2018

(社会人設定)

翔くんはどれがいい?
nameはボクに聞くのが好きだ。どれでもええよ。ボクはそのたびにそう応えた。nameはじっとボクの目の奥のほうを見て、ボクの真意を探そうとする。見えたのか、見えなかったのか、ふっと顔をゆるめて「じゃあ、これにしようかな」と言って(その言葉もやや疑問形で、ボクの意見を求めているように聞こえる)、皿だったり肉だったり石鹸だったりカレーのルーだったりを手にとった。
本当にどれでもいいのだ。どれでもいいし、どうでもいい。「それ」でなければならない理由は特にないし、だいたいの物はどれだって同じだった。自分が声を上げるよりも先に上がった意見が優先されることのほうが多かったし、それ以前に自分の意見を声を大にして言うことのほうが少なかったのだから仕方がないといえばそうなのかもしれない。
無自覚な遠慮の積み重ねで、諦めることは上手になった。だから、無遠慮に、自分の欲しいものだけを全力で追い求められる自転車にすべてを注いだ。手にした勝利は何ものにも代え難く、また、自分を取り巻くそれ以外についてはなおいっそう興味が薄れていった。
nameはそんなボクと世界をつなぐ一本の糸だった。ゆるゆると繋がれた手の見た目の頼りなさとは裏腹に、その揺るぎなさは時にこのボクを驚かせるほどだった。

丸襟のブラウスにふわっとした紺色のスカートをはいたnameは台所に立っている。エプロンをつけなくていいのだろうかとふと思う。久屋のおばさんはいつもエプロンをしていたから。エプロンの腹のあたりが薄く汚れていたことを思い出しながら、nameのちいさな背中をぼんやりと眺める。

「あとは煮こむだけだから」

じゃがいもと人参と玉ねぎを炒めたフライパンに水を入れ、nameが振り向いた。曖昧な音を喉から出して返事をする。
結婚してはじめて作る料理が肉じゃがて、ベタやなァ。スーパーで茶化してみたが、じゃあ翔くんは何が食べたい?と聞かれたところでこれと言って食べたいメニューがあるわけでもなくて、ボクは黙ってカートを押した。
冷奴、きゅうりの漬物、玉ねぎとわかめの味噌汁そして肉じゃが。白いご飯は茶碗に山盛りよそわれていた。小さな机に改めて向かい合うとむず痒くて、ボクは視線を下げたままいただきますと手を合わせた。

「そない見られとったら食べにくいんやけど」

「……味、どうかな」

「心配せんでもうまいわ」

途端にほっとした表情になったnameは、ようやく自分の箸をとる。
どうかなもなにも、お前の料理食べるの初めてやないし。nameはよく料理を作ってくれた。和食も洋食も中華も、簡単なものなら携帯電話の画面と手元とを交互に見ながらとはいえ器用に作った。本当に初めて彼女の料理を食べた時、「あんまり自信ないけど」の言葉を真に受けてなんの期待もしていなかったけれど、予想外にきちんとした見た目と味付けに意表を突かれた。「料理は元々してたけど、御堂筋くんの口に合うか心配で」とボクの口元を不安げに見ていたname。あれから何年経ったのか。

「なんか、恥ずかしいね」

えへへ、と笑うnameに「キモ」と返すも、自分も同じように思っていたので勢いは控えめだった。
余った肉じゃがをタッパーに移し、洗い物をするnameの隣りに立つ。「翔くんは座ってていいよ、あとは私がやるから」あとは、て。全部お前がやっとるやろ。だったら机でも拭こうかと思い台拭きを手にすると、nameは泡だらけの手をあげて「ほんとに、いいから」とムキになった。ボクはそれを無視して机を拭く。「ありがとう」とかけられた言葉がくすぐったくて、でもくすぐったいなんて思う自分のキモさに口を歪める。「別にィ」と呟いて台拭きを置いた。
テレビをなんとなくつけたまま、ソファに並んで座る。向かい合うよりもこっちの方が落ち着いた。地味なグレーのソファは、ふたりで家具屋で選んだものだった。「翔くんはどれがいい?」「どれでも」部屋に収まって適当な値段で、座れるならばどれでもいい。だからいつものようにそう言った。店内を3周ほどして「これは?」とnameが訊いたので「ええんちゃう」と頷いた。アパートにそのソファが届いたのはそれから3日目のことだった。

「明日はなに食べたい?」

「なんでも」

「うーん……」

「ほな、お前はなに食べたい」

逆に訊けば、nameは目を丸くした後に首をひねって考える。その真剣さがおかしかった。晩飯の献立でなにをそないな。

「確かにきかれてもそんなに思いつかないね」

「せやろ」

「でも、翔くんの好きなもの作りたいなと思って」

ボクを見上げるname。好きなもの。豆腐と鰻は好きやけど、鰻なんてそう頻繁に食べるものでもないし。だから豆腐と言ったら「お豆腐……。麻婆豆腐、豆腐ハンバーグ、豆腐ステーキ、肉豆腐、えーと、あとは……」とnameが再び首をひねりだしたので、味噌汁に入っとるやつでええわ、と抱えていた膝にまわしていた腕を伸ばしてリモコンを取る。チラチラと変わる画面が鬱陶しかったので電源ボタンを押せば、静寂が部屋に訪れた。

「nameが作るもんなら何でもええし」

さっきと同じ体勢になって爪先をいじる。爪を切ろうと思ったけれど、昨日切ったばかりだった。

「翔くん」

呼ばれたので返事をする代わりに左側を見ると、nameがボクに身体を預けてくる。

「食べたいものとか、欲しいものとか、行きたいところとか、ちゃんと言ってね。私にはなんだって言っていいんだよ」

疑問なのか念押しなのか。
ごく稀に、nameに母親を重ねることがある。疎いボクでもそれがタブーであることは知っているし、なにより自分の中の母親は重ねるにはあまりにも薄くなりすぎているし、なにが実際の記憶でなにがボクの願望なのかも曖昧な部分が多すぎる。
それでも、たとえばさっき台所で隣りに並んだ時に、もし今母親が生きていたらこんなふうにボクが母親を見下ろしていたんやろか、とかいう類のことをどうしても思ってしまうのだった。
おばさんの家でぞんざいな扱いを受けていたわけではなく、むしろ別け隔てなく育ててくれたおばさんと、仲良くしてくれたふたりにはしてもしきれない感謝をしている。でも、それはボクの中では「本当」ではなかったし、そもそも今となっては「本当」なんて知りようがないのだから、そんな傲慢な考えは捨てたほうがいいに決まっている。
要らんと、無駄やと捨てたものは結局巡り巡ってまた自分の元へ返ってきた。全部全部、捨てたと思ったものはnameが余すことなく拾い集めていたし、バラバラになった身体は知らぬ間にnameによって繕われていた。
レース中、勝利のことを考えると、同時に必ずボクの勝ちを喜ぶnameの顔が思い浮かんだ。どれだけ振り払おうとしてもそれは消えず、それどころか「すごいね、翔くんは」と声までついて頭の中で動き出すもんだから、ボクはやたらにペダルを回す羽目になるのだった。キモ、キモ。何度も胸の内でつぶやき、あるいは声に出した言葉。けれどnameには暖簾に腕押し、糠に釘の言葉。

「なんやそれ、母親か」

ボクのツッコミに、nameは寂しげな顔になった。

「私はお母さんにはなれないよ、ごめんね」

「知っとるわ」

「でも、翔くんのお母さんみたいに翔くんのことなによりも大事にしたいよ」

「キモいで、nameチャン」

それよかキミ、ボクの母親知らんやろ。足の親指の爪をつつく。nameはボクの手をとってぎゅっと握った。

「知らないけど、素敵なお母さんだったってことはわかるよ。翔くんのこと見てたら、わかるよ」

「なんで泣くん」

引き結んでいた唇がかすかに緩んだ隙をついて、nameの目から涙が零れた。馬鹿みたいにお人好しというか、不用意に優しすぎるというか。他人のために涙を流せるということが、ボクにとっては信じられないことだった。この涙もきっと、過去から今現在に至るまでのすべての「ボク」に対して流されているのだろう。しょーもな。けれどボクの手は俯いたnameの頭に乗せられていた。

「泣かんでええわ」

「ごめ、」

マリッジブルーかな。鼻を啜りながら下手くそな笑顔を浮かべるname。ブサイクな、と鼻の頭を人差し指で押すと、nameは泣き顔と笑顔の中間地点で怒っていた。小さな身体を腕の中に入れればnameは居心地良さそうに目を閉じる。

「ボクら今日から家族らしいで、わろてまうわ」

「笑うとこじゃないでしょ」

笑うとこやわ、こんなん。同じ名字で、同じ部屋帰ってきて、同じ飯食って、同じ風呂入って同じベッドで寝て。ほんまキモすぎや。あーキモ。ボクはどうかしてしまったんやろか。

「もうボクにはnameしかおらへんわ」

キモイついでに口走る。

「よかったのかな、私で」

ハァ?と頓狂な声が出た。同時に怒りも。

「ボクゥの選択が間違うとった言いたいんか」

「そうじゃないけど、たまにね、不安になるよ。翔くんとは違って私には何もないから」

「なにも、ない」

訊き返せばnameはこくりと頷いた。

「だって、そうでしょ」

両手を広げて手のひらを振るname。
別にnameに何があるとか無いとか、そんなことはどうでも良かった。ただ、nameがnameとしてそこにいてくれれば。それ以外のものはなんだっていい、どれだっていい。替えがきく。
けど、nameだけはそうやない。
いつからそんなふうに思うようになっていたのか。求める勝利の核にnameがいると気付いたとき、nameを欲しいと切望している自分がいた。閉じ込めた優しさの記憶を、nameが両腕で抱いている。その表面を覆うように勝利の結晶が形成されていた。勝利、勝利、勝利。
せやからボクは両手でそれをそおっと包む。決して潰さんように。逃さんように。指の隙間から、あわあわと光る、やさしい黄色。

「nameチャンは阿呆やねぇ」

「えー……」

頬をつまむと変な顔をしたまま不満そうにボクを見る。だって阿呆やろ。何にもないとか。
指でボクの襟足の毛をいじりながら「翔くんに比べたらそりゃあ阿呆かもしれないけど」となおも膨れっ面。

「風呂、入ろか」

腕にnameを抱えてバスルームに向かう。背を向け合って服を脱ぎ、狭い洗い場で前後になって身体を洗った。恥ずかしいからとnameが入れた乳白色の入浴剤は甘ったるいにおいがした。脚の間に小さく収まっているnameのうなじや肩。いたずらに噛み付けば白い肌にボクの歯型がはっきりと残った。痛いよ、と振り返った額に汗が浮かんでいた。
赤くわずかに窪んだ痕に少し安心する。nameが確かにここにいるということに。
タンクトップにショートパンツという、結婚初日の夜の服装として正しいのか甚だ疑問の出で立ちで髪を乾かしているnameを、ボクはミネラルウォーターを飲みながら横目で見ていた。何着てようが関係あらへんけど。妙なところで無頓着なこの女が自分の「妻」なのだと思うと眉間に皺が寄った。ミネラルウォーターのペットボトルをベコベコさせながら、手のひらについた水滴を首にかけたタオルで拭く。

「使うよね?ドライヤー」

「つかう」

「じゃあ置いとくね」

隣に立てば洗面台の鏡にボクとnameが並んで映る。鏡越しにnameの視線を感じながら髪を乾かす。はい、櫛。と手渡されたそれを受け取って適当に髪をとかした。鏡に向き直ればやっぱりボクの隣にはnameがいる。当たり前のことなのに不思議だった。洗面所はシャンプーやらリンスやらボディーソープやら、はてはnameの身体に塗るクリームやらの混ざり合ったベタなオンナノコの香りで満ちていて、これが女と暮らすということかという、言ってしまえば諦めのような気持ちになった。諦め、というか、現実を受け入れる、というか。いや、認める、か。

真新しいベッドはやわらかく身体を受け止める。閉められたカーテンの向こうで時折車が乾いた音と光と共に通り過ぎていった。
nameはぬくい。もぞもぞとnameが動くたびに掛け布団の中で熱が波打った。天井を見上げていると、nameがボクを覗き込む。

「おやすみ、また明日」

「もう寝るん」

「えっ」

「やから、もう寝るんか」

目を細めて意地の悪い声を出すと、nameはせわしなく二、三度まばたきをしてボクの鎖骨のあたりに顔を埋めて隠れてしまった。息を殺して身じろぎひとつしないname。かすかな呼吸の音に合わせて小さな身体が上下している。遠くで救急車の音がしていて、ボクは少し胸がざわついた。nameの肩に、そこにある体温に触れる。しばらくそのままでいても、体温は変わらない。当然や。わかっているのに、ボクの指はさっき風呂でつけた歯型のあたりを何度も何度もなぞっているのだった。

「張り切ってるって思われたらヤダなって、思って、」

突然もそもそと語りだしたname。

「なにが」

「なにがって、えっと、その」

そういうこと。と勝手に完結して終わらせようとしているらしい。

「ええやろ、何着とってもどうせ最終的には脱ぐんやし」

「元も子もないこと言わないの」

そう言ってボクの目線に合うように身体をベッドの上の方にずらしたnameは、同じように仰向けになって天井を仰いだ。

「やっぱり結婚式したほうが良かったかな」

「キモいから絶対したないわ」

「でも石垣さんとか、楽しみにしてたよ」

「はぁーキモ。その名前今出さんといて」

露骨に嫌がればnameはコロコロと笑った。笑うと甘い香りが弾けてボクを包む。
結婚式はしなかった。紙切れ一枚で呆気無くボクとnameは夫婦になった。呆気無くというにはあまりにも長い年月をかけたけれど。
新婚旅行はフランスに行くんだとnameは張り切っていた。翔くんの見た景色を私も見るんだ、と。その言葉は否応なしにボクの叶わなかった夢を思い出させる。キモ。もう忘れてもいいのに、それはまだ昨日のことのように思い出せるのだった。

「健やかなるときも、病めるときも」

その先なんだっけ。とnameは首を傾げた。

「誓いますか、やろ」

「飛ばしすぎだよ、その間が知りたいのに」

「僕かて知らんし。どーでもええし」

なんだっけ、なんだっけ、と真剣に考えている横でボクはその一節を胸の内で諳んじる。そして最後まで述べることなく「当たり前や」と打ち切った。

「とりあえず、誓います」

「ええんやんか、それで」

「翔くんは?」

「ボクゥに阿呆なこと言わせんといてくれる」

nameの瞳が期待の色に輝いていたので、面倒くさくなって背を向ける。腰のあたりに絡んでくる腕を鬱陶しいと思えど、払いのけることはしない。ねえねえ、と今度は脚を絡めてくるので「ウザいからはよ寝ぇ」と身体を丸めた。
今夜に限って母親のぬくもりがやけに鮮明に蘇るのは何故なのだろう。
nameがボクのカゾクになったからやろか。カゾクの女というのは皆同じようなぬくもりを持っているんやろか。
馬鹿馬鹿しい。人間の体温なんて似たりよったりだ。けれどnameの熱はボクの肌によく馴染み、ボクを安心させる、それもまた事実だった。
シーツの冷たいままの部分に手のひらをあて、予想外の冷たさに手を引っ込めた。ぬくもりを求めて自分の膝を抱える。

「翔くん」

nameの手が滑り込んできて、ボクの両手にそっと触れた。

「……」

「明日の朝、パンとご飯どっちがいい」

「どっちでもええ」

「ジャムかバターか、明太子か梅干しか」

「せやからどっちでもええて」

「翔くん」

「……」

「七夕飾り作ったり、クリスマスツリー飾ったり、一緒にお節食べて紅白見ようね。結婚記念日は美味しいもの食べに行って、お誕生日会も毎年やろう。お盆にはお墓参りに行って、帰りに翔くんの好きな鰻を食べようよ、特上のやつ。あとは、あとは、」

あとは。それ以降は声にならなくて、nameは僕の背中でまた泣いた。命を燃やしているかのようなnameの体温を背中に感じながら、ボクは暗闇に目を凝らし、その中から永遠に知ることがなかったなにかの輪郭を探す。

「nameチャンは阿呆なだけやなくて情緒も不安定ですかァ」

「家族、なんだから」

私と翔くんは、たったふたりの。
ボクはnameに向き合うと、nameの口の両端を人差し指と親指でぎゅっとつまんだ。

「大事な大事な家族泣かすわけにはいかんねェ。ほら、笑いや」

「真剣なのに」

「そやったら尚更や」

暗闇でnameの涙が光っていた。

「もっとわがまま言っていいんだよ。欲しいものもしたいことも、ちゃんと言ってくれなきゃイヤ」

ボクの手首をつかむと口元から外す。涙に濡れたまつ毛、桜色の目元。
口調と諭すような目付きにボクはあえて抗いたくなる。

「ええの、言って?」

小さく頷いたnameにぐっと顔を近づける。

「後悔せぇへん?」

「しないよ」

きっぱりと、迷いなく。

「おまえが欲しい、今すぐに」

nameを組み敷いて、肩の稜線に噛み付く。そうじゃなくて、と暴れるも、両の手首を掴まれているのでnameにはなすすべ無しだった。色気ゼロのタンクトップ女は噛みつかれた痛みと組み敷かれているこの体勢の気恥ずかしさに耳を赤くしている。欲しい、欲しいで、ほんまに。飲み下してしまいたいほど。
涙も優しさもなんもかんも、ボクが捨てたもんは全部nameの中にある。それでええ。お前に何もなくてもええからボクの隣にずっとおれ。それだけや、ボクのワガママは。まぁ言わんけど。
滴り落ちる夜の中で、ボクはnameがボクの洗濯物を干すところを想像する。清潔な洗剤のにおい、乾いたタオルの柔らかさ。ハンガーから外し、畳むかあるいは別のハンガーにかけ直しクローゼットに吊るす。当たり前の、これから連綿と続いてゆくであろう日常。それは淡く発光しながら、夜を照らし出していた。
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