2018

痛い。そう思った次の瞬間には指の先に血が滲んでいた。
ロッカーの部品のバリがささくれだっていたところに引っ掛けたようだった。ティッシュ。部室のテーブルに置かれたティッシュ箱に手を伸ばしたら、ちょうど扉を開けて入ってきた御堂筋くんに手首を掴まれた。

「なに、これ」

「ロッカーの、あそこのとこで切れちゃった」

「あ、そ」

れろ。御堂筋くんの長い舌が私の指に巻き付いて、身体がこわばった。「あ、え……っと、き、きたない、よ」どもりながら言うそのあいだにも柔らかな舌は私の指に絡んだままだった。

「血ぃの味がする」

表情のない顔。腰から上を下げているせいで、目線は私よりも少し下だった。呼吸が聞こえそうなぐらい間近に顔が近づいて、御堂筋くんが眉間に薄く皺を寄せているのが見えた。

「気ぃつけなあかんよ」

わかった?ぱかりと口を開けて御堂筋くんは言うと私の指から口を離した。うん。そう言ったつもりだったのに声は喉に張り付いて出てこなかった。こくりと頷いた私を横目で見ると、御堂筋くんはロッカーを開けて鞄をしまう。

「鈍くさいの、見ててほんま苛つくわ」

「ごめん」

ええけど、別に。御堂筋くんはシャツのボタンを外す。なんでごめんなのかよくわからなかったけれど、沈黙が痛かったから私はまた「ごめん」と繰り返した。でもそれは御堂筋くんには受け取ってもらえず、ふわふわと部室を舞うほこりと一緒にしばらく空中をただよっていた。
いたたまれなくて突っ立っていると、御堂筋くんがぐるりと振り返る。その右手には絆創膏がひとつ。腕が長いから、私と御堂筋くんの間に不思議な距離が生まれている。
「あ、ありがとう」両手を広げると、はらりと落ちてきた。「キモ」絆創膏をつまんだままの恰好で言うと、御堂筋くんはまたロッカーに向き直った。彼からおくられる小さな優しさに感謝や同じく優しさを返すと、御堂筋くんは不機嫌さを見せる。
着替えているところを見るのも失礼だし恥ずかしいので、少し早いけれど私は部室を出て部活の準備に取り掛かることにした。
御堂筋くんの鞄の中に入っている絆創膏やハンドクリーム、黒い手袋のことを思うと不思議な気持ちになる。そういうものたちをひとつひとつ、鞄の中の小さなポーチに入れている御堂筋くんの丸まった背中。几帳面。何事にもそうだ。教科書とノートをきちんと重ねて机の右上に置くところ。消しゴムの消しカスは床に捨てずゴミ箱まで捨てに行くところ。ハンカチはきちんとたたんでポケットに入れているところ。
教室での御堂筋くんは少し小さく見える。自転車に乗ってる時の縦に横に伸びる感じとは真逆で、こじんまりと背中を丸めている。クラスのみんなはあまり御堂筋くんに近付かない。友達が言うには「なんかヤバそう」だかららしい。否定はできないけど、でも、良いところだってあるのにな。
ストップウォッチと自分のタオルを取りに部室へ戻ると、御堂筋くんの姿はもうなかった。代わりに石垣さんがいて、「指、なにしたん?」と聞かれたので説明した。

「そら危ないな、どこや?」

ここです。と私はロッカーに指で触れる。

「あれ……なくなってる」

確かにここだったのに。困って石垣さんを見上げれば、部室の扉が勢い良く開いた。

「石垣くん、練習はじめるで」

扉の外が眩しくて、御堂筋くんはまるで影絵みたいに私の目に映った。

「name、お前もや」

はよ来ぃ。言い捨てて御堂筋くんは石垣さんを従え行ってしまった。

「……ごめん」

長く伸びた御堂筋くんの影の頭の部分を捕まえて、私はお決まりの言葉をまた口にした。
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