2018

下校時刻を告げるチャイムの音。私は夕暮れのぬるい風を頬に受けながらグラウンドを眺めていた。部活が珍しく休みだから一緒に帰ろうと誘ってきた張本人は、顧問の先生と話があるからちょっと待ってろとだけ言い残し、30分経ってもまだ戻っていないのだった。
薄いグレーの混じりだした、それでもなお青い空。遠くで聞こえる電車の音に耳を澄ませば、ついうとうとと微睡んでしまいそうだった。机の上に突っ伏して。片方の頬をぺたりとつける。ひんやりとした感触のきもちよさに瞼を閉じれば、ここちよい暗闇が私を手招きしているのが見えた。
それを最後の記憶として、どれぐらいの時間が経ったのだろうか。次に私が目を開けた時には、すっかり教室の中は陰ってしまっていた。沈みかけた夕日が赤く滲んでいるのが見える。時計は5時を少し回ったところだった。そういえばあいつは、と思い出したのと同時に後ろから肩を叩かれた。教室には自分しかいないと思っていた私は、突然の出来事に恥じらいも何もない声をあげる。
振り向くや否や、「んな驚くか?」と私よりもびっくりした表情を浮かべた鉄朗になんてことをするのかと詰め寄れば、「スンマセン」と取って付けたような謝罪を受けることになった。

「すっかり寝ちゃった」

「いい寝顔してもんな」

ヨダレたれてんぞ、と私の口元を指さすので慌てて手の甲でこすると、鉄朗は「嘘デース」とにんまりした笑みを浮かべた。そういう冗談いらないから、と鉄朗をグーで殴る真似をする。

「遅かったね」

「んー、話してたら長くなった」

「主将も大変だね」

「つうか、先帰ったかと思った」

そう言った鉄朗に私は呆れ顔を向ける。そんなことができるわけがないのに。きっと知ってて言ってるんだ。そう思ったら少し腹が立った。
いつも私ばっかり好きな気がして。ずっと昔からそうだ。同い年のくせに飄々とした言動のせいで、時々私を置いてけぼりにする鉄朗。どころか研磨だってそうだ。「name、子供っぽい」ぼそりと研磨が言うと、鉄朗はその背後で必ずにやりと笑って「お子ちゃまでちゅね」なんて茶々を入れてくる。例えそれが、色つきの素麺を食べられたからとか、切り分けたケーキの大きさについてとか、そんなしょうもないあれこれに私がついむきになってしまうからだとしても。
そして拗ねる私のご機嫌を取るのもまた鉄朗の役目で。「お前すぐ機嫌なおるよな」と、ポケットから出したキャンディやらラムネやらで釣られる私を笑う、鉄朗の優しい目元が好きだった。

「んじゃ帰ろっか」

「ちょい待ち」

立ち上がろうとした私とは反対に鉄朗は私の前の席に、私と向かい合う格好になるように椅子を跨いで座る。なに?首を傾げると鉄朗は「いや、クラスはなれちまったなーと思って」と言いながら私の机に頬杖をつく。1、2年と同じクラスだったけれど、3年生になって私と鉄朗はクラスがはなれてしまったのだ。「そういえばそうだね」なんて相槌を打つけど、教室のある棟は同じでほとんど毎日顔を合わせているし、なにより近所なんだから会おうと思えばいつでも会えるし、だからそんなに寂しくも感じていなかった。という旨を率直に伝えたら鉄朗が「おまえそれマジか」と頬杖を外してまで身体を引いたので、しまったこれは失言だと気が付いて「ほんとは寂しけど」と付け足すけれど、なおも鉄朗の失意の表情に変わりはない。マジか、マジかーひでぇ……。と繰り返している鉄朗の横顔を、沈む間際ひときわ強い光を放っている茜色の夕陽が染めていて、哀愁がいっそう濃くなっていた。

「nameさ、性格お子ちゃまなクセにわりとそういうとこあるよな」

「そういうとこって?」

「上手く説明できねーけども。案外さっぱりしてるっつーか。たまに研磨よりさっぱりしてるからビビるわ」

「してるかな」

してる、と深く頷かれては仕様がない。でも、それは私も同じだった。

「でも鉄朗もひどいよ」

「なにがよ」

目蓋を半分降ろした拗ねた目で見てくる。言うべきか、言わないべきか、迷ったけれど鉄朗に隠し事なんていままでできたためしがないので私は素直に白状する。

「さっき、先帰ってていいって言ったでしょ」

「言った」

また私の机に身を乗り出した鉄朗は今度は両腕を組んで、上になった右手の手首に顎をのせて私を見上げている。視線は私よりも下なのに、それでも大きな鉄朗。いつの間にか大きな男の子になってしまった鉄朗。セットされているようで実は寝ぐせの前髪に触れる。くすぐったそうに目を細めた鉄朗は猫みたい。

「なんでそんなひどいこと言うんだろうって思った」

「ん?」

「一緒に帰るのなんて久しぶりだから。なのに、先に帰れるわけないでしょ」

「んんー?」

「その顔いやだ!」

鉄朗の頬っぺたをつまむも手を掴まれて、「だから待っててくれたワケね」とにんまりする彼に、私はそうだよと視線を外す。こっち見てnameチャーン。もう片方の手をひらひら振っているので「もういいから、帰ろう」と椅子を引く。けれどやっぱり鉄朗は立ち上がらない。夕日は街の向こうに沈んでしまい、夜のにおいが空の端から迫ってきている。捕えられてしまいそう。夜は魔法だ。街の明かりの眩しさはまるで幻想。宵闇がひたひたと忍び寄る教室は、いつも過ごしているのと同じ場所とは思えないぐらいしんと静まり返っている。

「もうちょっとお前の顔見てたいんだけど、」

おんなじ教室で。つーか、近くで。すらすらと出てくる甘い言葉も、夜に魅せられた鉄朗が紡ぐ魔法の言葉に違いない。動けない私は、机の上の小さな傷をひとつずつ目で追って鉄朗の視線から逃げようとする。そらしては、追いかけられる。肌と肌の触れている部分が熱かった。こういうの、ほんと、恥ずかしい。絞り出して言う私に、鉄朗は何も言わない。
伏せていた目をあげると、一瞬で視線を絡め取られ、ついでに唇も奪われた。目を見開いた私が、鉄朗のズルく細められた瞳孔に映っている。あたりが薄暗いせいで、鉄朗の黒目は大きくなっていた。夜を滑るように走る黒猫みたいにするりと立ち上がった鉄朗は「んじゃま、帰りますか」といたって普通に鞄を肩にかけると、私に背を向けて腕を後ろに伸ばす。さあどうぞ、と広げられた彼の左手に自分の右手を重ねると、そっと手を握られた。一本一本に触れる肌の感触に、私は胸の奥が甘く苦しくなってしまうのだった。
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