2018

(社会人設定)

御堂筋くんのことなんて好きにならなければよかったとこれまで何回思っただろう。そんなことよりも、どうして私は御堂筋くんのことを好きになってしまったのだろう。いちに自転車二に自転車、三四がなくて五に自転車。それ以外の時間はだいたい勉強をしているし、特別面白い話をするとか自転車以外のスポーツができるとか、そういうのも全くない。彼の伴侶は自転車で、それ以外の何かが彼の中に入り込む余地なんて全く残されていないというのに。
という悩みは何年たっても私の中から消えず、そして何年たっても私を苛ませている。
彼と自転車の間に自分を無理矢理ねじ込んで、付き合ってるんだか付き合ってないんだか、ほとんど私の片思いみたいなお付き合いを始めてからはや幾年。ただ好きだという気持ちに任せて押しに押してついに押し倒してしまったのだけど、御堂筋くんの私に対する気持ち(もとより気持ちがあるのかすらわからないのが問題だ)は事を致す前と致した後でこれといって変わった様子も見られなかった。私はといえば初めての相手だったし、たとえ一方通行だったとしても大好きな御堂筋くんと結ばれたことで大好きが超大好き、ひいては超々大好きぐらいにパワーアップしてしまったのだった。
友達になんで御堂筋なんかと付き合ってるの、とか、付き合ってると思ってるのはあんただけなんじゃないの、とか、私自身でさえそう思っているような質問をされることが多々あった。御堂筋くんが私を拒まないのは私のことが好き、とまでいかなくとも嫌いではないからだと信じていたし、そうであってほしいという願望も大いに抱いていた。だから私はその質問をされるたびに「そう見えなくても付き合ってるもん」とか「ちゃんと両思いだよ」とか、やたらめったらムキになるので、やっぱり真実は私の主張と逆なのだと友人たちに憐れみの目を向けられてばかりだった。
与えてばかりの愛情だったけれど、どれだけの月日を重ねても不思議と涸渇することはなくて。自分が御堂筋くんのことを好きだという思いは私の人格の根幹となって、息を吸って吐くのと同じ要領で私は彼を愛するようになっていた。そしてそのころにはもう好きだとかそうじゃないとかそんなことは大した問題ではなくなっていて、恒常的な愛は日常へと変化を遂げていた。
「はぁ?」「くだらん」「キモ」などなど。私に向けて発せられる短い言葉の数々。それでも私がひとりで悩んでいる時は隣で歩く歩幅が狭かったり、普段は滅多にないメールの返信が一言だけあったりするものだから、いつまでもいつまでもちいさな望みを捨てきれずにいる。バカップルになりたいわけじゃない。そんなのは想像できないし、九州とハワイが入れ替わるぐらいありえない話だ。でも、彼が自転車と向き合うのと同じぐらいの熱量を、私にも少しでいいから向けてくれたら。なんて、それもあり得ない話か。とにかく数万キロに及ぶ私から御堂筋くんに向けられる恋の矢印に対して、一ミリでも彼から私に向いた矢印があればいいなと思った。

そして、現在。自分のアパートのベッドで私は翔くんの部屋着を着てひとりで丸くなっていた。もう翔くんのにおいはほとんど残っていなかった。部屋着にも、この部屋にも。高校を卒業して大学を出て、社会人になった。私と彼の間で変わったことは社会における互いの肩書と、私が彼を「翔くん」と呼ぶようになったことぐらいだった。相変わらずの関係は続いていて、高校からの友人たちにはいまだ当時と変わらない質問をされるものの、「あんた凄いわ」と逆に尊敬されるようになっていた。
でも、なにが凄いのだろう。ふと冷静になるのだ。特にこんなひとりの夜は。
片思いみたいな両思いをずっと続けてきて、この先何があるのだろう。相変わらず翔くんは自転車ばかりで。勉学と制服に縛られ不自由だった学生時代とは違い、大人になってイチに自転車二に自転車、三四も自転車、五に自転車と大いなる成長を遂げた彼はいまやレースに出るために世界中を名前のとおり翔けまわっている。好きな人の活躍は喜ばしいことだった。
でも、時々彼が羨ましくなる。満員電車に押し込められて、どぶ臭い空気で肺が腐りそうになりながらゾンビのように朝の街を歩いていると、いいなぁという気持ちになるのだった。いいなぁ、翔くんは。大好きな自転車にいつまでも乗っていられて。色んな街に行けて、色んな景色が見られて。その後に私なんか、と続けそうになるのをいつもすんでのところで思いとどまる。
だって、翔くんの血のにじむような、鬼気迫るような努力をずっと見て知っているから。ずっとひとつだけを追い求め続けてここまできた翔くんのことを、ただ日々を生きているだけの私が羨むなんてお門違いも甚だしい。
一日中パンプスを履いていた足はお風呂に入っても痺れたようなだるさが残っていたし、繁忙期で休憩もろくに取れなかったせいで珍しくかかってきた翔くんからの電話もとり損ねた。一度取り損ねたら何度こちらからかけても繋がらない。それは昔から同じで、だから彼が携帯電話を持っていようがいまいが私にはあまり関係がないのだった。こっちからの要件を彼が確認するだけ。まるで私の恋愛みたいだ。私の好きを確認して、それだけの翔くん。
強いお酒でもあればよかったのに、生憎冷蔵庫にあるのはオレンジジュースだけだ。ベッドから起き上がるのも面倒くさい。たっぷり余った部屋着の袖を伸ばして両手で顔を覆う。疲れちゃったな。なんて、珍しく弱気なのは今日が私の誕生日だからだ。時計はもうすぐ0時をさそうとしている。テーブルの上で食べかけの板チョコの銀紙が鈍く光っていた。馬鹿馬鹿しすぎてケーキなんて買う気になれなかった。ひとりで食べることなんてわかり切っていたから。だから板チョコを1枚買ったのだけど、半分も食べないうちに飽きてしまった。
私の部屋にある翔くんの私物は数えるほどしかない。歯ブラシと、部屋着、彼用に私が買ったマグカップ。シャンプーもボディソープもここに来たときは私のものを使っている。だからお風呂に入った後に私と翔くんは同じにおいになる。それなのに脱ぎ去られて放置された彼の部屋着は不思議と翔くん自身のにおいがするのだった。その時はたまらなく幸せなのに、段々とうすれてゆくにおいの中で私はいつも孤独だった。はやく翔くんが帰ってくればいいのに。そればかりを呪いのように心の中で念じながら毎晩ひとりのベッドで眠る私は、生霊になって肉体を離れ翔くんのもとへ飛んで行ってしまいそうだった。
いつの間にか寝てしまっていて、目が覚めると背中がうっすらとあたたかかった。寝惚けているのだろうか、夢なのだろうか。振り向いてかすみがかった視界に映っていたのは、他の誰でもない翔くんだった。驚いた顔で何も言えずにいる私を、ベッドに横になり肘をついてじっと見ている翔くん。

「いつから、いたの」

「忘れた」

表情を変えない翔くん。はぐらかしたのか、本当なのか。向き合えば外のにおいがした。私が見たこともない景色を目にして、私が行ったこともない場所の空気をまとって、そのまま私の知らないどこか手の届かない場所に行ってしまうんじゃないかと不安になる。けれど彼は日本に帰ってくるとその足で必ず私の部屋にやって来た。彼が私のところに帰ってきた安堵と喜びは年々大きくなり、それと同時に不安は倍速で大きくなった。
もうこのまま帰ってこないんじゃないか。そんな思いを抱えたまま過ごす時間の途方もなさに押し潰されそうになって、何度も携帯電話で翔くんの番号に触れようとした。でも、実際にかけるようなことはしなかった。キャリーケースひとつ携えて、私の部屋にあるともいえないような取るに足らないものだけを残して、彼はどこにだって行かれてしまうのだから。
自分からありったけ送る「好き」はどうでもいいのに、それに対する彼からの何らかのリアクションを知るのが怖かった。受け取ってもらえずとも、私の好きが彼の中に蓄積しなくとも、なにもなくてもそれでいい。でも、もし「拒絶」あるいは「拒否」だったら?私には翔くんを好きでいることしかできないのに。拒まれて跳ね返ってきた自分の愛に圧死するしかないじゃないか。とほうもない時間、私は彼を愛してきたのだ。今さらなにを、と思いながら、いつまでこれが続くのだろうと思わざるを得ない自分がいる。

「いま、何時?」

「夜中の3時48分」

「私ね、きのう誕生日だったの」

「せやね」

それを言ってどうするつもりだったのだろう。別に、祝ってほしいとかじゃなくて、ただ、その事実を彼に伝えたかった。眠たくて、まだ半分寝惚けた頭で思う。次の誕生日まで翔くんと過ごせるのだろうか、と。でも今はそんなことを考えたくなくて、同じベッドに翔くんがいることが嬉しくて、それだけでよくて。ずっと抱えていた不安も心配も全部全部この瞬間だけはどうでもよくなってしまう。高校1年生の時からなにも変わらない。笑ってしまうくらいに。

「好き」

「キモ」

翔くんも変わらない。私達は変わらない。これまでも、これからも。きっと、ずっと。

「ね、もっかい寝るね私、今週すごく忙しくって」

再び押し寄せてきた眠気に私はあくびをして瞼を閉じる。暗闇の向こう側に翔くんがいるのだと思うと、瞼の薄い皮膚がじんわりとあたたかいような気がした。おやすみなさい。私が呟くのにかぶせるようにして翔くんが口にした言葉は、睡魔が私に聞かせた幻聴だったのだと思う。だって、あまりにも現実離れしていて、そうとしか考えられなかった。そんな言葉が彼の声音で聞けたなら、もう幻聴でもいいや。私も来るとこまで来たな。眠る体勢のまま苦笑する。

「name、」

今度ははっきりと私の名前が呼ばれた。ん、と目を開けて翔くんを見る。さっきと全く変化のない表情をしていて、だからさっきの言葉はやっぱり幻聴なんだと理解した。そんなことを言った後なら流石の翔くんとはいえ多少なりとも表情に変化があってもいいはずだから。

「なぁに。ていうか翔くんも寝たら?疲れてるでしょ。あ、お風呂まだ?入ってから寝る?それとも明日入る?」

「いまボク風呂の話なんかしてへんのやけど」

「……ん?」

「耳ついとるん、キミ」

伸びてきた指が私の右耳を掴む。ぎゅ、と引っ張られるのかと思って身構えたのに、予想に反して耳の縁を撫でられおもわずびくりとしてしまった。「ついてます」そう応えれば、「だったらなんで流した」とあからさまに不愉快そうな顔をされた。シーツに顔を埋めて私は今さら混乱する。さっきのは、現実?待って、いや、でも。少しだけ顔をあげてちらりと視線だけで翔くんを見上げる。やっぱり何の変化もなし。全くもって普段通り。

「ごめん、もっかい言って」

「嫌や」

即答。後頭部を掴まれてシーツに沈められる。「もうええわ。さっさと寝ろ」と言ってベッドから立ち上がろうとする翔くんを逃がすまいと彼の腰に腕を回す。

「放せ」

「やだ」

「放せゆうとるやろ」

「もっかい言ってくれるまで放さない」

「ほなら一生くっついとけ」

「だから……」

え?と顔をあげた私の顔面を翔くんの大きな手の平がむんずと掴んだ。指の隙間からだけではどんな顔をしているのか全く分からない。

「ねえ、ちょっと、翔く、」

ん。再びシーツに沈められ、唇にくったりとした綿の感触が貼りつく。一生くっついとけ。彼はそう言った。一生って。いつもの嘲笑じみたからかい文句とも取れるけれど、これは違う。決定的に違う。もがくようにして翔くんの手から逃れると、今度はベッドに押し倒された。さっきまでの眠気はもう身体のどこにも残っていなくて、痛いほどに冴えた思考のギアが、彼の伝えんとしていることをわずかでも零すまいと全力で回転していた。

「聞こえとったんやろ、さっきの」

至近距離で凄まれる。もし彼が今舌を伸ばせば、私の唇につくぐらいの距離で。

「聞こえてた、けど。でも、」

「でも、なんや」

「嘘みたいで、信じられなかった」

「ボク、嘘はつかへんよ」

丸い目に、私が映っている。ここまで彼を好きという一心で生きてきて、こんなに心が揺らいでいるのは初めてだった。嘘はつかない。じゃなくて、嘘もつかない、じゃないの。嘘もつく必要ないぐらいの希薄な関係。取り繕ったり、塗り重ねたり、隠したり、そんなことすら不要なのだと思っていたから。私が好きだというから一緒にいるだけ。私が会いたいというからここに来るだけ。いつも行動は私からばかりで、彼の方から私にどうこうなんて、思い返してみてもこれといって思い当たらない。それをこんな急に、これまでの分をこの一言でチャラにするようなことを言われたら、私は。
握りられた両手首がみしりと痛んだ。久しぶりの体温が脳みそを溶かす。じっと見つめると、なんや、と翔くんは眉間に皺を寄せた。

「じゃあちゃんと言って」

「ちゃんと聞いとらんかったお前が悪い」

「なら私が言うよ」

「言えるもんならゆうてみィ」

「……」

啖呵を切ったはいいものの言葉は喉に両手足をつっぱって頑として出てこようとしなかった。頬をこわばらせているとさっきの翔くんの言葉が耳元に蘇って、恥ずかしいほどに顔が赤くなった。それを見た翔くんは二ィと両口の端を吊り上げる。

「ほな、おやすみ」

「結婚、しよう」

私の髪をぐしゃぐしゃと乱雑に乱してベッドから降りた翔くんの背中に私は言う。私の言葉は彼の身体を素通りしてしまうだろうか、それとも受け流されるだろうか。本気にしたんか、とやっぱり小馬鹿にされるのだろうか。上半身を起こして、翔くんの背中を眺める。それから長い間お互いなにもしゃべらなくて、ただ真夜中の静けさだけが私達の間にあった。私に背を向けていた翔くんの腕を引きたかった。押して押して押しまくりの恋なのに、こういう場面には弱かった。どうしていいかわからなくて、馬鹿なことをしてしまったと私が後悔し始めた時、ようやく翔くんが口を開いた。

「自分、キモイわ」

振り返って言った翔くんの瞳がかすかに揺れていて、私はタオルケットに絡まりながら、ベッドから落っこちるようにして翔くんに駆け寄って飛びついた。よろめいて床に尻もちを着いた翔くんの肩に額を押し付ける。好き、好き、好き。身体中の好きが出尽くすんじゃないかってぐらいに好きを繰り返して首にしがみ付く。鼻の奥がツンと痛かった。

「ずっと好きだったんだよ」

「知っとる」

「ずっとずっと、今だって大好きなんだよ」

「知っとる言うとるやろ」

「だから、本気にしちゃうよ、私」

「勝手にしぃ」

顔をあげて翔くんを真正面から見たけれど、おもしろいぐらいに涙があふれて視界はほとんどゼロに近い。呆れた顔をしているであろう翔くんの呼吸の音を聞いていたら、安心感にますます涙が止まらない。うわーん。子供みたいに声をあげて泣く私にギョッとした様子だ。「いい年して泣くな」「だって、だってー……」うえーん、うおーん。しゃくりあげながら涙と鼻水まみれの顔を晒す私は、数時間前で何歳になったんだっけ。
そういえば翔くんの前で泣くのってこれが初めてだったかも。そっと指で涙を拭う、とかではなく、タオルで顔面をすりおろすように私の涙を拭いてくれる翔くん。
「誰かのせいでボクの服びしゃびしゃなんやけど」「じゃあお風呂入ろ」私と翔くんは並んでバスルームに向かう。ひとりでいるときは広く感じるのに、翔くんが一緒だととっても狭い。裸になって、少し恥じらう私を無視して翔くんはシャワーのコックを捻る。
お風呂あがり、ふたりして同じにおいをまとって、同じベッドに並んでいた。自転車を漕いでいる時とは別人のようにやわらかな翔くんの身体。私がたったひとつ、欲しかったもの。

「なんや」

「格好いいなと思って」

「昔からキモいな、ほんま」

それでもなお翔くんの顔をじっと見ていると、「見んな」と目を塞がれる。「照れた」「照れてへん」「じゃあ手どかして」「嫌や」「なんで」「顔に穴開く」攻防戦は翔くんの勝利に終わる。彼の手の平の暗闇に目を凝らして星を探す。「翔くん」名前を呼んでも返事はなかった。

「はよ寝ぇ」

「寝たくない。もったいなくて寝られないよ」

くだらん。そう言うと不意に手が外された。豆電球のやわらかな明かりがここちよかった。彼が私のところに帰ってきたこと、これからも帰ってきてくれること。たったそれだけなのに、こんなにも嬉しいだなんて。そもそも、翔くんが結婚について考えているなんて思ってもいなくて。
というより私たちの関係を彼が「お付き合い」だと認識していたのだということがなによりも驚きだった。「顔キモなっとるで」「なんとでも言ってくださいよ」「キモ、キモキモキモ」「えへへ」「お前さっきまで泣いとったやろ」「翔くんが泣かせたんだよ」責任とってよ。彼の胸にそっと手をのせる。翔くんは右上に視線を向けたまま口を開けて何も言わない。薄暗い部屋に白い歯が光っている。

「とったるわ、しゃーないから」

まばたきをしたら、翔くんはもう目も口も閉じていて、何度揺さぶっても目を開いてくれなかった。頑なになっているうちに本当に寝てしまったらしい翔くんの寝顔を眺めていると、自分も眠たくなってきた。もっと見ていたいのに。とろとろと、まだ熱を持った瞼が閉じてゆく。

「翔くん、おやすみ」

肩に顔を埋めると、背中に手の平のあたたかな感触。夢だったらどうしよう。この感触も、さっきのも、ぜんぶ。

「嘘やない」

寝言は寝て言ってね。呟けば、お腹の肉をつままれた。甘やかな痛み。夢じゃない。延々続いた片思いはどうやらもう終わりらしい。もっと早く言ってくれたらよかったのにと思うけど、今日言ってもらえただけでも良しとしよう。ねぇ翔くん、きみの心臓の音がうるさくて、私やっぱり眠れないかも。

(本当は誕生日が終わる前に間に合うつもりやったけど、飛行機遅れたんやから仕方ないやろ。ボクの服着て、そんな顔して、お前はホンマに。まぁええわ、今度nameの見たい景色でも見に連れてったるわ。それが誕生日プレゼントでええやろ。なにか物選ぶとか、ボクにはよう分からんから)
- ナノ -