2018

深夜、パリにて。ぼんやりと明かりのともるルーブルを背に、凱旋門の上にひとつの人影。風に髪を遊ばせ、所在なさげに腰かけた馬上で脚を揺らしている女がいた。喧噪は消え、静かで甘い空気だけがあった。手にした携帯電話の画面が光り、女はそれを耳にあてる。ふた言三言なにかを口にすると馬の背に立ち上がり、風になびく髪をそっと耳にかけた。
凱旋門の足元にある街灯のひとつに、人影が浮かび上がる。いつの間にそこにいたのかは誰にもわからない。音もなく、気配もなく、突然そこに現れたかのようだった。肩にかけただけのコートの袖が風に翻り、それと同時に馬上の女は彼を見た。男は腕組みをしたまま気怠そうに街灯の冷たい真鍮に背を預けている。男の髪飾りがひらひらと揺れ、くすぐったいのか男はわずかに顎をあげて首を左右に傾げた。

「いつまでそこにいる」

ザンザスはひとりごとのようにつま先に向かって言葉を発する。夜のしじまに吸い込まれていったかと思いきや、離れた場所に立つnameの耳にはそれがしかと届いていたらしい。軽やかな身のこなしで馬の背を蹴ると、まるで重力など無関係とでもいうかのように小柄な体を宙へと投げ出し微かな衝撃のみで着地して、nameはザンザスの隣に並んだ。

「見晴らしが良かったからザンザスも来たらよかったのに」

ザンザスはハッと息を吐く。

「馬鹿と煙には高い所がお似合いらしいが、俺はそのどっちでもねぇ。誘うならカスザメでも誘っとけ」

nameはザンザスの紅い瞳をじっと覗き込む。口元には薄い笑み。「いいの?」「知るか」眉間に皺を寄せたザンザスの手を取りnameはくすくす笑う。「本当にそうしたら、ザンザス怒るくせに」指を絡めて身体をザンザスに寄せる。「うぜぇ」苦々しい顔をしたザンザスは彼女の手を振り払うかと思いきや、掠めるようにキスをした。

「ていうか、ザンザス直々にくる必要なかったんじゃない?」

「腕だめしぐらいさせろ。鈍ってたんじゃたまらねぇからな」

「鈍ってた?そんな心配誰もしてなかったよ」

先ほどの仕事ぶりを思い出してnameは笑う。そしてしばらく黙った後「8年のブランクなんてなかったみたい」と、しみじみ付け足した。彼女の言葉にザンザスは視線を遠くに向けた。

「name」

nameは「ん」と短く返事をしてザンザスを見上げた。燃えるような瞳にひとたび見つめられると視線を逸らすことは難しい。ずっと、焦がれていたのだ。nameの瞳が愛おし気に潤む。眼差しのやさしさに、視線を逸らすのはザンザスの方だった。

「早くイタリアに帰りたい」

「ホテルに戻るのが先だろうが」

ふたりは並んで歩きだす。夜は寒いぐらいだった。もっと南の方にホテルをとればよかったのにと零すnameに、ヴァカンスじゃねぇとザンザスは呆れた。「じゃあ来年のヴァカンスはどうする?」「気が早ぇ」「8年越しのヴァカンスだよ。うんと遠くに行くとか」「だりぃ」「もー」他愛のない会話の全てが楽しいらしく、不満げな口ぶりからはかけ離れた笑顔のname。そんな彼女をザンザスは無言で見下ろしていた。
8年間。一瞬であり永遠であった。nameにとっても、ザンザスにとっても。眠りから目覚め、マレ・ディアボラ島での一件以降ヴァリアーはザンザスをボスに据え再びボンゴレの影の存在として暗躍することとなった。とはいえ揺りかごというボンゴレ史上初の大事件を起こしたせいで活動は常に九代目の厳しい管理と監視の元にて行われた。常軌を逸脱しないこと。勝手な行動は慎むこと。依頼はすべて必ず九代目の承認を得てから承諾すること。全ての依頼は作戦から経過動向、顛末その全てを逐一九代目に報告すること。等々。長い文言が書き連ねられた羊皮紙に灯った死炎印の淡い揺らめきを、ザンザスは挑むように睨みつけていた。
途中コーヒースタンドで熱いコーヒーを買い、「泥みたい」と舌を出して渋い顔をしたnameにザンザスは無言の同意をする。「でも少しあったまった」そう言って紙コップをゴミ箱へ捨てたnameの肩をザンザスが抱いた。力強くやや強引でそっけない彼の所作に、nameは満足そうな笑顔になる。わざと体重をかけて腰に腕を回したnameを鬱陶しそうに小突き、ザンザスは大股で歩いてゆく。「そういうところ好き。変わってなくてよかった」「自省なんざするかよ」「だよねー」往来には車通りもほとんどなく、シャンゼリゼ通りを歩くふたりのブーツがアスファルトの歩道を叩く音が軽やかに響いている。

「こんなところにホテルとるなんて、まるで観光客ね」

「さっきのあれは観光じゃなかったのか」

「観光です」

モノグラムの描かれた薄暗いショーウィンドウを覗き込みながら「明日ルッス―リアとベル誘って行ってきてもいい?」と立ち止まったnameの腕を乱暴に引き、ザンザスは道を右手に入っていく。「くだらねぇ。イタリアに戻ってからでいいだろ」引き摺られながらnameは「本店だし。せっかく来たんだし」と未練がましい。「てめぇ先週ミラノに行ったばかりだろうが、忘れたのか」ザンザスは愛車の後部座席に山ほど積み込まれた紙袋を思い出しながら、さっさと歩けとでも言わんばかりに舌打ちをした。

「チェックアウトは?」

「12時だ」

「ならゆっくりできるね」

あそこと、ここと、と行きたい店の候補を指折り数えているname。左手に見えたホテルに入りながら「ひとつでも行けると思ってんのか」と悪い笑みを口元に浮かべたザンザスに、nameは素直に赤面して口を噤んだ。明日は起きたら朝食なんてとっくに終わっている時間なのだろう。任務明けの開放感をはじめとした久しぶりの充足感に、nameの心は幸福がひたひたと満ちていた。ずっと待っていたのだ。彼のもとで己の腕を振るえる時を。そして、彼の隣で呼吸ができる瞬間を。
テラスに出て酒を飲む間もなく、リビングのソファで抱き合った。
ザンザスの身体についた傷を撫でるnameは、そのひとつひとつにそっと唇を寄せる。「なんでかなぁ」と寂しそうに呟いた言葉を聞こえないふりをして、ザンザスはシャワーを浴びるために立ち上がった。
照らし出されたエッフェル塔とほの暗いセーヌ川を眺めながらふたりはテラスでグラスを交わす。椅子の上で膝を抱えたnameは夜の街に目を凝らし、月を見て、そしてザンザスを見た。瞬きを何度も繰り返す。彼が今自分の目の前でなんら変わらぬ表情で酒をあおっている現状が夢でないかと確認するように。

「どうして私になにも話してくれなかったの」

長い沈黙の後nameは腕を伸ばしてザンザスの手首をつかんだ。夜気で冷えた皮膚のすぐ下で、熱く血潮が脈打っていた。隣のnameに視線を寄越すでもなくザンザスはグラスの酒を飲み乾して「終わった話だ」と断じた。nameの目元に寂しさの色が浮かぶ。拭うようにザンザスはそこに触れた。

「そういう時だけやさしいふりするの、ズルい」

「知るかよ」

「ずっと……」

声を詰まらせたnameは力なく首を振ると「ごめん、やっぱいい」と足を投げ出した。「さんざん言ったからもう言わないって決めたんだった」と肩を竦めてグラスを手にする。パリの夜はオレンジのような匂いがした。ヴァリアーの屋敷のしっとりと湿った木立の香りを懐かしく思っているnameとは対照的に、ザンザスはひどくくつろいでいるように見えた。もとよりこの男はどこにいようと今自分の居る場所がまるで我が家であるかのように振舞うのだが。
nameは立ち上がり子どもじみた動作で手すりに身を乗り出す。目を閉じ、まぶたに風を感じているうちにザンザスの体温が恋しくなって振り向いた。nameの視線を受け止めてなおザンザスは身じろぎひとつしない。どころか煽るように顎を微かにあげて唇の右側を持ち上げる。

「意地悪しないで」

「8年間大人しく待ってたんだからこれぐらいどうってことねぇだろ」

「怒るよ」

眉間に皺を寄せて唇を曲げたnameに、ザンザスはテーブルの上に投げ出していた脚を降ろして立ち上がる。彼女の背後から頭頂部にキスをして「戻るぞ、寒ぃ」と踵を返した。

「くれてやる」

貫くような紅い視線に捕えられnameは身動きが取れなくなる。触れたいと伸ばした手は、今度は容易く攫われて絡め取られる。「8年分だ、ぶっ壊れんなよ」言葉を紡ぐことができずにいるnameを抱き上げ寝室へと大股で向かうザンザス。その腕の中でnameは拗ねた表情のままの唇をほどくのだった。
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