2018

自分を慕ってくれるのが当然だと思っていた。
正確に言えば、自分だけを。半歩後ろを振り返れば必ず彼女がいて、他愛のない冗談に呆れた顔をしたり、真剣な眼差しに目を細めたり、そういうnameの全ては自分だけに向けられた特別なものだと思っていた。
会議後の部屋の隅で向かい合っているnameとミケを横目で見ていると、リヴァイにわき腹を小突かれた。「惨めったらしい真似はよせ」辛辣な言葉とは真逆の憐れみを含んだ目が、その言葉以上に私を惨めにさせた。
全身でミケを見上げているnameの瞳のきらめきが眩しい。一時的にnameをミケの下にやったのは紛れもない自分自身なのだが、これほどまでに後悔することになるのならやめておけばよかった。なんてことを今更悔いても仕方がない。
照れたように頬を赤らめるnameにミケが囁き声で何かを耳打ちする。それを聞くやnameは唇を尖らせてミケの腕を軽くたたく。そしてミケが笑う。私のところまでは笑い声しか届かない。たとえ先ほどの耳打ちや彼らの内緒事が私に聞こえていたとしても、きっと異国の言葉にしか聞こえず自分には理解できないのだろうなと思った。子供じみた疎外感。自然、自嘲気味に唇がゆがんだ。
翌日、食堂で朝食をとっていると、nameがいつもと変わらない様子で「団長、おはようございます」と椅子を引きながら私の隣に腰を降ろした。これからミケ班に入った新兵の練習に付き合うらしい。nameは話もそこそこに、パンを詰め込み水で流し込むと慌ただしく行ってしまった。食堂のドアを閉めながら振り向きざまにこっちに手を振る。片手だけ挙げてこたえれば、弾けるような笑顔がnameに浮かんだ。彼女を見送ってしまうと途端に食欲が失せてしまったが、食べなければ夜までもたないので無理矢理にでも口に入れる。今日も山のような書類と夜まで向かい合わなければならないのだ。もそもそとしたパンは口の中の水分という水分を奪い、もはやパンではない何かを食べているような気分だった。上手くのみ込めずいつまでも喉の手前に居座るそれは、まるで自分の抱えた感情そのもので。空になったグラスにピッチャーからなみなみと水を注ぎ一気に煽る。これが酒だったらよかったのに。そんなことを考えながらテーブルの木目を指先でなぞった。
ひとりの部屋は静かだ。ペン先が紙を滑る音しか聞こえない。ため息でもつこうものならがらんとした部屋に、それはそれは盛大に響き渡る。
nameがミケの元にいるのは期間が決まっている。いずれはnameにも分隊長を任すことになるかもしれない。そういう時期が彼女にもやってきていた。対巨人における戦闘能力もさることながら、書類さばきもお手の物なのだ。加えて細やかな気配りもできるとあらば、周りからも彼女を分隊長にと推す声があがらないはずもない。けれど私としては、私情を抜きにしても敏腕なnameを自分の元に置いておきたかったし、なにより今現在既にたまりはじめている書類を前にげんなりしている自分がいるのだから、やはりnameを分隊長に据えることには不本意なのだった。当の彼女がどう思っているかを抜きにして。
飼い殺しだな。酒の席でリヴァイが言っていた言葉を思い出す。殺してやりたいぐらいさ、どこかへ行ってしまうぐらいなら。干し肉を噛みながら言った俺の些か過激ともいえる発言に、リヴァイは鼻に皺を寄せた。飼い殺し、か。
nameがいない部屋は普段よりも温度が低いように感じる。目の前の書類の減りの悪さなど火を見るより明らかだ。インクの染みを作って駄目にした書類を丸めて投げるも狙いはあえなく外れ、既にいくつもゴミ箱のまわりに転がっている同様のそれにぶつかり転々とするのみだった。
nameがいれば。目を閉じ背もたれに身体を預けながら思う。なにかと世話焼きで細かいnameのことだから、紙が勿体ないだの昨晩また夜更かしをしたのかだの目くじらを立てるに違いない。仕方ないじゃないかと私が困った顔を見せれば、熱い紅茶の一杯でもいれてきてくれるだろう。「貸しイチ、ですよ」と悪い笑みを添えて。
だめだな。ブーツがやたら窮屈だった。ジャケットは場違いに暑く感じたし、皮膚の感覚は妙にごわついていた。自分を取り巻くすべてが、少しずつおかしな方向にずれている。これはだめだ。立ち上がって窓をすべて開け放つ。青さを多分に含んだ風が頬を撫でて部屋の中に吹き込む。太陽の日差しの熱にまぶたを焦がしながら、私はジャケットを脱ぎ捨てて伸びをする。無性に煙草が欲しかった。もうずっと前にやめたはずだというのに。思い出すと、欲しくなってしまう。手元にないとわかるとなると、なおさらに。
日が暮れたのはずっと前だった。噛み合わない歯車を無理矢理動かし続けたせいで思考が全体的に軋んでいるのがわかる。こんな日はさっさと切り上げるに限るのだが、さすがにこの山積みの書類を前にそのような戯言は許されない。ゴミ箱のまわりには書き損じの紙屑が散乱し、書類の山は所々崩壊し、マグカップの底には乾いた紅茶(自分でいれた)が汚らしくこびり付いていた。
ガリ、という音とともにペン先が紙を破って、私は暗い部屋で頭を抱える。いいさ、別に誰も見てやしない。わざと乱暴に髪をかきむしって、ため息をつき顔をあげる。窓ガラスに映った自分の顔のひどさといったらなかった。
カーテンを閉めるのすら忘れていた。今更閉めるのも、そのために立ち上がるのも億劫だった。今すぐにでも熱いシャワーを浴びてベッドに飛び込みたかったが、その先にあるものはどうせ今日と同じ明日なのだと思うと全てがどうでもよく感じた。使命だとか、信念だとか、自分の核となっていたものが薄い膜の向こうにあるように感じる。こんなのはおかしい。nameがいないからというわけではなく、単に過労によって判断力が著しく低下しているのかもしれない。だとしたらやはり今日のところは仕事を切り上げた方が……。

「団長?」

疲労が作り出した幻聴と幻覚かと思ったが、目の前に立っているnameはどうやら本物らしい。「ノックしたんですけど返事ないから心配になって。勝手に開けてすみませんでした」両手を身体の前で組んでいるnameは、いつもの服装ではなく完全に私服だった。その無防備さに呆れそうになるが、私のおかれた惨状を理解したnameの顔が怒りの形相に変わるので、なんと弁明しようか思考をフル回転させねばならず呆れる暇は爪の先ほどもなかった。さっきまであんなにも粘ついていた脳内の歯車は今や高速回転で動き出し、目は冴え、手足の感覚はこれまでにないほど鋭敏だった。「name」彼女を呼ぶ。「name、name、name」立ち上がって彼女の元へ行く。「name、」腕を伸ばし、抱き締める。身体の中で渦巻いていた暗黒の泥濘が流れ落ちていく気がした。この変わりようは何だ。自分でもおかしいぐらいで、たまらずに笑えばnameが心配そうに見上げてくる。「働きすぎておかしくなっちゃいましたか?」手の平が頬に触れた。ぺたりと、湿っていてあたたかい小さな手。まるで無垢な子供の手だ。心配だなんて言いつつ、僅かに伸びた髭の感触をnameが楽しんでいる。

「name」

「はぁい」

はい、ではなく、はぁい、という返事の仕方に私はひどく満足する。間の抜けたような、甘えたような。「ミケと随分楽しそうにしているじゃないか」恨み事、あるいは悋気、その類。あまり自分の口からは出ない言葉たち。「ミケさん、やさしいですね」「ふむ。この状況できみはそれを言うのか」「だから団長ともうまくやってるんだな、と思って」「それはそれ、だ」右手で後頭部を包む。やわらかな唇を食む。吸って、舐めて、割ろうとしたところでnameの制止が入ってしまう。

「書類、崩れてますけど?」

「そうだな」

「そうだな、じゃないです」

するりと腕から抜けたnameは私の机の紙山をざっと見渡すと、迷うことなく片っ端から分類し山を作り直していった。その見事なさばきっぷりに見とれながら、けれど実際見ているのはnameの細い腰のくびれだとか髪から覗く白いうなじだとか、部下ではない彼女の女の部分なのだった。
窓の向こうの闇に月が出ていた。丸い月だった。nameはそれを背景にこちらを振り返る。「とりあえず今日はこれだけ仕上げましょう。手伝いますから」十数枚の書類を片手に首を少し傾げたnameの姿はまさに完璧だった。無欠であると、細胞の全てがこの部屋における彼女の存在を肯定していた。

「日付が変わるまでが今日という認識でよかったか?」

nameの手から書類を取り上げそのまま手首を掴む。押し倒したら怒るのだろう。ほら、段々眉間に皺が寄っていく。机に思うまま押し倒せば膨大な紙たちは散らばり、月光を跳ね返して美しく光るだろう。皮膚と骨と肉の感触。体温、肌のにおい、そしてnameの圧倒的な存在感が、迫りくる夜のしじまの中で発光しながら膨張してゆく。
今朝までのくだらない嫉妬心なんてもうどこにもなかった、また明日彼女の背中を見送ることになろうとも、今晩だけは私だけのものなのだ。沸き立つ欲望を指先に込める。薄皮越しに拍動を感じて、nameのことがたまらなく欲しくなる。近づいた鼻先。掠める吐息。

「こら!」

「何があろうと上官を叩くもんじゃない」

「上官?どこにいるんですかそんな人」

「そこまで言われる覚えは、」

この惨状だ。あるといえばあるのだが、さすがに私にもプライドというものが。拳を受けたみぞおちに手をあて言えば「エルヴィン」と名前を呼ばれて睫毛が震えた。歓喜のざわめきだった。「まずは仕事」そう言ってnameは私から書類を奪い返し、机の上に並べていく。「もう書き損じはやめてくださいね」「資源の無駄遣いです」「ペン先もこんなにして」「重要書類の端が折れてるんですけど」などなど。容赦ない攻めに私は一転、守備の体勢をとらざるを得なかった。

「お茶、いれてきます」

放置されたマグカップを手にnameは言った。しかし、その顔に薄く浮かんだ疲労の色を打ち消すように笑顔を作っているのは明らかだった。

「いや、いい。朝早かったんだからお前はもう部屋に戻りなさい。来てくれて助かったよ。それだけで十分だ」

「十分?そんなの書類を終わらせてから言ってください」

団長の監督も私の仕事なんです。ループタイの紐の端を握りしめたnameに「じゃあ頼んだ」と応えた私は多分不出来な上官だろう。「はい」と今度は確かな笑みを浮かべたnameの方がよっぽどできた部下だ。私にはもったいないほどに。閉まった扉の向こうで遠ざかってゆく足音にいつまでも耳を澄ませ、あと何時間で今日が終わるか時計に目をやる。よし、まだ大丈夫だ。机に向かいペンをインクに浸す。滑り出しは快調。あとはnameが戻るのを待つだけだった。
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