2017

薄暗いバーのカウンターでチョコレートをつまむ。デートの相手は電話がかかってきたからと外に出てしまった。
彼が出る際に空いた扉から冷たい空気が入ってきて、私はそれで気持ちが白けた。マナーモードにしときなさいよ。頬杖をついてひっそりとため息をつく。アルコールのおかわりをもらおうとした時だった。
視界の端に見慣れた色の髪が揺れる。いや、まさか、そんな。ちらりと横目で見れば、二つ席を挟んだ向こうにいたのはやはりあの男だった。生意気にもスーツなんか着て、馬鹿みたいに大きな声のボリウムは最小に絞って、腹が立つほど綺麗な手は私の知らない女の腰に回されていた。最悪、最悪、最悪!マスターに向かって上げかけていた手を降ろして彼らとは逆の方を向く。不自然にならないように、あくまでも自然体を装って。大丈夫、気付かれてはいないから。
ボソボソと話しているため内容までは聞こえない。違う違う。聞こうとしているんじゃない。あくまでも、耳に入ってくるだけなんだから仕方ない。
ほとんど空になったグラスを撫でる手が心なしか汗ばんでいる気がする。時折聞こえてくる女の笑い声が「ふふ」とか「うふふ」とか、口元に手を当てて、いかにもといった可愛らしさなのが癪に障った。おいおいスクアーロよ、お前はそんな子うさぎみたいな女がタイプなのか。それは初耳だよスクアーロ。あとでベルに愚痴る。そしてボスに一発ワインボトルブチかましてもらう。内心毒づきながら残りのアルコールを舐めるようにして飲み干した(ほとんどが氷の溶けた水だった)。
いや、私の相手はどこに行ったんだ。女を置いて長電話なんかするか普通。募る苛立ちについ膝を揺らしていると、子うさぎ女が席を立ち私の後ろを通って行った。ふわりと香る柔らかな匂い。
これは完敗だ。私の中の私が両手を上げて首を振る。いやいや完敗って、別に競う必要なんてないし。関係ないし。もう、スクアーロと私は、ただの同僚なだけだし。事実の再確認だけだったはずなのに、眼の奥が熱くなる。
彼女を待つスクアーロがどんな顔をしているのか気になったけれど、どう頑張っても彼のいる左側に視線を向けることができなかった。
やば、泣く。焦って唇を噛んだところでカウンターに置いておいた携帯が鳴った。マナーモードするのを忘れていたせいで着信音が鳴り響く。それと当時に「はぁ?」と素っ頓狂な馬鹿声が上がり静まり返る店内。慌てふためく私の手から床へと滑り落ちた携帯からは、ジョーズのテーマソングが延々と流れていた。

「name?なんでお前がここにいんだぁ?!」

「やっ…こっ、そっ、それはこっちの台詞なんですけど?」

若干声が上ずった気がしなくもないが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。

「てか、なんで電話なんかかけてくるわけ。むしろかけてこないで」

「お前の都合なんて知るか!仕事のことなんだから仕方ねぇだろうがぁ」

「仕事でもなんでも、金輪際私に連絡してこないで!ていうかこんな場所で仕事の電話しないでくれる?」

「馬鹿言ってんじゃねぇ!連絡不行き届きで俺がボスに殺されちまう」

「上等!殺られろ馬鹿鮫!」

「う゛お゛ぉぉいname、口が過ぎるぞぉ」

あんたこそうるさい!そう言おうと口を開きかけた私は、直ぐ後ろでぽかんとした顔で立つ彼(いつ戻っていたのだろうか)に気が付いた。

「あ、えっと、電話、もういいの?」

「うん……。彼、知り合い?」

額を突き合わせるようにして睨み合っている私とスクアーロを交互に見ながら彼は訊いた。「違う!」と同時に首を振る私達に、何事かと成り行きを見守っていた店の客達から笑いが上がる。

「name、お前こんななよっちい男が趣味だったとは知らなかったぜぇ」

「はぁ?あんたこそあんなこれぞ女の子!みたいなのがタイプだったとはね。今まで散々……」

墓穴を掘った事に気が付いたけれど時すでに遅し。今しがた電話から戻ってきたと思った彼は、明らかに沈黙している携帯を耳にあて、私に向かって片手を上げると足早に店を出て行った。なんて最悪な夜!そしてスクアーロの相手は全然帰ってこない!そうよ、今まで散々私に「俺にはお前しかいないぜぇ」とかなんとかほざいていたくせに!私はあんなお花摘みに行ってきますうふふ、みたいな女とは真逆だっていうのに!折角いい男と付き合える(かもしれない)チャンスをぶち壊された私は歯軋りしかねない勢いで呪いの言葉をスクアーロに吐いた。

「私の趣味なんてあんたに関係ないでしょ!最っ低。もう帰る」

「う゛お゛ぉぉい待てぇ、泣いてんじゃねぇよ」

「泣いてない!」

お釣りはいらないとありったけの紙幣をせめてもの迷惑料としてマスターに渡すと、私は大股で店のドアに向かう。その時トイレへ向かう通路の影で、スクアーロの連れてきた女が他の男とキスをしているのが目に入った。マジか。人は見かけにはよらないとはまさにこれか。ドンマイスクアーロ。いや、ザマァみろ、か。この事を言おうか言うまいか逡巡していると、後ろ手を掴まれた。

「悪かっ、た……」

言い終わったのと同時に私の視線の先に気が付いたスクアーロ。絶句する彼の腕を引くのは私の番だった。ドアを開ければコロコロとベルの音。身を切るような真冬の寒さに私達は肩を竦めた。

「あんたのせいで散々なんだけど」

「全くだぜぇ」

「はぁー折角いいとこまでいってたのにな」

「おいおい、いいとこってどういうことだぁ?」

「だからスクアーロには関係ないって言ってるでしょ」

「関係ある」

はぁ?と語気も荒く反論しようと見あげれば、唐突に唇を塞がれた。触れる鼻先が冷たくて、自分を包み込む懐かしい香りに涙が込み上げた。

「も、やだ……っ」

「嫌もクソもねぇ」

胸板を押し返してもびくともしない。どころか苦しいほどに抱きしめられて、どうしていいかわからなかった。
勢い余って別れると言い出したのはどっちだっただろう。そしてこんな仲直りは何度目だろう。罵詈雑言を尽くしても、結局離れられずに元の鞘に収まるのだ。例え他の男と関係を持とうとしても、スクアーロだったらこうだったのに、とか、スクアーロとは違ってなんだかなぁ、とか。そんな風に比べては彼の良さを再確認してしまう自分は本当に救いがたいと思うし、どうやら同じ様を呈しているスクアーロも大概なのだ。当て馬にされた方はたまったもんじゃないよな、なんて時々二人で話すぐらいなのだから、きっと私達はろくな死に方をしないだろう(まぁ稼業も稼業だし)。

「結局これかー」

「わかってただろ」

「今度こそはって思ったんだけどな」

「う゛お゛ぉぉい、そんなに俺と離れてぇのか?!」

「……ううん」

「即答しろよ!」

「好きなのかなぁ」

「そろそろ認めちまえよ。楽になるぜぇ」

「そっくりそのままお返しするわ」

お前は俺から離れられねぇんだよ。小さな笑いを含んだその言葉に、悔しいながらも私は頷く。スクアーロの癖にそんなきざなセリフぶっ込んでくるなんてズルい、ズルすぎる。でもきっとそうなんだろうな。チラチラと雪の舞い始めた夜の空を見上げながらぼんやりと思った。

「まぁ、俺もお前から離れられねぇけどよ」

「はいはい」

小突き合いながら止めてあったスクアーロの車に乗り込む。低く唸るエンジンの音。車体の振動。まだ暖房の効いていない車内は吐く息が白かった。シートベルトを締める私にスクアーロが覆いかぶさり再び唇が重なる。シートを倒したさそうにする彼の腕を掴んで舌を絡めた。アジトまでは車で30分ほど。それまでの間私に焦れればいい。コートを脱ぐ事さえままならず、絡まるようにベッドに倒れこむであろう私達の朝は果てしなく遠いに違いない。

【無くなってもいいなら泣くなよベイビー】
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