2018

遠くに行ってしまうきみを離したくなくて、でも本当は最初っから掴んでなんかいなかったんだ。
インターハイが終わり、お盆期間は部活も休み。そろそろ本気を出さなくてはいけない宿題と睨めっこをしていたけれど、ずらりと並ぶ難解な数式に煮詰まってしまい、アイスでも食べて頭を冷やすためと脳内で言い訳をした私はサンダルをはいてコンビニへ行った。お財布と鍵だけ持って家を出る。Tシャツにショートパンツ、足元は靴をはくのも嫌になるぐらいの暑さだったのでお兄ちゃんのサンダルを借りた。ペタペタと焼けたアスファルトに足音を響かせる。真昼の往来は人も少なで、ゆらゆら揺れる陽炎が夏の暑さを助長していた。数百メートル先のコンビニがやけに遠くて、自転車で来ればよかったと少し後悔した。ようやくコンビニについたころには汗が顎を伝っていた。自動ドアの向こうは待ちに待ったパラダイスで、涼みがてらゆっくり時間をかけて店内を見た。デザートの棚とお菓子の棚は二往復して、紙パックの珈琲牛乳とシュークリームとメロンパン、そしてアイス二本をかごに入れてレジに並んだ。ありがとうございましたの声を背に自動ドアの前に立つと、ガラス越しに暑さが押し寄せているのがわかってげんなりする。出たくない。ため息をつきそうになりながら俯いて地獄への一歩を踏み出す。

「あ、御堂筋くん」

と、そこには見慣れた御堂筋くんの姿があった。彼の愛車に跨ってはいるけれど格好は私服で、どうやら御堂筋くんもコンビニに買い物に来たらしい。

「……邪魔や」

「一緒に買い物してもいい?」

「キモ。はよ行かんとアイス溶けるで」

「あっ!じゃあ御堂筋くんちゃっちゃと買い物済ませちゃって!」

「知らんわ。なんでボクがお前に合わせなあかんの」

「ほら、はい、なに買いにきたの」

御堂筋くんの後ろに回って背中を押しながら再びの入店。「はぁーひんやりー」とうっとりした声をあげれば御堂筋くんは「それが目的か」と嫌味っぽく言った。長居したいけれどアイスが溶けては元も子もない。スポーツドリンクのペットボトルを一本だけ手にした御堂筋くんは大股にレジに向かっていく。会計を終えた彼を出口で待ち伏せしていたのに、御堂筋くんは私なんて見えないみたいにそのまま自動ドアから出て行った。

「あっつ……」

「家帰るまでにアイス溶けてまうなァ。残念」

ぷぷ、と口元に手をあてて目を細める御堂筋くんはさっさと自転車に跨っている。あーやっぱり自転車で来るべきだった。ぶわ、と噴きだす汗を不快に思い、これからすいすいと自転車をこぐであろう御堂筋くんが心底羨ましかった。汗だくで帰った先に山のような課題があると思うといっそこのまま海にでも行ってしまいたい気分だった。

「そういえば御堂筋くん、課題どう?終わりそう?」

「そんなんもうとっくの昔に終わったわ」

それだけ言って御堂筋くんは地面を蹴った。あの量の課題が終わったって、マジか。このチャンスを逃すほかはないと私は走り去ってゆく御堂筋くんを全力で追いかけた。追いつくわけないことはハナからわかっているので、大声で彼の名前を呼びながら。でも私は忘れていたのだ、私がはいているのはお兄ちゃんの借り物のぶかぶかのサンダルだということを。つま先の部分が地面に引っかかり、足首が妙な方向に曲がったと思えば私は熱々のアスファルトの上に思い切り突っ伏していた。

「いたーい!えっ、うわ、あつ」

じゅぅと肉が焦げる音がしそうなほどの熱さに私はあわてて立ち上がろうとしたけれど、右足首が思いのほか痛かったせいでまたしても地面に倒れ込む。「さいあく」転んだ表紙にコンビニの袋が破れてしまい、中身が零れ落ちていた。シュークリームの袋もアイスの袋も、珈琲牛乳の紙パックも、大粒の汗をかいていた。両手にそれらを持って、今度は気を付けて立ち上がらないと。ゆっくり体を起こすと頭上の太陽が大きな影に遮られた。

「人の個人情報ばらまくのやめてくれへん」

「御堂筋くん」

行ってしまったとばかり思っていた御堂筋くんは戻ってきてくれたらしい。憐れみや同情の色なんて一切ない目で私を見下ろしている。ていうか私がアイス買ったのなんでわかったんだろう。いや、今はそんなことを疑問に思っている場合じゃない。

「課題手伝ってー」

「いや、おかしいやろ」

「なにが」

「まず家まで帰れんの、ソレで」

顎で私の膝あたりをさす。つられて見れば哀れな膝小僧は擦り剥けて血がにじんでいる。「えーやだー」なんとか立ち上がる。アイス、もうだめかもしれない。足なんかよりもアイスの方が気になって、袋の中で無残に溶けてしまうのかと思うと、暑いなかここまで来た自分の努力すら無意味な気がして泣きたくなってしまった。

「もうだめだ、私はここで干乾びる」

「あっそ、ほな」

再び私に背を向けた御堂筋くんの服の襟元に手をかける。「アイス一本あげるから!」頼み込めば御堂筋くんは無言で手を出した。見た目がひんやりしている御堂筋くんでもこういう暑い日にはちゃんと汗をかくらしい。自転車に乗って運動している時の汗はちっとも違和感がないのに、太陽にあぶられて汗を流している御堂筋くんは不思議な感じがする。はい、とガリガリ君のソーダ味を渡すと、「ボク梨味がええ」と私が手にしている方を指さされた。梨味は私が食べたかったのに!と言いたいのをぐっと我慢して袋を交換する。案の定中身はすでに溶けかけていて、私達は並んで歩きながら、垂れた汁で服が汚れないように前かがみになって大急ぎでガリガリ君を頬張った。

「ママチャリなら二人乗りできるのにー」

「お前と二人乗りなんて死んでもゴメンや」

「青春って感じ」

コンビニの袋をぶんぶん振りながら言うと、御堂筋くんは「セイシュン」と知らない言葉を口にするみたいな発音で言ったあと、思いきり馬鹿にする笑い方で「セイシュンて、セイシュンて、」と口に手をあてて笑った。御堂筋くんがひとしきり笑うのを待つ。そんなに変なこと言ったかな。夏休みに自転車で二人乗りなんて、青春のイメージそのものじゃなかろうか。「きみ、よくそんなキモイこと普通の顔して言えるなァ」と心底冷めきった顔で御堂筋くんに言われて私は少しへこんだ。なにもそこまで否定しなくても。けれどそんなことには慣れっこだ。ちょっとがっかりするだけ。私はビニール袋からコーヒー牛乳を取り出すと、紙パックの口を開けてストローをさした。

「ぬるい」

「なんで今飲むん」

「喉が渇いたので」

「ので、やないわ。行儀悪いで」

御堂筋くんにお説教をされるという貴重な体験をしつつ、汗をかきかきようやく私の家に辿り着く。門の内側に自転車を立てかけた御堂筋くんが案外素直に私の後ろに立って玄関の扉が開くのを待っているのが面白くて、わざとゆっくり鍵を開けた。

「ひぁー涼しいー」

私が脱ぎ捨てたサンダルがあっちこっちしている横で御堂筋くんはきちんと靴をそろえると「お邪魔します」と小さな声で言った。自転車の上では横暴な態度なのに、人間社会での基本的な礼儀(いただきます、とか、今みたいなお邪魔します、とか)はわきまえているのだ。
「お母さんパートで夕方まで帰ってこないから」「から、なんやの」「襲ってくれてもいいよ」「キッモォ」とんとんと階段を上がって突き当りの右側が私の部屋だ。はいどうぞ、と扉を開けて招き入れれば、御堂筋くんは何の感想もなさそうないつもと変わらない顔で私の部屋に足を踏み入れた。御堂筋くんは女の子の家なんて行かなさそうだから、もしかしたら私の家が彼にとって初めて訪ねる女の子の部屋かもしれない。別に付き合っているわけではないので私の部屋についての感想なんてなくてもいいけれど、常に平坦な彼の感情が揺れるところが見られたら新たな発見になりそうだなと思ったのだ。
小さなローテーブルの前に置かれたクッションをすすめると、御堂筋くんはストンと腰を降ろした。六畳の部屋に御堂筋くんがいると、普段は可もなく不可もない広さだと思えるこの部屋もだいぶ手狭に感じた。落ちつくはずの自分の部屋の空気の変わりように、思惑とは逆に何故か私の方がそわそわしてしまう。「お茶いれてくる」言い残して台所に降りて、麦茶とお菓子を持つと気持ち時間をかけて部屋に戻った。さっき見たままの恰好で座っていた御堂筋くんは「お茶とかええからはよォ課題」と私を睨んだ。ごめんごめん、と言って麦茶のコップを置くと、御堂筋くんは躊躇なくそれを手に取ってごくりと煽る。上下する喉仏に予期せず視線を奪われて、あ、この人は男のひとなんだ、と軽率に家に招いた自分を恥じて俯く。ことん、とグラスがテーブルに置かれる音があからさまに苛立っていたので、勉強机に広げっぱなしになっていた数学の課題を急いで手に取りローテーブルに広げた。

「ここの、これ」

「きみィ、こんなんわからんとよう生きとんなぁ」

「えっそこまで言う?」

「ビックリするわ」

ぷ、と口元に手をあてて笑うのかと思えば本気のあきれ顔だったので、教えてもらう身でありながら腹立たしく思い、「ならはやく教えてよー」とすぐ向かいにいる御堂筋くんの手首を掴んでがたがたゆすった。触らんといてアホが移ったらどないすんの、と手を払い除けて御堂筋くんは私のシャープペンを奪い取ると、数秒問題を眺めただけで手を動かし始める。几帳面で神経質そうな小さな字がつらつらと書かれていくのをじっと見る。「しまいや」と書き終えた御堂筋くんが芯をカチリとしまうので、なにがどうなってその数式が導き出されたのかという説明はもらえないらしいことを理解する。ほな、と立ち上がった御堂筋くんの、今度は半ズボンの裾を掴んで引き止めた。

「まだまだいっぱいあるんですけど」

「ハァ?僕には関係あらへんし。たかだかアイス一本でええ気にならんといてくれる」

「たかだかって、梨味どれだけ私が食べたかったと……」

「せやから、知ィらん」

ズボン脱げるやろ放せ馴れ馴れしいわ触んな。ひと息に捲し立てると、私を引っぺがそうと長い腕をぬっと伸ばすので、私の方もムキになって御堂筋くんの脚にしがみ付いた。「お願いしますー御堂筋翔サマー!お礼なら何でもしますからー!」言ったが最後御堂筋くんはゆらりと上半身をまげて私の顔を間近で見る。にぃと持ち上げられた口から覗いた白い歯がカチンとなった。

「今、なんでも、言うたな」

「い、言った、けど」

「ええこと聞いたわァ。ほなさっさとはじめよか」

ふたたび腰を降ろした御堂筋くんは顎で向かいに座るよう示す。マズいことを言ってしまった気がするけれど、とりあえずはこの課題を終わらせるのが先決だ。あーとかうーとか言いながら問題を解く私を、御堂筋くんは蔑むような目で見降ろしている。でも、きっと彼が見ているのは私じゃない。私の手前にある空白。そこを眺めながら考えているんだ、自転車のことを。
つい先日のインターハイで負けた彼の、干瓢みたいな姿を思い出す。私の知っている自転車じゃない。常々思っていたけれど、あの時ほど強く思ったことは無かった。自転車こいで、なんでこんな風になっちゃうの。全部全部削いで捨てて、自分まで捨てようとした御堂筋くんは、負けた。負けたけど、彼はきっとさらに強くなる。意味のある、価値のある負けだったのだと、彼の伏した姿を前に私は他の誰でもない自分に言い聞かせていた。そうでなければ、こんな。

「nameチャン、なに他事考えとんの。キミのどこにそんな余裕あるん?考え事しとる時間あるなら残りは全部自分でやり」

目を細めてもっともな悪態をつく御堂筋くんは、清々しいまでにいつも通りだ。「頭悪いと難儀するなァ」と長い舌を出している御堂筋くんを、私はシャープペンを動かす手を止めてじっと見つめた。視線が合うと逸らされる。それもいつも通り。

「御堂筋くん」

「なに」

私の右斜め上を見ながら彼は返事をする。

「ごめんね」

課題とは全く無関係の突拍子もない私の謝罪の言葉に、御堂筋くんは意味が分からない顔をした。なにが、とは訊かれないので興味がないんだと思った。彼の関心は私がさっさと課題を終わらせることでも、着せた恩で私をお盆明けの練習以降部室の掃除係にするであろうことでもない。ましてや、突然の謝罪でも。「耳聞こえてへんの?ボクさっきなんてゆうた?貴重なボクの時間割いとんのやからさっさと……」言い掛ける御堂筋くんの言葉にかぶせて私は口を開いた。

「わかってあげられなくて、ごめん」

「なにを、とか、聞かんよボクは」

「たまにね、思うの。私が男の子だったら御堂筋くんをひいてあげられたのにとか、御堂筋くんと同じ景色が見れたのに、とか」

「キモイでぇその話、キモすぎて吐きそうやからちょお黙ってくれはる」

「御堂筋くんは寂しくないの」

夕日を背負った御堂筋くんの背中は時々とても寂しそうに見える。自転車部に君臨する孤高の地位ゆえにもたらされる影ではなくて、ただ、純粋な15歳の寂しさ。人をわざと寄せ付けない彼の言動の裏にあるものの正体を私は知らない。

「さみ、しい?……ハァ?」

自分がなにゆうとんのかわかっとんの。ぎょろりと睨まれても、私は怖いと感じない。気分悪い、帰る。と吐き捨てた御堂筋くんの手を握る。「離し」「はなさない」「はなせゆうとる」「いやだって言ってる」振りほどこうと思えばできるのに、御堂筋くんはそうしない。麦茶の入ったグラスの溶けた氷がカランと透明な音をたてた。

「がんばりやさんの御堂筋くんでも、ひとりで全部は無理だよ」

「それはボクが決めることや」

「全部抱えて、それは重たくないの?」

削って削って、自分までを削り出す御堂筋くんは、なんでも自分で抱え込む。必要ないと、全てを捨て去るくせに。私の問いに彼はこたえなかった。

「せやったら、キミがボクの何かを請け負ってくらはるの?その細っこい腕で?できんやろ。キミにいったい何ができるんか聞かせてほしいんやけど」

こたえる代わりに私に迫る。確かに私には彼の指摘するどれもしてあげることはできない。だから、ごめんと言ったのだ。

「私にできることなら、何だってしたいよ。サポートでも、応援でも。そのためのマネージャーだから。それに、」

まぶたを半分落として、ひと息ついた私の言葉の続きを待つ御堂筋くんは、「御堂筋くんは危なっかしいから、となりでちゃんと見てる人がいなくちゃ」と言った私に嫌悪の表情を隠そうとしない。「キモ」と彼が言うよりも早く「キモくてもいいから」と釘をさす。

「随分エラそうなこと言わはるね、nameチャンは」

「御堂筋くんに偉そうに言えるのなんて石垣さんか私しかいないでしょ、石垣さんはもう引退しちゃうし、だから私がビシッとね」

「いらん」

腕を持ち上げて私の手から逃げた御堂筋くんは、「それはお節介いうんよ、ボクはそんな同情みたいなもんはいらん」と彼自身の手、さっきまで私の手のひらが触れていた部分に視線を落とした。
お節介とか同情とか、一切の面倒な感情なんて私の中には無いのに。腹の底の底、裏の裏の裏を読んでばかりの御堂筋くんにはまっすぐの裏表ない感情が理解できないのかもしれない。わからないならわからないまま。遠ざけてしまえば無関係になってしまうものたち。
じーわじーわと窓の外でせわしなく鳴く蝉たちの声とエアコンの冷気を吐き出す音だけが耳に痛かった。

「というわけで、はい、課題の続き!」

「やらん、帰る」

彼は頑なで、しばらく私が無言の重圧をかけてもびくともしなかったので、御堂筋くんの手をとって立ち上がる。「じゃあ送ってく」「いかんでええわ」「せめてものお礼に」「お礼になってへんし、お前おったら自転車こいでいかれへんから嫌や」「じゃあ走ってついてく」「アホか」できるわけないやろ。静かに御堂筋くんが言うので私は「できるよ」と言った。

「勝手にしぃ」

御堂筋くんは来た時と同様なんの感想もなさそうな乏しい表情で「お邪魔しました」とそれでも律儀に呟いて、自転車を手に玄関を出る。降り注ぐ太陽光線に街は死滅したみたいに静かで、蝉時雨だけがそこに響いている。デローザのフレームに光が反射してキラリと輝いた。

「キミィ、本気で送る気やないやろ」

じとりと私を見るので、あっけらかんと私は「うん、暑いし」と首を縦に振った。「また課題手伝ってね」と門にもたれて手を振る。御堂筋くんは赤い舌をべろりと出して拒否をした。

「今度会うまでには課題終わっとるとエエねぇ。あー無理やな、nameチャンアホやもんなぁ。ボクゥがおらんとあんな簡単な問題すらわからんのやもんねぇ」

ププ、と目を三日月のように細めて口に当てた手の向こうで御堂筋くんは笑うと、私が言葉を返すより早く自転車にまたがって走りだしてしまう。小さくなる背中に私は「またね」と大きく叫んで、額に浮かんだ汗を拭った。
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