2018

イヤホンを耳につっこんで、瞼を閉じれば歪んだ爆音にさっきまでの景色が吹き飛ぶ。音量を有り得ないほどあげて、脳みそが痙攣しそうなぐらい、音漏れなんて気にしない。部室の裏は日陰でジメジメしている。ダンゴムシ、げじげじ、蟻、その他名前も知らない諸々。彼らを脇目にパンをほおばる。これは、朝ごはん。学校に来る途中にコンビニで買ってきた。紙パックのコーヒー牛乳と一緒に。紙パックは汗をかいてべたべたで、肝心の中身はもうぬるい。ストローを噛むように飲む。引きずるような足音が近づいて、部室の前で立ち止まる。ガチャリとノブをひねる音、そして少しの間、のち、部室の扉が開く音、閉じる音。キィィパタン。私は立ち上がって格子付きの窓硝子を手のひらで叩く。無反応。額をつけて中を覗き込むけれど、磨り硝子なので当然中は見えない。こっちから見えなくても、向こうから見えていればそれでいい。
再び扉の開く音、それが閉まる前に遠ざかってゆく自転車の音、パタン、そして朝の静けさ、雀の鳴き声。透明な空気を胸にたっぷり吸い込んで私は立ち上がる。いいな、自転車。こんな綺麗な空気の中を一直線にゆけるなんて。とりわけ翔くんは、誰よりも速いのだ。自転車に乗ってる翔くんは私よりも3秒ぐらい先の世界が見えてそうだね。そう言ったら翔くんは「ハァ?」と怪訝そうな顔をした。そして遠くを見るような目をして眉間に薄い皺を寄せた。その一連の動作をつぶさに観察する。御堂筋翔くんの観察。「キモすぎやろ」いつものキモ、ではなくて、翔くんは心の底から気持ち悪がっていた。ダンゴムシ、げじげじ、蟻、御堂筋翔くん、その他名前も知らない諸々。「一緒に並べんな」歯を見せて明らかに不快がっている。「あと翔くん呼ぶのやめぇ言うたやろ」御堂筋翔くんは長すぎるのだ。御堂筋くんも長い。翔くんなら丁度いい。だよねー翔くぅん。「ウザい」翔くんはアツくなっていないときの方が面白い。自転車から降りた彼の興味の対象の少なさや、自転車以外のスポーツにおける運動神経の悪さ。一直線に自転車とそして勝利を求める翔くんの、それ以外を全部捨ててしまったような(ような、というか、捨ててしまった)覚悟と潔さ。ひとつだけ、それだけあればいい。それは強さだ。彼の細い身体が巻き起こす渇望の渦に私はのみ込まれる。
澄んだ空気の中に徐々に湿度と土埃のにおいが混じりだす。ざわめきが近づく気配から逃げたくて、私は部室の隣の緑色のフェンスによじ登る。しがみ付いて目を凝らしていると、校門からいつものコースを一周してきた翔くんが戻ってくるのが見えた。「おつかれ」フェンスから飛び降りてタオルを手渡す。翔くんは何も言わず、奪い取るようにタオルを受け取った。「私も自転車乗りたいな」「ママチャリでええやろお前なんか」「ママチャリすら危うい」「オハナシニナリマセェン」「私も運動神経悪いからなぁ」そう言って翔くんを見ると、同じ括りにされたのが不愉快だったらしい。汗を拭いたタオルを私の顔面に突きつけると、私が受け取るよりも前に手を離してまた走り出す。「待ってー翔くぅーん」「来んな」後を追って走る自分の足の遅さは我ながら悲しくなる。しばらく走って足がもつれてつんのめる。身体でリズムをとるのが苦手なのだ。そして意識ばかりが前に行く。身体は置いてきぼりだ。だから、いいな翔くんは。前に進みたいという気持ちを身体ごと運んでくれる自転車があって。すんでのところで体勢を立て直して、ろくに走ってもいないのに額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。離れたところで翔くんがこっちを見ていた。行っていいのに。律儀。あはは、笑えば翔くんは背を向けて滑りだす。
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