2018

(荒北と福富とちょっと新開と)


ローラーを回していると大抵、部屋の隅に誰かいる。誰か、というか、まあ、女が。その女は時々こっちへやってきて、必死こいて汗だくになっている俺の顔を下から覗き込む。何の感情もない目で。葉っぱの上を歩いている虫でも観察するような眼つきで。オレのローラーの脇にあるベンチで膝を抱えていたり、だっせぇ林檎の形をしたタイマーを壁から剥がして手の平で遊んだり。気が済むとまた部屋の隅に戻っていくこともあれば、部屋から出ていってドリンクボトルを抱えてくることもあった。そして気が付くといなくなっていた。新しい白いタオルを一枚、ベンチの上に残して。
はじめのうち、この女はオレにしか見えていないのかと思っていた。なぜなら部員の誰もがそいつの存在について言及しなかったからだ。でもオレを含めた皆がそいつの用意したドリンクを飲んだりタオルを使ったりしているので、どうやら妖怪やらお化けの類ではないらしい(アホか)。とはいえ聞くのも野暮な気がして、結局何も聞かないまま三日ほど経った。いつものようにローラーを使って練習しているオレのすぐ脇にしゃがみ込んだそいつは指先でオレの散った汗をつついていた。汚ぇ。いやオレの汗だけど、にしても普通んなことしねぇだろォが。つか普通ってなんだ。意識が朦朧として呼吸が浅くなる。2時間が経過したことを告げるタイマーが鳴ったのをぼんやりした景色の向こうに聞いていると、部屋の扉が開いて鉄仮面とニヤケガオが入ってきた。

「じゅいち」

白目をむきそうなほど疲れてぶっ倒れそうだったけれど、足元から聞こえてきた声に我に返る。「喋った?!」自転車から飛び降りてオレは女を指さした。女は俺のことなんて気にもしていないというふうに今度は「はやと」と言った。じゅいち、はやと。聞きなれないその2つの言葉はゲームかなにかの呪文みたいだった。遅れて入ってきたカチューシャに対して「とうどう」と言ったところでようやくその言葉と奴らの名前とが結びつく。

「んだテメ、喋れるんならなんで今までずっと黙ってたんだよ気味悪ぃな!」

「……」

何も言わずに女はオレを見る。真っ直ぐな視線に後退りしそうになった。

「nameは荒北くんに興味があるんだろ?」

「は?!……ハァ?!」

どういう意味だよ。新開は「あれ、そうじゃないのか?」と言って「寿一はどう思う?」と隣に立っている鉄仮面を見た。「さあな」鉄仮面は眉ひとつ動かさずに答えると「そうなのか、name」と足元で膝を抱えている女に視線を落とす。

「べつに」

女の名前はnameというらしい。nameはそっけなくこたえると立ち上がって部室から出ていってしまった。

「ちょ、テメっ、おい!」

「荒北、ローラーが終わったら次のメニューだ」

「がんば、荒北くん」

「っせ!つか、さっきの、」

説明しろ興味あるってなんだどう意味だヨ!怒鳴ろうとしたらダサカチューシャの睨むような視線とかち合ったのが癪だったのでオレは黙った。めんどくせぇ。オレは床に仰向けに倒れた。なぁーんも考えたくねー。三人がなにか話していたけれど、もうそれすらどうでもよかった。

毎日毎日ローラー漬けで、もういっそハムスターに生まれた方がオレは幸せだったんじゃねぇのか、実はオレは人間のなりをしたハムスターだったんじゃねぇのか、そんなことを思いながら休み時間の教室でだれていた。次の授業なんだったけか。つか、腹減ったな。黒板の横に貼ってある時間割表を見ようと顔をあげると席の前に誰かが立っていた。

「あらきた」

「っど、っだ、んだよ!つかテメ、なんでいんだよクラスちげーだろ、なんの用だよ!バァカ!」

「……」

勢い余って言いすぎた。馬鹿は余分だった。けれどnameは顔色一つ変えずに、オレの言葉に怒った様子も見せずこっちを見下ろしている。まばたきをするたびに睫毛の影が揺れていた。ただでさえクラスで浮いているオレの席の前に違うクラスの女が無言で立っているという異様な光景に、休み時間で賑やかなはずの教室はいつの間にか静まり返っていた。

「寿一が、授業終わったら教室きてって」

「なぁんでそれをオマエが言いにくんだよ!てめぇで言いに来いや鉄仮面!」

「寿一は今日忙しいの」

知るか!叫べば「じゃあね」とnameは言い残し、さっさと教室を後にした。クラスメイトの興味津々な視線をガンくれて一蹴してから俺は気が付く。

「つーか、鉄仮面あいつ何組だよ!言ってけバカ女ァ!」

机をぶっ叩いたところでチャイムが鳴った。

ローラーの練習時間が2時間から3時間に増えた。だから何だ。やってやんよ。ローラーを回している間、どうしても考え事をしてしまう。この前新開が言っていた。「変わり者が好きなのさ寿一は」という言葉。変わり者といえばあの女だ。鉄仮面と、そういえば新開のことも下の名前で呼んでいた。新開は鉄仮面とは付き合いが長いと言っていたが、だったらあの女もそうなのだろうか。東堂のことは名字で呼んでいるのだからそう考えるのが妥当だ。んだよ、仲よしこよしかよ。だりぃんだよ。つかよくよく思い返せばあの女も結構な鉄仮面ぷりだなオイ。
初めて出た二ノ宮ロードレース、オレは最後まで走り切れなかった。ぶっ倒れて回収されたオレに、新開は「おつかれ」と、鉄仮面は無言で肩を叩き、最後にnameが無言でボトルを渡してきた。労いの言葉が欲しいわけでもなかったし、ましてや労われる結果も出していない。だからそれでよかった。
次のレースに向けてオレは今まで以上に練習をした。とてつもなくハードだった。でも気持ちのいい疲労だった。前に進むために必要な努力。単純で明快なのは嫌いじゃない。そしてnameは相も変わらず部屋の片隅にちんまりと収まっていた。「あいつ、なんなんだよ」訊いたオレに鉄仮面は「マネージャーだ」と至極簡潔なひと言を寄越した。だろうな。つったって、あいつオレのローラー見てるばっかじゃねぇか。と心の中で思っていたことを見透かされたのか、「ああみえてnameは優秀だ」と鉄仮面は言った。どこから現れたのか、新開までやってきて「昔から、な」と鉄仮面を肘で小突いた。仲よしこよしはキメェしうぜぇ。そう叫べば新開が笑った。「気の置けない友達ってのも、いいもんだよ」なぁ寿一。片目をつぶった新開に鉄仮面は相好を崩さず「ああ」とだけこたえた。
東堂の一方的な話を聞きながら紙になにかを書きつけているnameは、オレたちの話が聞こえてるのか聞こえてないのか、ちらりともこっちを見なかった。
そしていよいよ真鶴のロードレースを迎える。前日、はやく切り上げるつもりがやめ時を見失い、オレは最後まで残ってローラーを回していた。nameの姿はなかった。外はもう暗くなっていて、あたりはしんとしていた。窓ガラスの向こうにぼやぼやと光る外灯を見るともなく眺めながら、オレはひたすらペダルを回した。鉄仮面とふたりで優勝を狙う。優勝を、ゴールを。目を閉じて想像する。自然と回転が速くなる。鉄仮面がオレの背中を押す。ペダルを回して回して、回す。オレはゴールに飛び込んでゆく。ぶわ、と全身の毛穴が開いた気がした。息が苦しくて目を開けるとそこにはnameが立っていた。驚きのあまり、オレは声にならない声で叫びながらひっくり返った。

「っぶねぇーなァ!おどかすんじゃねぇーよ!ビビんだろうが急に!」

ひんやりとした床の上、肩で息をしながらnameを見上げれば、ショートパンツと太腿の隙間に視線が吸い込まれそうになって慌てて目を逸らす。

「ごめん」

「ア?……いや……おう」

まさか素直に謝られるとは思っていなくて調子が狂う。顔を覗き込むnameは眉を顰めてオレの頭のてっぺんからつま先までを観察している。「怪我、してない?」その声がいつもと違って不安そうだったので、自分が悪いわけではないのに「してねぇよ」とこたえた声はしんとした部屋にバツが悪く響いた。どっと疲れた気がして大の字に寝転ぶ。倒れた自転車を直して、nameは何やら鞄をごそごそとあさっていた。かと思えば膝にピリリと小さな痛み。「んだぁ、痛ェよ」顔だけ上げて見てみれば、昨日貼った絆創膏がはがされていた。「とれかけてた。新しいの、これ」nameはぺたりとオレの膝に自分の絆創膏をはり直す。膝の皮膚にやわらかく触れたnameの指先の感触に内心どぎまぎしつつ、そんなのは絶対に悟られてはならないと努めて冷静を装って「どうも」と手短に礼を述べた。

「ってコレ可愛すぎじゃなァい?!」

膝に貼られた絆創膏、色は黄色でデフォルメされたライオンの顔が描いてある、を目にして俺は仰け反った。「こっちに替える?」そう言って今度は水色の象の描かれた絆創膏を取り出すname。勘弁してください。オレは立ち上がって尻を払う。nameはしゃがんだままオレを見上げる。

「練習、終わりにするわ」

「……うん」

「つか、なんで来たんだ。忘れもんか?」

こんな時間にここに来るなんて、それ以外にないだろう。けれどnameはまたいつもの乏しい表情に戻って首を横に振った。「まぁ、いいけどヨ。なんでも」汗を拭く。早く帰れよ真っ暗だぞ。顎で外を示せばnameは視線だけでそれを追った。

「あらきた」

「んだよ」

「明日、頑張れ」

立ち上がってnameは言った。そして剥がした方の絆創膏を丸めてごみ箱に捨てると、「じゃあ」と手も振らずにオレに背を向けて部室を後にした。愛想ねぇ女。わざと心の中で悪態をついた。そうでもしなければきっと軽々しく「おうよ」とかなんとか言ってしまいそうだったから。「言われなくても頑張るっつーの」ようやく口に出して言ったのは、nameの気配が消えてしばらくたってからだった。
そして翌日、オレは初勝利を手にした。高揚した気分を抱えたまま休日を過ごし、そして月曜日の放課後。廊下で絡んできた新開と一緒に部室へ向かうと入り口の脇にnameが立っているのが見えた。膝に貼ってもらった絆創膏に意識がいく。汗で落ちてしまうかと思いきや、そのファンシーな見てくれに反していまだしっかりと貼りついていた。風呂に入るとき、心なしか膝まわりを避けて洗ったおかげかもしれない。いや、おかげってなんだよ。

「よ、name」

離れたところから片手をあげた新開をガン無視してnameが大股でこっちに向かってくる。オレの真ん前で立ち止まると俯いていた顔をあげてオレを見上げる。鉄仮面女は怒っていた。明らかに怒っていた。普段は結ばれているだけの唇はぎゅっと硬く、眉間には深い皺、そしてちいさな握りこぶしがふたつ。「んだよ」ガンを飛ばせば負けずとnameも顎をあげた。「おいおいどうしたname」新開はまたしても無視された。てっきりおめでとうとかなんだとか、ささやかな笑顔でも添えて言ってもらえるんじゃなかろうかと淡い期待を抱いたオレが馬鹿だった。しかしどうしてこの表情。釈然としないまま、けれど一向に口を開かないnameとこのまま向かい合っていても埒が明かないためオレは左に一歩ずれて足を踏み出す。

「ふくちゃん」

「あァ?」

オレは福ちゃんじゃねぇーヨ。それとも後ろから福ちゃんが来たのか?振り返ろうとしたら部室の扉が開いて福ちゃんが顔を出す。それを見るや否や新開は福ちゃんに駆け寄ると、「nameがおかしい」と慌てている。む、と眉だけを動かして福ちゃんがオレを見るけれど、実際問題オレもどうしてこいつが怒っているのかわからないのだからそんな目で見ないでもらいたい。

「福ちゃんって、なに」

「福ちゃんは福ちゃんだろ」

わっけわかんねー。まぁじでなに怒ってんだよ。めんどくさくなったオレは頭をかく。「福ちゃーん、こいつどうにかしろよォ」nameの頭越しに福ちゃん(と新開)に助けを求めるけれど、ふたりは遠巻きにオレたちを見ているだけだった。もしかしてこれはヤバい状況なのでは……?オレがこいつを怒らせたと思われているのでは……?

「おい、まぁじでテメェ、」

「福ちゃんって、福ちゃんって、なに」

いやだから。あ、あ……もしや、これはもしや。疎い俺ですらピンと来た。こいつ多分。

「オレが福ちゃんって呼んでんのが気にくわねぇんだな!」

人差し指でnameを指さしてどや顔してやると、nameは無言であれこそすれ「はいそうです」という表情で唇を噛んでいる。

「べ、べつに」

「おーおーわかった。だったらテメェも福ちゃんって呼べばいいじゃねぇか」

にやにやしていると、距離をとっていたふたりに加えていつの間にか現れた東堂までもがこっちに向かってきた。nameは眉間の皺を最大限に深くして思案している。「ほらほら、福ちゃんこっちくんぞォ」「寿一より福ちゃんのほうが言いやすいぜェ」とかとか。nameがなにも言わないのを良いことにからかってやる。「どうした」ようやくやって来た福ちゃんの背後には不安そうな新開と野次馬根性丸出しの東堂。

「言っちまえ。一回言えば楽になるぜェ」

「……」

「まさか照れてるとかァ?」

福ちゃんと向かい合ったnameは福ちゃんの胸のあたりを睨んでいる。瞬きをするたびに背負った気迫が増していた。そして頭のまわりに?マークが回っている福ちゃん。顔をあげたnameは唇を緩めて「ふ」の形にしたりまたぎゅっと結んだり、その繰り返し。それも、鉄仮面女のくせにその辺の女子みたいに顔を赤くして。「や、靖友、あんまりnameをいじめるのは……」新開が言い掛けたのと、振り返ったnameが流れるような右フックをオレのみぞおちに叩き込んだのと、東堂の目が興奮に輝いたのとはほぼ同時だった。「ぐお、」華麗に決まった拳の衝撃にオレは前のめりになった。nameは踵を返して全力でどこかに走り去った。「あちゃー」新開が額に手をあてる。「なんだなんだ、どうしだのだ」首を突っ込みたくて仕方がない東堂に、呆気にとられたままの福ちゃん。

「これは追いかけて謝った方がいいと思うよ、靖友」

「は……ハァ?なんでだヨ、オレは別に……」

まぁ確かに悪ノリしすぎた感は否めねぇケド。しらを切り通そうとしたけれど、新開にがっちり肩を掴まれてそうはいかないらしかった。ち、と舌打ちをしてオレは渋々nameを探しに行く。福ちゃんを前にして顔を赤くしていたnameの姿が妙に生々しく脳裏に焼き付いていた。部室から少し離れた建物の裏手で膝を抱えているnameをみつける。かくれんぼをしているみたいだった。nameチャン見ーつけた。オレは心の中で指をさす。さて、なんて言おうか。向かう足取りは徐々に重たくなるけれど、オレが怒らせたのは事実なのだから謝るべきなのだろう。当初の彼女の怒りの原因がただの言いがかりだとしても。

「おい……なぁ聞こえてっか?おーい」

なに。伏せていた顔が上がる。目元が赤いのを見てオレはさっきの覚悟なんて忘れたように後退る。泣いてた、とか。「泣いてない」ぶっきらぼうに言った声は明らかに鼻声だった。マジか、マジか。「スミマセンデシタ」片言みたいにオレは謝る。nameは何も言わなかった。これまでずっと(といってもそう長いあいだじゃねぇけど)ほとんど変わり映えのしない表情しか見てこなかったのに、今日だけでコイツのできうるすべての顔面の動きを見たんじゃないかというほどだった。

「寿一は寿一なのに」

「……」

「福ちゃんって誰、知らない」

お、おう。立ち上がったnameの気迫に押されてオレは唾をのみ込む。こいつの中では福ちゃん≠寿一らしい。うん、わからん。じりじりと詰められる間合い。

「いいじゃねーか、細かいこたぁヨ」

「あらきたにはわかんないよ!」

きらいだ。そう言うとnameは小さな肩を落としてとぼとぼと部室の方向へ歩きだす。なぁ、お前あれだろ、オレに福ちゃんとられたって思ってんだろ。ガキじゃあるまいし。哀愁漂いすぎだっつの、ハハ。オレは笑ってnameの背中を追いかけた。「福ちゃんのこと好きすぎだろ」「好きだよ、大好きだよ、悪い?」「悪かねぇよ」「うるさい」「ッは、福ちゃん愛されてんなぁ」「えっ……」「ちげぇよ、オレのはそう言うんじゃねぇよバァカ」「……」「その目ェやめろ!」「なんか馴れ馴れしい、やだ、あっちいけ」「やーだネ!」「えっほんとにやだ」nameは本気走りで部室に駆ける。「寿一、隼人、変質者が追いかけてくる助けて」「オイ!」nameの声に勢い良く開いた部室の扉から福ちゃんと新開が顔を出す。


「やすとも」

「おぅ。……おぉ?!」

「靖友、よかったな」

次の日、ローラーを回しているところに入ってきたnameと新開。昨日のことなんてなかったようにnameは普段通りの鉄仮面っぷりでオレを呼んだ。ただし、名前で。危うくまた転げ落ちるところだったのをすんでのところで踏みとどまる。「お、いいねぇ」新開が片目を瞑った。さてはてめえの差し金だな。

「てめ、勝手に下の名前で、」

「いいじゃないか靖友」

「てめぇもだよ新開」

噛み付けども新開はそ知らぬふりだ。nameも既に背を向けて準備に取り掛かっている。「寿一大好き同盟、だな」新開の言葉に「ちげぇよ!」とオレが叫んでnameが嫌そうな顔で振り返るのは同時だった。視線が合って、互いの眉間に皺が寄る。「喧嘩するほど仲がいい、ってな」歌うようにして言いながらさっさと部屋を後にしてしまう新開を今ほど引き止めたいと思ったことは無かった。

「寿一が靖友のこと好きなら私も好きだよ」

しばらくしてnameが言った言葉の唐突さ。

「主体性ねぇーなぁオイ」

右目を細めてオレは手の甲で汗を拭った。
ライオンの絆創膏はすでに剥がれかけているけれど、まだとってしまう気にはなれなかった。
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