2018

小鞠くんはいいなって思う。御堂筋くんの身体に触っても嫌な顔されないし、なにより御堂筋くんがそうすることを彼に許している。私なんて、私なんて。「お疲れさまでした」小鞠くんが涼やかな笑みを目元に乗せて会釈をする。バイバイ、またあしたね。私は小鞠くんに手を振った。まだ御堂筋くんのふくらはぎにも触ったことのない私の手。
部室には私と御堂筋くんだけが残っている。書き終わったタイム表をファイルに綴じて私も帰る準備をする。御堂筋くんと手を繋ぎたいなと思った。手を繋ぎたいというのは建前で、私はただ御堂筋くんの肌に触れたかった。ひやっとして、そしてふわっとあたたかいのがやってくる御堂筋くんの手。触れるのにいちばん適切な場所。指は長くて、綺麗な形の爪はいつも短く切り揃えられている。薄い皮膚に青い血管がういた手は大きい。私の首を掴んでポキっと折ってむしゃむしゃ食べてしまいそう。御堂筋くんの口がぱかりと開いて私を頭から食べるところを想像すると胸の奥がきゅんとなってほっぺたの内側がすぼまった。恋の魔力は恐ろしい。

「その顔、ろくなこと考えてへん顔や」

「御堂筋くんに食べられるところ想像してた」

「相変わらずキモいなァnameちゃん。そもそもキミなんか食べたないわ。ボク脂っこいの嫌いやねん」

「ダイエットしようかな」

「阿呆、せんでええわ」

いー、と歯を見せて半分まぶたを落とした御堂筋くんは制服の襟を整えると「はよ準備せんとおいてくよー」とカタカタ言った。
御堂筋くんの制服の襟から細い首が覗いていて、シャツと首の隙間に夕方の影が落ちていた。その隙間に手を差し入れてみたい衝動に駆られる。でも、しない。もしそうしたら御堂筋くんは私の手を掴んで止めると思う。「なにしてはるの」とか「nameちゃんは痴女なん?」とか言いながら。
好きだから触れたい、なんて御堂筋くんに言っても取り合われないんだろうな。小鞠くんが御堂筋くんに触れる時の彼の手を思い出す。幸せそうに蠢いて、触れた瞬間に小鞠くんの目にはギラリとした熱ととろけそうな恍惚が浮かぶ。そこまで彼を虜にしてしまう御堂筋くんの肉体を独り占めするなんてずるい。ずるいけど小鞠くんには御堂筋くんの身体に触る正当な理由がある。私にはない。それだけだった。だから私は彼に触れることに躊躇する。

「今日寄り道して帰るから御堂筋くん先帰ってていいよ」

「……」

今日これ以上御堂筋くんの近くにいると触れたさに頭がおかしくなってしまいそうで、私は嘘をついた。いちおう付き合っているのに、手を繋いだことだって一度しかない。御堂筋くんの方からそういうことをしてくる様子もないので、私の方から仕掛けるのも良くない気がして。後生大事にたった一度繋いだ手の感触を反芻しているうちに、御堂筋くんに触れたい気持ちは私の中でどんどん膨らんで今にも破裂してしまいそうになっていた。持て余した風船を処理することもできず、いつか破裂した時どうなってしまうんだろうと思いつつ、私はその風船の空気をうまい具合に抜く術も知っていて。やるせない想いは膨らんだりしぼんだりしながら私の心を内側から押し上げて苦しくさせる。
でも残念なことに私は嘘をつくのが下手だった。視線は泳ぎまくりだし、不必要に髪をいじってしまうので御堂筋くんは胡散臭いものを見る目で私を上から見下ろしている。

「寄り道って、それ、ボクがついてったらアカンの」

「えっ?」

まさかの申し出に私は狼狽えた。だって寄り道なんて嘘だし、行き先なんて決めてないのに。そもそも私の寄り道に付き合ってくれるほど御堂筋くんは私に甘くないはずだ。御堂筋くんはそれを知っていて訊いたに決まってる。じゃなかったらこんな嬉しそうな顔をしているわけがない。

「ボクと帰るの断ってまで行きたいとこなんて、よっぽどエエとこなんやろなぁ。ならボクも行ってみたいなぁ思ただけなんやけど、」

アカンの?カクンと首を90度に曲げた御堂筋くんは舌をちろちろさせながら私を見ている。私を追い込むために活き活きしている御堂筋くんのことは嫌いじゃない。意地悪だな、とは思うけど、それは本来の気質なのだなから仕方ない。本当は一緒に行きたいなんて思ってもないくせに。だから私は「だめ!」と言ってまた明日ね!と手を振った。
捕まらないうちに部室を出ようとしたけど当然それはかなわなかった。じろり。冷たい視線に私は動けなくなる。ていうか、手……。肌の重なった部分から御堂筋くんの体温がなだれ込んでくる。はんだごての先端をあてたはんだみたいに、ぽとりと手首から先が落ちてしまいそうだった。
触れる、と、触れられる、の違い。それについて考える余裕もなく私は私の手首に巻き付く御堂筋くんの五本の指の感触と熱と湿度を吸収し、視線はそこに釘付けになっていた。

「足りひんのやろ」

「な、にが?」

「とぼけても無駄や」

かすれた私の声を聞いた御堂筋くんの目がすーっと細められる。知っとるんよ、ボク。囁いた御堂筋くんは右手を私の手首から肘に向かって滑らせる。息を呑む音が部室に響いた。逃げ出したいのに足は竦んでしまっている。望んでいたことのはずなのに、突然一方的に与えられたものを受け取るにしてはあまりにも心の準備ができていなかった。

「私は、ただ」

言い淀んでも御堂筋くんは先を急かさない。言いたければ言えばいいし、言いたくないならそれまで。それが彼の基本的な傾聴スタンスなのだった。だから私は嘘をつけない。言うしかない。それがどんなに恥ずかしいことでも、打ち明けるほかはないのだ。ただ8割がた打ち明ける時点で既に私の悩みや隠し事は御堂筋くんに見ぬかれているので、彼にとっては予想を確信に変えるだけの私の告白なのだった。
「ただ、御堂筋くんに……」触りたかったの。そう続けるより先に涙が出た。泣くつもりなんてなかったのに涙が出たものだから自分でもびっくりして焦っていると、パッと御堂筋くんの手が私からはなれてしまった。やだ。反射的に今度は私が御堂筋くんの腕を掴む。押し寄せる熱、熱、熱。御堂筋くんの体温。考えなしの行動に私はさらにパニックになってどうしようもなく泣きながら御堂筋くんを見上げると、目をまんまるにして口をぽかんと開けた御堂筋くんと目があった。
「は、ちょ……な、にを泣いて」明らかにどん引きしている御堂筋くんに私は違うの違うのと意味不明な弁解をする。普段は傍観を決め込んでいる御堂筋くんなのに私と一緒に狼狽えているのがことさら申し訳なくて、伝えたい思いも言いたい言葉も喉に手足を突っ張っていっこうに出てこようとしない。ただ私は苦しさに喘ぐことしかできなかった。
小鞠くんに嫉妬してて、御堂筋くんに触りたくて、でもそんなのはあつかましいようなはしたないような気がして、御堂筋くんに本気でキモいって思われたくなくて、ていうか嫌われたくなくて、でも、でも、もっと手とか繋ぎたいなって思ってて、けど御堂筋くんがちょっとでもやだったら悪いなって思ったら言い出せなくて……。
しゃくりあげた勢いで飛び出した言葉たちに御堂筋くんは圧倒されているようだった。

「長い。まとまりがない。キモい」

「ほらぁー」

御堂筋くんがかろうじて放った感想に私はべそをかきながら肩を落とした。そんな私に御堂筋くんは鞄から出したタオルを差し出す。涙と鼻水まみれになってしまうので受け取るのを躊躇していると「予備のタオルやからまだ使ってへんわ」となにか勘違いした御堂筋くんがため息をつきながらタオルで私の顔をこすった。まぶたと鼻と唇がすりおろされるかと思うくらいの雑な手付きにかえって安心感を覚え、そしてタオルがガビガビのじゃなくて柔軟剤で洗われたフワフワのものだったことに感謝した。御堂筋くんらしからぬ甘い香りはきっと私がまだ見ぬユキちゃんの好みのものなんだろうな、なんてことを考えながらぐらぐらと顔をふかれているうちに涙はようやく引っ込んだ。

「ごめん、泣いたりして。でも自分でもなんで泣いたのかよくわかんない」

「驚かさんといてくれる」

ぐしゃぐしゃになった髪の毛を整える私に御堂筋くんは鼻を鳴らした。

「小鞠がボクに触っとるのが羨ましかったんとちゃうの」

せやろ。と目だけを動かして私を見る。うん。頷けば「くぅだらん」と鞄を肩にかけ直す。くだらなくないよ、言いかけた私を遮って御堂筋くんが口を開く。

「遠慮とか似合わんわ。けど、ベタベタ触ってええってことやないで」

勘違いせんといて。カチンと歯を鳴らした御堂筋くんは扉に手をかけると「ほな行こか」と前を向く。その手をとってもいいものか躊躇っている私に「ボクがさっき言うたこと聞こえてへんかったの」と不機嫌そうにぼやくと、「鍵よろしゅう」と壁にかかっている部室の鍵を指さして振り返りもせずずんずんと歩いて行ってしまった。

「ま、待って」

「待たへんよ。あとボク物わかりの悪いヤツ嫌いやから。nameちゃんもボクに嫌われたないんやったらせいぜい努力しぃ」

さっきまで泣いていた仮にも彼女をいたわるそぶりを見せるどころか置き去りにしようとしている私のとんでもない、彼氏、は遠くの方から私がきちんと部室の鍵をしめるのを背中を丸めてじっとりと確認している。さすがの私も鍵を閉め忘れるなんてへまはしないのに、御堂筋くんは抜かりがない。ようやく追いついた私に「鍵」と一言だけ言って差し出された手。ちゃりんと鍵を乗せると御堂筋くんはしれっと私の手を取った。

「ねえ、これじゃあ連行されてるみたいだよ」

「ええやん。捕まった宇宙人みたいでnameちゃんにはお似合いや」

わざと大股で歩く御堂筋くんについて行くのに必死で、頬っぺたの内側の甘酸っぱさや胸の中のふわふわした感じを味わう余裕なんてまったくなかった。でも繋いだ(捕まえられた)手からは確かに私の欲しかった御堂筋くんそのものが伝わってきて幸せでいっぱいになる。けどこれは御堂筋くんに触れた小鞠くんの手から小鞠くん自身に伝わるものとは全く別のものなんだろうし、同じく小鞠くんに触れられたのとは違う何かが御堂筋くんの中にあったらいいなと思った。
絶対に私の方を見ようとしない御堂筋くんの、綺麗な首筋を見上げながら私は笑顔になる。まもなくして「手ぇしんどいわ」と私の手を払った御堂筋くんの手を今度は私が捕まえて、走りながらぐいぐい引っ張る。鬱陶しそうに唇を捲った御堂筋くんは「現金やなぁホンマに」と私にされるがままなのだった。
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