2018

暑くて、水が飲みたかったけれど身体がどうしてもだるくて起き上がれない。夏の陽射しの届かない、部屋の奥。時折抜けていく乾いた風が心地いい。ひやりとする板間に頬をつけたまま私はぐったりと横たわる。
蝉が鳴いている。広がる空はどこまでも青く、湧き上がる入道雲は山を飲み込んでしまいそうだ。しばらくは戦がないからと大阪より達しが出ていた。近辺の村の諍いもなく、百姓からの訴状もあらかた片付いている。つまり、乱世における束の間の静けさ。稲刈りが終わるまではおそらく続くであろうかりそめの平穏。
左近を誘って近江の海まで馬でひとっ走りしようかとも思ったけれど、生憎左近は今朝方北へ出立してしまったのだった。伊達政宗のところに身を寄せている柴田勝家に会いに行くと言っていた。「お土産、期待しててくださいね」と、浮足立って笑う左近に手を振れば、みるみるうちに背中は小さくなっていった。
して、私は仕事という仕事もなく、ないということもないのだけれど、差し迫って今やるべきことでもないので、持て余すだるさのままにごろごろと床に転がっているのだった。
秀吉さまと半兵衛さまに会いたい。これまでずっと同じ場所で生活していたので、離れて暮らすということがこれほどまでに寂しいものだとは思いもしなかった。眠れない夜更けに半兵衛さまのお部屋へ行くことも叶わない。西の夜空を遠くに見ながら、のそのそと夜半の廊下を三成の部屋に向かって歩く心細さ。そんな私を文句のひとつもこぼさず布団に迎え入れてくれる三成の朴訥とした優しさにいつも救われた。
私はずっと、三成と共に在る。幼い時よりずっと。三成は佐吉と、吉継は紀之介と名乗っていた頃から。真新しい長浜の城の書物部屋で、私たち三人は額を寄せあって勉学に勤しんだ。古今東西の兵法を読み漁り、あるいは物語や歌集を競いあうように諳んじたり。日々の全てが楽しかった。秀吉さまと半兵衛さまに仕える日々は、まるで近江の海のきらめきのように眩しいものだった。
千々に砕いたびいどろをまぶしたような湖面がよく見える佐和山の城。長浜の城よりも小高い場所にあるため、一帯の景色がよく見渡せる。そびえる伊吹の山、はるかな賤ヶ岳、そして近いようで遠い長浜や私と三成のうまれた村。目を閉じれば鮮やかに蘇る記憶に胸がつまり、私は顔をしかめて寝返りを打つ。かの第六天魔王が言う50年にはまだまだ及ばずとも、中々に色濃い人生ではないだろうか。
なんて、思ってみたりもする。志だとかそんな大層なものはなくて、ただずっと、秀吉さまと半兵衛さまと、三成と吉継とそして左近と居られればいいだけ。私の世界を守るために私は刃をふるう。その結果が豊臣の為になるのならなおさら良い。「上出来だよ」そう半兵衛さまに頭を撫でられ褒められるのが好きだった。粗末な板張りの佐和山の城とは真逆の絢爛なる大阪の城で、半兵衛さまも私のことを思ってくれているだろうか。線の細いあの方の、御身体だけが案じられる。
開け放ってある戸からはゆるりとぬるい風。紛れ込んできた蝉が柱にとまって鳴いている。遠くであれば風情もあれど、近すぎてはただ煩いだけだ。勝手なものだと思いつつ、私はまた寝返りを打って蝉に背を向けた。
微睡みの中でこちらへ向かってくる足音を聞く。見ずともその持ち主が誰かわかった。「三成」と私が言うよりも早く、「秀吉様より賜ったこの城でそのような体たらく、断じて許さん」と言葉の槍で私を穿く。大阪にいた時は「秀吉様の御城で云々」だったので、ここに来ればその体のお小言からは開放されると思っていたけれど、どうやらそうではないらしい。「なんかダルくて」と転がったまま三成を見上げた。

「桃!」

皿に盛られたみずみずしい桃を三成が手にしている。半身を起こすとすこし目眩がして目をつぶる。「具合が悪いのならばそのままでいい」頷いた私に三成はフンと鼻を鳴らした。

「秀吉様が贈ってくださったのだ」

普段厨などに立ち入ることない三成が直々に剥いた桃にはそういう訳があったらしい。あん、と口を開けると三成は桃をひと切れつまむ。「今朝がた左近が発つ際、お前の具合が悪そうだから気にかけてやってと言っていた」「そうだったの?よく気が付いたね左近」歪な形の桃の香りはかぐわしい。においまでもがとろりと滴っている。「何故私に言わなかった」「言うほどでもないかなと思って」「……」「ただの夏バテかなって」それでも不服そうな顔をしている三成の手に私は首を伸ばす。垂れる寸前の汁を舌で受け止め、啜るようにして口の中へ入れる。対人関係以外はおおよそそつなくこなす三成の、それでも慣れない包丁で剥いた桃。咀嚼してのみ込んで「もうひとつ」とねだれば、自分で食べろとは言われず、また三成が一切れ私の口に運んでくれる。三成は、やさしい。それがさも当たり前というようにするので、普段の切って捨てる態度との差に私は胸の奥がぎゅっとなる。そもそも観察眼の鋭い左近と他人の(というより主に秀吉さまと半兵衛様以外の)機微に全くといっていいいほど関心のない三成とでは察せる範囲に差がありすぎる。それでも自分にきちんと告げてほしかったのかと思うと、またしても私は身体の真ん中にある剥き出しの部分をつんと指先でそっとつつかれたような気分になってしまうのだった。

「おいし、」

「おい」

桃を、三成の指ごと食べた。「三成の指、甘い」吸うと、ぢぅ、と音がした。指と指の間に舌を這わせ、人差し指を包む。舌を使って撫であげるように味わって、私は上目遣いに三成を見上げてみる。怪訝そうな表情のすぐ下に、うっすらと熱が見え隠れしていた。のそりと私は起き上がり、三成の膝を跨ぐと口に含んだままの桃を彼に与えた。

「ね、甘い」

伏せられた三成の細い睫毛がたじろぐように震え、それを合図に部屋の空気が潤みだす。後ろ手に皿の上から桃をとり、今度は三成の唇に沿わせる。つぅと肘の方に汁が垂れてきたのを見咎めたのか、三成が私の手首を掴むと光る一筋に紅い舌を伸ばした。肘から手首に向かってゆっくりと一直線にやってくる三成の熱の途方もなさに、私はひっそりと湿った桃の息を吐く。「床が、汚れる」手首に透ける青い血管のあたりを強く吸い、三成は私をまっすぐに見た。べたついた手のまま三成の頭を抱くと「やめろ」と喉元で声があがる。自分だってちょっとその気だったくせに。いい子ぶるのはズルい。でもこんな昼間から色ごとにいそしむのは、いい子ではないよ。ねぇ、三成。
今日の城内は静かだった。左近がいないからだろうか。だから私たちは静かに交わった。口からこぼれるどうしようもない溜息にも似た吐息が夏の終わりの乾いた空気に溶けていった。私と三成はねっとりとした甘い腐臭に包まれる。ぐずぐずと、柔い果肉を貪るように互いを欲し、かぶりつき、嚥下した。ひとつ、またひとつと桃を口にするたびに身体の中から湧く桃の香が強くなってゆく。私を啄む三成の薄い唇はひやりとしていて、けれどその先は反対に驚くほど熱かった。頭がぼうっとする。腕を三成の背に回す。硬い身体。ひょろりとしているのに、触れるとこんなにも逞しい。
ずっと、強くなりたいと思っていた。強くなりたい、強くありたい。そうして三成はこの城を任された。秀吉さまと半兵衛さまと離れるのが寂しいと泣き言を漏らした私を三成は叱咤した。その涙は秀吉様と半兵衛様の御意思を愚弄する涙である、と。「任された御城を身命を賭し護りきる。方々がそう望むのであるならば、私も貴様も励むのみだ。いいなname、嫌とは言わせん」唇を結んだ三成の、握った拳はかたかった。これまで頼り切りであった親とも師ともいうべき偉大なる存在から離れ、私たちはやってゆかねばならなかった。日々は忙しく過ぎ、しばらくは寂しさに枕を涙で濡らす間もなく眠りにつく毎日で。だからこそ、この久々の平穏が堪えた。今まで気が付かなかった疲労や重責による心労なんかがここぞとばかりにどさりと背中に圧し掛かってきたらしい。三成もそうなのかもしれない。だって三成はこんな、真昼間から興じるような性格ではないのに。
ゆらゆらと揺れる身体を三成の腕が支えてくれる。朦朧とする意識の中で、私は三成の髪を何度も梳いた。べたつく指に髪がはりつくたびに三成は首をしならせた。逃げちゃやだ。今度は首筋に唇を寄せる。蛇のように舌先で舐め、噛み付けばそっくりそのまま返される。普段は隠されている尖った犬歯が肌に食い込んだ。身体の中に浸透させるようにふぅふぅと息をして、三成は苦しげな顔で私をきつく抱きしめ身体を震わせた。脇に置かれた皿の底に、桃の汁が溜まっていた。ちょうど、私が満たされた分と同じぐらい。

「ごめん、動けない」

掠れた声で言えば、三成は少し慌てた。くすりと笑うと「笑い事ではない」と一蹴される。緩んだ帯はそのままに、私の着物の衿をとりあえずといった風に合わせ、彼自身の着物ははじめ着ていたのよりもさらにきっちり着込むと、袴の紐をこれでもかと硬く結び「水をとってくる」と部屋を出ていく。その背中をぼんやり眺め目を閉じる。戸をあけ放してあるのに、むせるような余香は依然としてここにあった。
戻ってきた三成は手拭を浸した水桶と水差しを持っていた。目を開けて「ありがと」と微笑むと無言で手拭いを絞って私の身体を拭く。

「気持ちー。けど、あぁ、いっそ水浴びでもしに行っちゃおっか」

「断る」

縁側の向こうにはどこまでも青い空と濃い緑の山々がある。気ままに泳ぐ水鳥の群れを他所に、ずっと昔のように波打ち際で水を跳ねかせて遊びたい。三成は足が水に濡れるのが気にくわないからと遠巻きに眺め、吉継は落ちていた石を拾っては陣形を模してひとりせっせと並べていた。裸足でふたりに駆け寄って、やめろ放せとふざけ合ううち、結局三人ともびしょぬれになって裸足で家路についたっけ。それが、またこうしてこの地に戻ってきたのだ。近江の、琵琶湖のほとりに。秀吉様あるところが己の居場所であり故郷。三成はそう繰り返すけれど、やっぱり私たちの帰る場所は近江の地なんだと思う。うまれ、そして魂に刻むべき出会いのあった場所。

「連れてってよ」

「何処へだ」

顔を拭き終わり、私の乱れた髪を三成の手がなおす。ひと房とって、時間をかけて毛先まで指を通すその仕草をいったいどこで覚えてきたのか。「こんなこと、できるんだ」他意なく言えば、途端に不機嫌になるというのに、降ってくるのはどこでもあまやかな口づけで。受け入れる私もまた手慣れたものだった。
連れて行けと言いながら、もう少しこうしていたいような気もする。何処へ行きたいのだろう。三成の腕の中、かな。引き寄せれば容易く私を腕の中に閉じ込める。折り重なって転がって、上も下もわからなくなって、私は三成にしがみ付く。「布団を敷いて寝ていろ」剥がされそうになるので爪を立てた。喉の奥で唸った三成はそれでもやっぱり力づくで私を引っぺがすと、ひょいっと抱えて部屋を出る。「ねぇ、どこいくの」私は呑気に訊ねる。たまに三成はこうして私を運ぶ。荷物みたいに運ばれるのは案外面白い。三成の腕が私に食い込んで少し苦しい感じとか、いつもより低い視点とか、ぶらぶらする足とか。子供の頃に戻ったみたいではしゃいでしまう。新しく入った城の使用人たちはすれ違うとギョッとするけれど、元々私達を知る人間は日常とばかりに平然と会釈をしてすれ違う。
連れて行かれたのは三成の部屋で、隅に置かれた布団に投げられる。色気のない声を出して突っ伏した私に掛け布団を投げつけると、三成は文机の前に腰を降ろして墨を磨りはじめた。

「まだべたべたする」

「あとで掛け湯をしに行け。今は寝ろ」

「寝れないよ」

「ならば横になって目を閉じ口を噤め。できないのならば縫い付ける」

「強引すぎる」

唇を尖らせると眉間に深く皺を刻んだ三成が振り返るので、仕方なく私は言われたとおりにするけれど、拭いてもらったとはいえまだ身体のあちこちに桃の汁が残っているような気がして目を閉じても気が散ってしょうがない。そもそも寝ろだなんて言っときながら、さっきはあんなこと私としてたくせに。でも珍しく我慢がきかなかったのだろうかと思えば許せるような気もするし、むしろ可愛いとすら感じてしまう。三成の背に向かって忍び笑いをしていると、背中に目でもあるのか「name!」と今度は文鎮が飛んできそうな勢いだった。

「三成さま、添い寝を所望します」

わざとしなを作って艶っぽい声を出す。

「私にはまだやらねばならぬことが山ほどあるのだ。寝ている暇などない。よもやひとりで眠れないなどとは」

「言うよ。ひとりはイヤ」

腕を伸ばす。三成はしばらく眉間に皺を寄せて無言を貫いていたけれど、肩で息をつくと手にしていた筆を置き腰を上げた。詰まっていく距離の切なさに私は胸が苦しい。喉元に湧きあがる甘酸っぱさは多分さっき食べた桃のせいだけじゃない。「少しだけだ」私の隣で左腕を投げ出した三成。「寝心地悪い」「貴様……人を呼びつけておいてその態度が許されると思うのか。ならばひとりで寝ればいい」「うそ」「私は嘘は嫌いだ」「戯れてるだけ」「……くだらん」顔を背けようとした三成の頬を両手で挟む。唇を重ねて歯列を割って、その先にあったのは甘く、そして狂おしいほど私を汚す舌。音を立てて唇を離し、親指でそれに触れる。
身体が熱かった。熱があるのかもしれない。夏風邪は馬鹿がひく。また三成に馬鹿にされてしまう。熟れすぎた果実のようにやわらかく滴るそこに三成の指が入ってくる。ずぶ、と肉体の内側で音がした。三成のすんなりとした筋肉のついた腕を抱き、頬ずりをする。指が動くたびに腕の筋肉が皮膚の向こうで軋むように動いた。

「寝るんだよ、今から私」

「知っている」

三成の襟足に鼻を埋める。そこは三成のにおいが一番濃い場所なのだ。手放しの安心を私に与えてくれる愛おしい部分。あ、と転がり落ちた声は三成の口の中に消えてゆく。綺麗な色の髪のしなやかさに恍惚としながら、うっすらと汗ばんだ白い首をかき抱いた。
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