚には菌がたくさんいますからね」と少し眉を顰める彼に、肉や魚を乗せたまな板はその都度漂白するよう言われていた。塩素のにおいがしない台所で私は水栓金具をピカピカに磨く。束の間無心になれるのが気持ちいいのだ。一点の曇りなく光る銀色に、心の中の漠然とした不安を映し出されてしまいそうで私は目を逸らす。ドライヤーの音が聞こえてくるのを聞きながらシンクにアルコールを吹き付けると、私は寝室に向かった。
寝室の空気は濃密だ。ひそやかで甘い狂気がシーツの皺のそこここに隠れているから。真っ白なシーツが乱れるたびに、それは姿を現して私に腕を伸ばす。うつぶせになって指でシーツに触れる。私たちが住むこの部屋を凝縮したような白。先生。私は呟いた。先生、先生、先生。同じ言葉を繰り返して、まるで動物が鳴くみたいだ。

「はい」

開けたままの扉から先生が入ってくる。滑るようにこちらに向かってきた先生はベッドに腰かけた。私は仰向けになって先生を見る。「お待たせしました」先生の言葉は小さな星屑。さらさらと降ってきて、輝きながら私の肌の上を転がってゆく。あたたかそうなのに触れると少し冷たくて、口にするとびっくりするぐらいに甘い言葉たち。その味を一度知ってしまったら、もうそれだけを口にして生きていけばいいと思わせるほどに、美味。先生との日々を重ねた果てに、いつか自分は星になる。皮膚を透かして輝く先生の言葉は淡く儚く悲しく私自身を照らすのだろう。

「先生」

「なんですか」

ベッドに上がった先生は私の腰を抱く。

「明日は私も海に行きたいです」

「ええ、いいですよ」

では早く寝なくてはいけませんね。白い部屋に夜の帳が降ろされる。清潔な香りと、お風呂に入ってすぐの、だというのに私よりも低い体温に包まれて私は静かに目を閉じる。明日の久しぶりの外出を思うと少しどきどきした。
あなたは汚い世界なんて見なくていいんですよ。私が部屋の硝子越しに街を見ていると先生はいつもそう言う。その目が悲しげなので私は先生が部屋にいるときはあまり外を見ないようにしていた。必然的に外出もすることがなくなった。外に出るのは先生と一緒の時だけ。買い物も行くけれど、先生は私を景色の綺麗な場所に連れて行くことを好んだ。それ以外の時間はこの白い部屋で彼を思いながら過ごすだけ。いつでも出ていかれるのに、私はそうしない。先生はそれを望んでいないし、私もそうだから。私は先生を悲しませたくない。好きだから。ただ、それだけ。真綿の檻みたいなこの部屋で、私は唯一彼のためだけに在りつづける。
先生はやさしい。狂おしいほどにやさしく、愛おしい。
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