2018

その唄、聞き覚えがある。私の膝の上に頭をのせてまどろんでいたエルヴィンはすこしだけ目蓋を開けた。続きを促すような沈黙をうけて私はちいさく口ずさむ。どこで聞いたんだろうか。ほとんど寝言みたいな、あやふやな語調。かすれた低い声。彼の髪を撫でながら「子守唄ですよ」と私は目を伏せる。

「母が昔、歌ってくれました。古い唄なのか、それとも母が適当に作ったものなのか。でも聞き覚えがあるのならきっと、よくある子守唄のどれかなんでしょうね」

「……そうかもしれないな」

たっぷりと前に置かれた間に、彼は昔を思い出すような遠い目をしていた。その視線の先を見たけれど、私にはなにも見えないことが悲しかった。左手でエルヴィンの視界を塞ぐ。彼に訪れる束の間の安息。過去も未来もない、ただの暗闇。
彼に出会って私の世界は変わってしまった。ずっと昔、初めてエルヴィンを見た時に私の人生が始まったと言っても過言ではなかった。それまでの人生なんて取るに足らないなにかで、彼のいない世界の記憶なんてとうに忘れてしまっていた。だから今この歌が口をついて出たことに私自身も驚いていた。

「もうずっと前の話です」

「nameはどんな子どもだった?」

「さあ、どこにでもいる、ありふれた女の子だったと思いますけど」

小さかった頃の私はどんなだっただろう。服や髪型もあまり覚えていない。首を傾げているとエルヴィンが視界を覆っている私の手を掴んでそっと下ろす。「見てみたかった」と言うその眼差しが優しくて、私は泣きそうになった。「もしかしたら、どこかですれ違うぐらいはしていたかもしれないですね」そうであったらいいのにと思った。知らぬ間に交錯していた私たちの運命。これまで数えきれない人間とすれ違ってきたけれど、その中から線が交わった数なんていくばくもないだろう。交わり、離れ、また交わったのなら、それはもはや運命と言ってもいいはずだ。

「残念だ。きっと利発な子どもだったんだろうな」

「買いかぶりすぎですよ」

団長はどうだったんですか。訊けば、「団長はよしてくれ」と渋い顔をされた。この人はふたりでいるときに団長と呼ばれることがあまり好きではない。ごめんなさい、エルヴィン。頬に触れるとかすかに髭の感触がした。私の顔をじっと見上げ、同じように私の頬に手を添える。大きな手とは裏腹に触れ方が頼りなくて、私は咄嗟に自分の手を彼の手に重ねた。髪を撫でる指から、光みたいな金色がさらさらとこぼれる。

「私は、どうだろう。本が好きだった」

「真面目だったんですね」

「それなりにな」

私は想像する。皺のない白色のシャツのボタンを襟元までとめて、髪を綺麗に梳かしつけ、深く椅子に腰かけてまっすぐに背筋を伸ばし本を読む幼いエルヴィン。わずかに顎を引いて、石畳にこつこつと靴の音を規則的に響かせて往来をゆく。あどけなさの中から滲みだす知性に彼の目は澄み渡っている。そして夜になれば顎の下まで布団を引き上げ、切り上げて寝てしまうのが惜しいとでもいうように枕元に読みかけの本を置いて眠ったのだろう。大人になってからのエルヴィンしか知らないというのに、自分の中で作り上げた幼い彼はやけに鮮明で、まるで彼と記憶を共有しているのではないかという錯覚に陥る。たとえ全てが私の推測だとしても。

「子どもの時に出会っていたら、私達はどうなっていたんでしょう」

「決まってるさ」

後頭部に手が回され。私は前かがみになる。首を伸ばしたエルヴィンと唇が重なった。彼の目元が緩んでいるのは睡魔のせい。
昨晩も遅くまで起きていたと言っていた彼は、いつも通りに振るまっていたものの背中に重たい疲労を背負っていた。あたたかいミルクに少しだけアルコールを垂らしたものを片手になかば押しかけるようにしてエルヴィンの自室に入ってきた私を、彼は「今晩は来ると思ったよ」と受け入れた。打ち解けた姿でシャツのボタンを肌蹴させて、ベッドに座る私の膝に大人しくやって来た。ふと頭をよぎった唄を口ずさんだだけでまどろんでしまうとは、いったいどれだけ睡眠不足な日々を送っているのか。早く寝てくださいねと釘を刺しても返ってくるのは「ああ」という言葉と笑顔だけで。だから私はこうして、たびたび強硬手段に出ねばならないのだった。

「だめですよ、今日はもう寝てください」

腰に回った腕をけん制するも、よほど眠たいのだろう、エルヴィンは私の手に抗うこともせず大人しくされるがままだ。指先を絡めたり、爪の微妙な凹凸をなぞったり、皮膚の下にある骨の感触を味わったり。時間はゆっくりと流れる。

「一緒に、」

「寝ましょうね」

彼にひたひたと押し寄せる眠りの波を邪魔しないよう囁く。ややあって規則正しい寝息が聞こえてきた。
私の世界を変えた男が、ともすれば私そのものを変えてしまった男がこうして自分の腕の中で眠っている感慨深さに私は長く息をつく。どこまでも進んでいくエルヴィンに憧れ、彼の背中を目指した。並大抵の努力ではなかったと思うけれど、世界を失うことを思えばなんてことはなかった。彼に近づくにつれ目に映る景色は彩度を増していった。
大きな身体を丸めるようにして眠るエルヴィンの背中を撫でる。近いようで遠く、また、遠いようで近い背中は私が守ると決めている。他の全員が死に絶えたとしても、己の四肢がもがれようとも、命に代えてもエルヴィンのことは私が守るのだ。
私が心臓を捧げるのは他の誰でもない、民でも王でもない、この男ただひとりだけ。
ごろりと私の身体の方に向かって寝返りを打ったエルヴィンの両腕が腰に回される。しがみ付くみたいな恰好から垣間見える幼さに、心の甘い部分がやわやわと刺激された。この人はもっと甘やかされるべきだ、と思う。自らに枷を課しすぎるきらいのあるエルヴィン。なにがいったい彼にそうさせるのか。切れ切れに記憶の中の子守唄を紡ぐ。今晩だけでもいい、幼子のように一点の憂いなく朝までぐっすりと眠ってほしい。寝言だろうか、唇が言葉を形どる。何と言ったのかはわからなかった。

「おやすみなさい」

閉じた目蓋のまつ毛に触れる。エルヴィンから満足げな息が吐きだされ、部屋には静寂だけが満ちていた。
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