2018

最近僕が君に接する時の様子が少し変だということに君は気が付いているだろうか、いや、いないよね。
僕がここに来て随分になるけれど、君は何も変わらない。相変わらず誰にでも優しくて、少し間が抜けていて、そして可愛い。僕はそんな君を心底好きだと思うし、その反面きみのその鈍さを少し恨めしく思ったりもする。
不変であるということは尊いことだと僕は思うけれど、君と僕との関係が平行線のまま不変であるのは不本意だ。でも僕は付喪神で、君は人間。どこまでも、限りなく近づいたところで決して交わりはしない。それがわかっているから僕はすんでのところでいつも踏みとどまることができる。触れることは容易いのに、だからこそもどかしい。いっそ刀の身のままであったなら、僕は君に触れることすらなかったのだから。やわらかな肌やとろけるような体温を、知らずにいられた方が幸せだったのかもしれないね。

大きなザルに乗せた大根と人参そして白菜を持って台所に入ると、吊戸棚の前で踏み台に登ろうとしているnameの姿があった。

「どうしたんだい」

背後から声をかければnameは振り返って「上の棚にある寿司桶をとろうと思って」と指をさす。両腕で抱えるほどの大きさの寿司桶を取れたところでバランスを崩すのなんか目に見えているし、なにより彼女の背丈では踏み台に登ったところで棚まで手が届くかすら怪しいではないか。僕は調理台にザルを置いてnameの横に立つ。

「上の方の棚にあるものをとるときは背が高い誰かに頼まなくちゃだめだよ?いつだったか、踏み台から落ちたことあったじゃないか」

「あー!あったね。あの時はびっくりしたなぁ」

呑気に思い出し笑いをするname。大きな怪我こそしなかったものの、彼女の脛には青あざができてしまったのだ。ガタン、と響いた物音に僕がどれだけ肝を冷やしたことか。

「笑いごとじゃないよ」

君に何かあったら一大事だ。踏み台は使わず、少しだけ背伸びをして寿司桶を取った僕は顔を顰める。「便利でいいなぁ背が高いって」と言いながらぱちぱち拍手をするnameは、ありがとうと僕を見上げて笑顔になる。その、小首をかしげた愛らしさ。揺れる毛先と睫毛の影に、僕は胸が苦しくなった。愛おしさが溢れるのに、行き場所がない。こんなにもそばにいるのに触れられない。相対する敵であればとっくの昔に切先が届いて餌食となっている範囲だというのに。ひとりの人間の、しかも女の子を僕はどうすることもできないなんて。
ぐるぐると廻る思考を何とか一時停止させて、僕は「どういたしまして」と笑みらしいものを浮かべてこたえた。「今日はこれでちらし寿司作ろうね」と腕まくりをするnameの背中を、僕はただ眺めることしかできないでいた。
はじめからそうだったのだろうか。それともある特定の時点でnameに対する気持ちが主君への敬愛から異性への思慕へと変わったのだろうか。どれだけ記憶をたどってもわからなかった。錦糸卵を包丁で切るnameの白い指先を夜の闇の中に思い出しながら、これまでに幾度となく繰り返した追憶に耽っていた。降り積もった雪のような記憶は静かに重たく僕を包んでゆく。音もなく舞い落ちてくる雪に僕は身動きが取れなくなり、身体がかじかみ、やがて意識すら朦朧としてくる。曖昧な夢のはざま。うっすらとした息苦しさの中で僕は自身を慰めた。際限のない風船を膨らませるみたいにして僕はありったけの欲望を右手にこめる。想像の中でなら僕はnameに触れられるし、どんなことだって彼女の身体にしてやれた。昼間に爛漫な笑みを浮かべていたnameは、僕の中だけで快感に顔を歪め濡れた声で僕の名を呼んだ。大きく息を吸うと喉が震えた。息を詰めて僕は射精をする。どっと押し寄せてきた虚無感に、ため息をつくのすら億劫だった。
翌朝は快晴で、僕は部屋の窓を開けて縁側に布団を干した。他の部屋のみんなも同じように布団を干していた。僕の部屋の前の廊下を長谷部くんと歩くnameにおはようと挨拶をしてその背中を見送りながら、昨晩の後ろめたさがこの部屋と布団から少しでも消えてくれればいいと思った。
もうずっと近侍に任ぜられていないような気がする。週替わりで持ち回りの近侍は、本丸の人数が多くなればなるほど役目が遠のいた。そう広くない本丸で過ごしているのだから会おうと思えば会えるのだけど、僕にはそれができなかった。nameを見れば触れたいと思ってしまうし、時間が経つにつれてその欲望は衝動的になるものだから、それを抑えるのに多大なる労力を費やさなければいけなかったからだ。昔はどんなふうに会話をしていたっけ。記憶を手繰っても、僕の中にはもうnameを好きになる以前の記憶が残っていないようだった。
畑にて、僕は無心で雑草を抜き(といっても冬なのでそれらしい雑草はほとんどなかった)、気持ち程度の水やりをし、程よく育った野菜を収穫した。大根を5本、人参を12本、葱を8本。あとは白菜だけだ。ごろごろと大きく育った白菜の葉を縛ってある紐を切ってゆく。乾いてしまった外の葉を数枚むしったのを集めて、畑の一角にあるゴミ置き場に投げ捨てた。しばらく誰も燃やしていなかったらしく、雑草やら枯れ葉やらがちいさな山になっていた。思い立って僕はマッチを取りに行き、戻ってくるとそれに火をつけた。乾燥しているせいでよく燃えた。ぱちぱちと爆ぜる音を聞きながら、寒さに悴んだ指先を火に近づける。

「焼き芋してるの?」

畑の向こうからひょっこりとnameが顔を出す。駆け寄って僕の隣に立ったnameは同じように両手を火にかざして「あったかーい」と目を細めた。普段着に薄い羽織を一枚着ただけのnameの鼻の先は寒さに赤くなっていた。

「燃やしているだけだよ。お芋も入れればよかったね」

「残念」

なんか煙が見えたからもしかしたらと思ったんだけど、と心底残念そうな顔をするものだから、僕は申し訳ない気持ちになってしまった。「じゃあまた今度しようね。秋にとったさつまいも、まだたくさんあるから」そう言ってnameは視線を上げて僕を見た。彼女が望むなら、僕は今からでも枯れ葉を集めて、枯れ葉がないのなら木を揺さぶって落としてでもかき集めて、お腹いっぱいになるぐらいのさつまいもを焼いてあげたい。今すぐにでも。こんなことを言ったら君はきっと笑うだろうね。笑われたって、構わないさ。

「部屋に戻りなよ。そんな薄着じゃあ風邪をひいちゃう」

「ね。ちょっと外出るだけと思ったからこれしか着てこなかった」

「僕は火が消えるまでここにいるから、先に戻ってて」

まだ消えそうにない焚火を指さすと、nameはしばらく考えたあとで「じゃあ上着とってくるね」と言い残して走っていった。僕がちょっと待ってと止める間もなく。ほどなくして戻ってきたnameはこれでもかというぐらいもこもこの真ん丸になって息を弾ませている。パンダの(僕は本物を見たことはないけれど)耳あてまでしているのにやっぱり鼻先は赤いし、走ってきたからか耳の縁まで赤くなっていた。

「これ」

そう言ってnameは手にしていたマフラーを差し出す。ありがとうと受け取ろうとすると、nameは「ちょっとしゃがんで」と言って手振りをした。突然の出来事に僕はどぎまぎしながら身を屈める。毛糸が肌にこそばゆく、そして嗅ぎ慣れたnameの甘い香りが僕の顔を包んだ。どうしようもなく幸福なのに、どうしようもなく満たされなくて、僕は泣きたい気持ちになった。本当は今すぐにnameを抱きしめて君のことが好きだと何度も繰り返しながら唇を奪いたいのに。

「光忠も寒そうだったから」

真っ白のマフラーは甘やかな香りと共に淡いぬくもりで僕を閉じ込める。

「あったかい」

「よかった」

はにかんだような笑顔を見るだけで十分じゃないか。寒さのせいだとでもいうように僕は鼻をすする。「あ、」とnameが声をあげた。

「雪!」

ひらひらと牡丹雪が舞っていた。どうりで寒いはずだ。手をこすり合わせながら僕たちは今日の夕食の献立について話をする。白菜の浅漬け、ふろふき大根、つみれ汁。
こうやってずっと続いてきた日々を、どこまで共にゆけるのだろう。ささやかで、尊く愛おしい日々。壊してはいけない、大切なもの。
段々と勢いの弱まってきた焚火はもうほとんどが灰になっていた。雪は強くなったり弱くなったりを繰り返しながら、けれど積もるには至っていない。

「水かけて消そうか。さすがに凍えちゃいそうだよ」

「うん」

すぐ脇にある水道に向かい手桶に水を汲む。ざば、と水を掛けるとぶすぶすと白い煙を上げながら呆気なく火は消えた。マフラーがあるものの身体は芯まで冷えていて、これではまるで鋼に戻ってしまったみたいだと思った。

「ね、こうすればちょっとはあったかいかも」

「え?」

背後からの気配に振り向くと同時に僕は控えめな重みを身体で受け止めた。

「あ、でもちょっと恥ずかしい」

ぴたりと僕に寄り添ったnameは、けれどすぐに離れてしまう。

「僕は、良いよ」

いいわけないのに。
少し驚いた顔をこちらに向けて、nameは「えへへ」と笑うと今度は僕の腕をとる。分厚い服越しに彼女の体温を確かに感じた。身体の奥から脈打つように溢れ出してくる感情に肉体が熱を帯びるのがわかる。喉元が熱くて、皮膚の外と中との温度差に頭が痛くなりそうだった。少し力をこめればnameはさらに僕の方へと身体を寄せた。

「みんなでおしくらまんじゅう大会でもしよっか」

「盛り上がるのかな、それ」

おしくらまんじゅう押されて泣くな。口ずさみながら僕をぎゅうぎゅうと押すnameの、長いまつ毛の先に雪がひとひら乗っていた。暫く眺めているとそれはやがて溶けてなくなった。僕のこの気持ちも、そうやってすうっと消えてなくなってしまえばいいのに。雪が降りだしたためだろうか、辺りはいつもの賑わいが嘘みたいにしんと静まり返っていた。
「雪、積もるかな」nameが言う。「牡丹雪だからどうだろうね」僕はこたえる。「積もったらいいな」期待の籠った声で言うnameに僕は「積もるといいね」と返した。
深い深い雪の中で、僕は君への愛を叫び続ける。全ては雪に吸い込まれ、誰にも届かない愛を。いつか君がこの雪を溶かして僕を見つけ出してくれることを祈りながら。今にもnameをかき抱いてしまいそうな右手を握りしめて、僕はひっそりと冷たくなった唇を噛んだ。

【きみを知らないぼくになりたい】
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