2018

授業後、nameさんと待ち合わせをしている昇降口へ行く途中のことだった。職員室へ向かう廊下をnameさんが歩いているのを見かけた。隣には俺の知らない男が並んでいた。nameさんがプリントの束を、男はノートを持っていた。おそらくテスト前のノート提出のためにクラス全員分を集めて先生に提出しに行くところなのだろう。そんなことは一目見れば明らかだったのに、俺はそれを見過ごせずに、廊下の壁にもたれて職員室へと入ってゆくふたりの背中を眺めていた。職員室から出てきたnameさんは男に眉を下げた申し訳なさそうな表情で小さく頭を下げていた。ごめんね、ありがとう、助かった。そんな言葉がのっぺりした床や白い壁に反響して俺の耳へもちいさく聞こえてきた。男の方は別にいいって、とでも言っているのだろうか、顔の前で手を振ってこれまた同じように眉を下げて困ったような表情で、でも笑っていた。そしてふたりはこっちに向かって歩いてくる。見なかったふりをして昇降口に先回りすることもできたけれど、俺はそうせず廊下の角で彼女を待った。

「あれ、赤葦くん」

「見かけたんで待ってました」

俺の姿を見つけたnameさんはパッと笑顔を浮かべて少し離れた場所から俺に手を振る。隣の男の顔があからさまに曇ったのを見ても俺はすまない気持ちにはならなかった。いいなじゃないか、だってあなたはnameさんと毎日同じ教室で俺とは比べ物にならない時間を一緒に過ごしているんだから。なんてことさえ、思ってみたりする。

「職員室にノートとプリント持ってってたの」

あ、同じ係の〜くんだよ。そう言ってわざわざ隣の男を紹介してくれたnameさんには申し訳ないのだが、肝心の名前の部分は脳内に生じたノイズによってうまい具合にかき消されていた。俺の方が背が高いので、男は俺をきもち見上げるようにして値踏みしているようだった。好きにすればいい。礼儀をわきまえていないわけではないので俺は「どうも」と小さく会釈した。自分から名乗る必要はないだろうし、彼だって俺の名前なんて知ったところでどうでもいいだろうから俺は黙って立っていた。すると男は「じゃあ、俺行くわ。また明日な」と言ってnameさんに向かって片手をあげ、俺を一瞥して帰っていった。明日教室でnameさんに「昨日のあいつ彼氏なの」とかなんとか聞くのだろうか。だとすれば目先のちょっとした嫉妬心ゆえに彼とnameさんの会話の口実を作ってしまった自分は馬鹿だ。

「ちょうど会えてよかった」

歯噛みしたい気分の俺の心中なんて露知らずのnameさんは満面の笑みで、そんな彼女のために俺は歩幅を狭くする。多少歩きにくくはあるけれど、その不自由さは幸福だ。

「そうですね」

「早く帰れるのは嬉しいけど、部活ないとやっぱり物足りないね」

「朝練があるじゃないですか」

「それはそれだよー。むしろ早起き辛いから朝練こそなくていいかも」

全学年がほとんど同時に下校するので廊下も階段も賑わっていた。そのざわめきに紛れて俺はnameさんの手を握る。きゅっと弱い力で握り返される瞬間が好きだ。そしてその時にうつむき加減ではにかむように持ち上がる口元も。
五時までならうちで勉強してってもいいよと言ったnameさんの言葉に甘えて俺は彼女の家に上がり込む。ありがたいことに、俺の最寄り駅の二つ手前がnameさんの降りる駅なのだ。並んで座る電車の中、俺のひとつ前の段に乗ったのぼりのエスカレーター、あるいははしゃぐように渡る横断歩道で、俺はずっとnameさんの身体の表面に視線を注いでいる。もし視線に色があったなら、それが例えば黒だとしたら、きっといまごろnameさんは注がれ続けた俺の視線によって暗黒物質と同等の黒さを手にしているに違いない。でも実際には視線は無色透明でなんの質量も持たないので、俺は無遠慮にnameさんを眺める。好きなだけ、しかし気付かれないよう細心の注意を払うことは忘れずに。それでも気配は消しきれず、時々何かに気が付いたnameさんが俺を振り返るのだが、それはそれでまた幸福なのだった。なぁに、とか、どうしたの、とか、そんな疑問符を頭の上にピコピコ浮かべて小首をかしげるnameさんが可愛くないわけがないのだから。
部屋の中はまだ暑いねとエアコンを入れると、nameさんは鞄から教科書と問題集を取り出した。「赤葦くんはなんの教科やるの?」髪をゴムで纏めているnameさん。「数学です」とこたえれば「あー、教えてあげられそうにないかも、ごめん」と渋い顔をされた。「別に期待はしてませんから」肩を竦めた俺に「ちょっとは期待して!」と届かないげんこつが飛んでくる。
数式を解きながら、落ちてきた前髪を耳にかけ直すnameさんを見る。手探りで消しゴムを探すものの、手に当たって消しゴムは床に転がった。「どうぞ」と拾って差し出せば無防備で単純な笑顔で「ありがとう」と返された。なにげない仕草だったのに、俺の中にあるスイッチがばちんと音をたてて入る。ふたりきりの空間で忘れかけていたのに、また、さっきの男のことが蘇ってくる。同じ係なら教室でもよくふたりでなにかしたりするんですか、あいつと隣同士の席になったことあるんですか、だとしたら教科書忘れたからって見せたことありますか、今みたいに落とした筆記用具拾ったり拾ってもらったりしたことあるんですか、その時あいつにも俺に今したみたいな顔を見せたんですか。ごぼりと音をたてて湧きあがるどす黒い感情。ありもしない妄想で俺は自分を傷つける。とはいえ手負いの獣は厄介なのだ。
俺の手から消しゴムを取ったnameさんの手首を掴んで俺は机に身を乗り出す。一度触れたらもっと欲しくなることはわかっている。ましてや今はテスト勉強中なのに。「び、っくりした……」音がしそうな瞬きをしてnameさんが呟く。「どしたの、急に」表情をほどいたnameさんに頭を撫でられて、いつもならやめてくださいとその手を頭からどけることなんて容易いというのに、今日は彼女のされるがままになっている。俺の憮然とした顔を見咎めて、nameさんは「赤葦くん?」と俺の名を呼ぶ。

「あの、なんで名前で呼んでくれないんですか」

さっきの男も名字にくん付けで呼ばれていた。それと同列に自分を呼ばれるのは我慢ができなかった。我慢ができないなんてまるで年下みたいで、実際に俺の方がたとえひとつとしても年下なので、その事実が俺を更に苛つかせた。数か月違うだけでしょ。彼女は言う。たかが数か月、されど数か月。俺とnameさんを隔てるものの大きさに俺はいつも打ちひしがれる。学校を出てしまえばそんなもの関係なくなるとわかっていても今この瞬間が俺にとっては問題なわけで、正直、そんな未来に気を配っている余裕なんてない。nameさんが関わることすべてに、俺は普段の冷静さと判断力を失いがちだ。

「……それは、」

えっと、と口ごもるnameさんは、さっきまでの明るい表情に少し影を滲ませて俯いた。さっきの男を呼ぶことと、自分の名を呼ぶことが同列じゃないなんてのは十分わかっているというのに。彼女の唇から発せられる自分の名前の表面を覆う甘いもの、蜂蜜とかチョコレートとか溶けたマシュマロとか、の存在を認識しているはずなのに、俺は焦りと嫉妬で意地の悪い質問をしてしまう。

「そんなに恥ずかしいですか、俺の名前よぶの」

唇をへの字にする俺をnameさんが上目遣いで見た。逡巡するように瞳が揺れ、こくりと首が縦に振られる。「だって、ずっと赤葦くんって言ってたから、名前、言うの照れちゃう」そして「ごめん」と消え入りそうな声で謝った。謝るのは俺の方なのに、なぜか口からは「呼んでください、いま」なんて追い打ちをかけるような言葉が飛び出してnameさんを困らせてしまう。

「……け、いじ、くん」

「……っ、」

自らねだっておいたくせに、いざnameさんに呼ばれた自分の名前を聞くと言われた俺の方が百倍ぐらい恥ずかしくなって思わず手の甲で口元を覆ってしまった。緩みそうになっただらしない顔を隠したかったのもある。ふたりで赤面して俯いて、なんて馬鹿みたいだ。「今日の赤葦くんなんか変だよ」「また名字で呼ぶ」「赤葦くんだって恥ずかしそうだったじゃん」「それとこれとは別です」「わかんないよ」もー、とシャープペンを手にしてルーズリーフに意味もなく俺の名前をひらがなで書きつけたり、結んだ髪をほどいて毛先をいじっているnameさんの丸い耳朶が赤くなっていて、俺はそれに手を伸ばす。当然それだけじゃ我慢できなくて、彼女の隣に移動して抱き締める。抱き締める、というか、勢い余って押し倒した。

「やっぱり変!……あ、もしかして、職員室のところでのこと気にしてた、とか?」

俺の肩を押しながら合点が言った顔をするので、そうですと素直に認めた。

「赤葦くんはそういうこと気にしないと思ってた」

また名字で、と言い掛けたのに言えなかった。重たいですか、と聞くことも、できなかった。気にしてはいけなかっただろうか。自分の心の中で彼女にしている仕打ちを告白したらきっと軽蔑される。それぐらい俺は、この人のことを独り占めにしたくて仕方がないというのに現実ときたら。

「すみません」

謝った俺にnameさんは「ごめん、そういうんじゃなくて」と首を振った。彼女の首が左右に揺れるたびに床に広がった髪が扇型に広がる。こんな時にでさえ俺はnameさんの綺麗なところばかりを探してしまう。

「じゃなくて、あんまり気にしないのかなっていうか、興味ないのかなとか思ってたりしたから……ちょっと嬉しかった」

とか言って。と身体を横向きにして俺の視線から逃れたnameさん。興味ないなんて、俺の態度のどこを見ていたらそんな風にとれるのだろうか。この人の鈍感さは尋常ではない。俺の表情が乏しいことや抑揚の欠けた喋り方を差し引いたとしても、興味ないという言葉がいったいどこから導き出されるのか心底不思議でならなかった。不得手なのは数学だけじゃないんじゃないですか。辛辣な言葉がうっかり口から飛び出していかないように細心の注意を払う必要があった。

「足りなかったみたいですね」

「なにが?」

「教えてあげるのでこっち向いてください」

言うなり俺がnameさんの身体を仰向けるので、nameさんは恥ずかしがりながらも俺に従う。瞬きで「なに」と問う彼女の頬に触れる。くすぐったそうに目を細めて「んー」と呑気な声をあげている。やわらかな頬。そして唇。親指を食ませるとすんなり開いた上下の唇の間に俺の指は導かれた。硬い歯の隙間から湿った熱い息が漏れてくる。そのまま喉の奥にまで手を入れて、あなたの心が欲しいんです。胸の内で囁きかける。nameさんの丸い瞳に見つめられた俺は「俺、けっこう束縛したがりなんですよ」と言うに留めるほかはなかった。

「そうは見えない」

俺の指を口から離してnameさんは言う。

「じゃあ、nameさんにもきちんと見えるようにします」

真意を理解しないまま頷いたnameさんの唇を塞ぎ、閉じられていた膝を割る。待って!と目を見開いてももう遅い。だって俺をこんなふうにさせたのは紛れもないあなたなんだから。
- ナノ -