2018

梅雨で、冷たい雨の降る日だった。昼間はじっとりと汗ばむほどだったのに、日が落ちた頃には肌寒いほどだった。コンクリートの壁はたっぷりと湿気を吸って部室の空気を重たくしていた。nameは膝を抱えて壁に寄りかかっている。頬をつけると雨に打たれているような気分になる。室内練習を終えた部員たちはもうみんな帰ってしまった。御堂筋以外は。降りしきるこの雨の中、彼は自転車を走らせている。
蛍光灯の白々しい光の下で、nameは彼が戻るのを待っている。いつもなら段々と近づいてくる自転車の音で彼を迎える心の準備をするのだが、降りしきる雨に全てがかき消され、nameの耳にはただ雨粒が地面を叩く濡れた音だけが聞こえるだけだった。閉じ込められているみたいだ、とnameは思う。部室は安心な場所だった。特に、皆が帰ってしまった後の部室は。しんとして、オイルのにおいが微かにして、自転車の気配がひっそりと満ちている。それに制汗剤の残り香や、湿ったコンクリートのにおいが混ざりあってざわめきの名残を留めていた。部室の隅で静かにしていると、まるで自分自身もその一部になってしまったような感じがする。nameはその感覚が好きだった。だってここにいれば必ず御堂筋くんが来るから。
ひんやりとしたコンクリートに頬をつけたまま、自転車から降りてドアノブを握る御堂筋の姿を思い描く。自転車に乗っていないときの御堂筋は世界のどこにも馴染んでいないように見える。教室や運動場で、そこにいるのがまるでなにかの罰ゲームだとでも言わんばかりに背中を丸めている御堂筋だが、部室にいるときだけはそれが嘘みたいにしっくりと馴染んでいる。だから、その空間の一部になって御堂筋と「馴染む」ことができるのが、nameにとっては嬉しいのだった。
不意に部室の扉が開けられた時、nameは扉に向かって無防備に膝を抱える格好をしていて、頭のてっぺんからつま先まで思うさま雨に打たれた御堂筋の視線がおそらく自分のスカートの中に一瞬向けられたのを見て慌てる。そういうものに御堂筋が興味がないことはわかっていたけれど、それでもやはりバツが悪い。nameは準備していたフェイスタオルではなく大判のタオルを取り出して、御堂筋を頭からすっぽりと包んでやった。

「雨、結局やまなかったね。さっきよりもひどくなってるみたい」

nameがひとり喋る間にも、御堂筋の足元にできた水たまりはじわじわと広がっていた。「風邪ひいちゃうから着替えたら」されるがままになっていた御堂筋は自分のロッカーの前に立つとジャージのジッパーを降ろした。nameは彼に背を向ける。衣服が肌と擦れる音、ロッカーの扉がきしむ音、そして窓の外の雨音。目を閉じて背後の気配に集中する。御堂筋の肉体がまぶたの裏の暗闇にぼんやりと浮かぶ。目を開けて振り返れば現実として在るものが、まぶたの裏にいることでひどく幻想的で触れがたいもののように思えた。降りしきる雨がコンクリートに浸透して、部屋が水っぽく感じられる。いっそ、水中であるかのように。ゆらゆらと尾ひれを靡かせ悠然と泳ぐ魚のように、御堂筋は水槽の中を泳いでいる。ぱく、ぱく、と口を開けているのは酸素を欲しているのだろうか、それともお腹が減っているのだろうか。

「いつまで目ぇつぶっとるん」

そのまま寝るならおいてくで。濡れたせいでぺったりと束になった髪。nameは目を開けて御堂筋を見上げる。蛍光灯が眩しくて目を細めしばたいていると、御堂筋がnameの腕を掴み「鍵、返す時間もう過ぎとる」と、急かすように言った。時計に目をやって、nameは立ち上がる。御堂筋の隣に立つと雨のにおいがした。部室のドアを開けると雨音が室内になだれ込んでくる。
ますます強くなってきた雨脚に、夕闇が白く煙っていた。数メートル歩いただけで靴はおろか靴下まで濡れてしまう。傘をさして並んで歩く距離は寂しくて、でも心地いい。並んで、と言っても御堂筋の方がnameよりも4歩ほど先を行っていた。ばしゃばしゃと、水たまりを気にせずにまっすぐ歩いていく御堂筋の背中をnameは眺める。触れようと思えば触れられる。その黒く濡れた薄い背中に。そっと手を伸ばせば、傘からはみ出した肘から先があっという間に濡れそぼった。校舎までの道のり、あたりに人気はない。カーテンのような雨にくるまれたふたりはなにを話すでもなくただ歩く。部室の外にいるけれど、御堂筋は世界に馴染んでいる。彼には雨が似合うからかもしれない。雨音が余計な雑音をかき消した「静かな」世界。教室の喧騒の中にいるよりもずっと輪郭がはっきりしている。
肌寒さに鳥肌が立ち、腕をさすった。ひとりで職員室に鍵を返しに行った御堂筋が戻ってくる。黒い傘を広げると、わっと雫が飛び散って昇降口のコンクリートに水玉模様を描いた。

「上着、持ってきてへんの」

「うん、こんなに寒くなると思ってなくて。だってもうすぐ7月なんだよ。朝だって暑かったし」

セーラー服の肩の部分やスカートの裾が湿って重たい。nameはくしゃみをひとつして「かえろ」と足を踏み出した。「阿保やなァnameちゃんは。天気予報で夜は寒なるゆうとったのも知らんのやろ」「昼休みなんかアイス買ぉとったしなぁ」「ボクのことなんて待っとらんと先帰ればええのに。なんや、そんなにボクのこと好きなん?」わざとらしく口元に手をあてた御堂筋を見上げるnameは、うん、と言って頷いた。それを見た御堂筋は馬鹿にしたような笑顔を引っ込めて真顔になる。

「つまらん」

雨粒が描く水の輪を乱す御堂筋の足が速くなる。大きくなった歩幅にnameはついていきそびれた。待って、とは言いたくなくて、でも、心のどこかで彼が立ち止まって振り返ることを期待している。肩を丸めて、いかにも面倒くさそうな顔でこっちを見る御堂筋。5秒、10秒。心の中で数えながらnameはゆっくり歩く。きっかり20秒、御堂筋が振り向くのと同時に傘を閉じて走り出す。顔中にあたる雨粒が痛い。走り寄って御堂筋の傘に入り込んだnameに「しょうもない阿保やな」と言い放ち数歩歩くも、御堂筋は「濡れる。自分の傘させ」と鬱陶し気にnameを追いだした。追い出されたけれど満足だった。nameは嬉しさに唇を噛みながら閉じた傘を開く。ボン、と小さな爆発のような音をたてて傘は開いた。その拍子に雫が飛んで自分と御堂筋にかかったけれど、それすら気にならなかった。ほんの束の間だった。でもふたりだけだった。この世界に。耳鳴りのような雨に傘ごと閉じ込められて、ふたりぼっちで世界に存在していたのだった。
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