2018

ずっと遠いところに来てしまった気がする。
この本丸にやってくる以前のことは、もうほとんど忘れてしまった。そもそも思い出す必要がなかった。だから、いつの間にか埃をかぶって見向きもしなくなった、と言う方が正しいのかもしれない。
元の世界と同じように季節が移ろっているはずなのに、ここでは時の流れがひどくゆるやかだった。実際は外界同様なのかもしれないけれど、体感としては確かにそうなのだ。
手の平を広げて眺めてみる。変わり映えのしない手の平を。年月の流れをそこに見出そうとしたけれど、手掛かりは何もなかった。
審神者になると決めたのは自分一人の考えであった。現在はどうなのか知らないけれど、当時は審神者になるものなどほとんどいなかった。当然だと思う。得体のしれぬ、これまで人類が崇め称えてきた神と寝食を共にし、あまつさえ時間遡行軍などといったこれまた得体が知れぬだけでなく何やら厄介そうな者々と対峙しなければならないのだから。
審神者の素質ありと政府から届いた通達を受け取ったその足で、私は審神者になることを承諾するために機関へと赴いた。丁重にもてなされ、そして私は審神者となった。
なにもない人生だったのだ。生まれ落ちたその瞬間から、終わりへ向かう残された時間を数えるだけの。空っぽで、無為だった。幸せになりたいと祈った小さな手はついぞ誰かに握られることなく、傷だらけになっていつも涙を拭っていた。
ありふれた幸せすら享受できないのなら、いっそ。そう思ったところで行動に移せるほど強くはなかった。だから、そんなうつつ世からのささやかな逸脱は、私にとって甘やかな誘いに思えたのだった。

「石切丸」

「なんだい」

背中合わせで足を投げ出していた姿勢のまま、私は石切丸に問いかける。

「私が主でよかった?」

そう言えば、石切丸はうーんと考え込んで「よかったよ」と穏やかな声で言った。

「そっか。ならいい」

私は石切丸の背中で伸びをする。

「name、きみは幸せかい?」

背中合わせのまま石切丸が今度は私に訊ねた。
幸せ、なのだろうか。少なくとも不幸せではないと思うし、それについて本丸にいる間に考えたことすらなかったということは、すなわち幸せなのかもしれない。平凡という名の幸福。おだやかに自分の外側を流れてゆく時間。
「幸せ、かな」と私は畳ノヘリを見ながら答えた。

「だったらそれでいい」

石切丸は身体をこちらに向けて私に笑顔を向ける。

「きみは幸せになりたかったんだろう?」

えっ。私は瞬きをして石切丸の真っ直ぐな瞳を受け止める。
傷だらけの手をすりあわせて私は毎日祈っていた。両脇に提灯が掲げられた絵馬殿を抜け、鳥居をくぐった石階段を登った先。はじめは怖かった狛犬も、いつしか馴染み深い友のようになっていた。幸せになれますように。何度も何度も。くる日もくる日も。
ご神木の青々とした葉から差し込むやわらかな木漏れ日が、対峙している石切丸の瞳の中で揺れていた。

「ずっと、見ていたよ」

「……どうして」

そうだ。あの神社の名前は。何故今まで思い出さなかったのだろう。埋もれていた記憶に降り積もった埃が霧散し、鮮やかな記憶の破片は痛みをともなって私の胸の中で弾け、降りそそぐ。
どうか、どうか幸せになれますように。
幸せの何たるかすら知らないまま、それでも祈らずにはいられなかった。

「きみが今幸せなら、それでいい」

その道を選んだのは他の誰でもない、nameなんだから。と、石切丸は目を細めた。
頬に石切丸の手が添えられる。大きくて、あたたかな手。石切丸は何も言えずにいる私をじっと眺め、頬に置いた手を離すと私の手をそっと取った。
「ずいぶん時間がかかってしまって、ごめん」静かに言った石切丸の胸に、私は躊躇なく飛び込んだ。

「ありがとう、神さま」

胸元に顔を押し付けているせいで、くぐもった声になった。

「神さま、か。なんだか面映ゆいね」

照れたようにこめかみを掻く石切丸の腕の重みを背中に感じながら、私は昔の自分の肩を「もう大丈夫だから」と叩くのだった。

(170919蔵出し)
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