2017

長谷部がうるさくて、長谷部に怒られて、長谷部、長谷部……。俺の部屋にやってきてもう何度その名をnameの口から聞いただろうか。

「文句があるなら本人に言え」

「やだよ拗ねるもん」

「俺に言われても困る」

ほんの気持ち強まった語尾を誤魔化すようにため息をついた。何かやることがあればいいのだが、生憎今日は非番だった。部屋の掃除も済ませたし、刀の手入れも終わってしまった。台所で夕飯の仕込みをしているであろう燭台切の所へ行こうかとも思ったが、珍しく自分から来たのかと面白がられるのも面倒だった。
結局することもなく、nameの話を聞く羽目になる。

「でね、長谷部が、」

「おい、もう長谷部の話は飽きた」

「えー」

これほどまでに愚痴を垂れられる長谷部を少し不憫に思うが、こうも他の男の名前ばかりを口にされると。

「妬ける?」

好奇心の入り混じった顔が近づけられた。見掛けによらずこの女は意地が悪いのかもしれない。
nameの形のいい唇に視線を向ける。華奢な首が目に入った。髪はひとつに、ゆるく結ばれている。
結わえているのはこの前引きずられるようにして着いて行った万屋で買ったものだった。どれがいいかとしつこかったから、一番無難そうなものを指差した。無頓着な自分に何故選ばせるのかと訊いたがはぐらかされた。帰り道、俺の手をとったnameは「大倶利伽羅のことが好きだから、選んで欲しかったの」と風にさらわれそうな声で言った。俺はなんと言えばいいかわからずに、ただフンと鼻を鳴らすことしかできなかった。
それ以来nameは髪を結んで俺の部屋にやってくる。普段は降ろされている髪に隠れているうなじの目映さを知っているのはもしかしたら自分だけかもしれない。自惚れだろうか。

「嫉妬する理由なんかない」

今度はnameの小さな鼻先を見ながら「俺には関係ない」と言った。nameが少し悲しそうな顔をしたをような気がした。

「嫉妬してよ」

「断る」

「うーん、残念」

「……」

おどけたように眉を上げ、降参とばかりに畳に仰向けに転んだnameはしばらくの間足をばたつかせていた。

「私のこと嫌い?」

「なんとも思っていない」

「えっそれはさすがに傷付く」

心底悲しいといった表情を大袈裟に作って言うと「嫌いじゃない?」と続けた。

「あぁ、まぁ」

「じゃあ好き?」

腹ばいでにじり寄ってきたnameは目を輝かせている。どうしてこうも前向きな思考になれるのか。こうでもなければ審神者は務まらないのだろうか。そんなことを思いながら面倒になって曖昧に頷けば、顎の下辺から抱きつかれ、勢い余って押し倒さる。

「ねぇ、私がどれだけ大倶利伽羅の事好きか教えてあげる」

「だから、断るとさっきから言っている」

顔をそむければ両手で頬を挟まれた挙句、真正面を向かされた。

「私の目を見て言って」

「っ……離せ」

じりじりと近づいてくるnameの顔。息が肌をくすぐる。居心地の悪さに見をよじったが、かえってこちらが組み敷くようなおかしな体勢になってしまった。
人間の女というものはこんなにも小さくて脆そうな生き物なのだろうか。いたって強気な態度のnameでさえ、腕に力を入れればたやすく壊せてしまえそうだった。
嫌いかと言われれば、それは明らかに違うと思う。が、好きかと聞かれたら。そもそも好きとは何なんだ。人の持つ感情というものが、未だに俺にはよくわからなかった。

「ごめん、やりすぎた」

視線を俺から逸らし、nameはするりと腕の中から抜けだした。「戻るね」と言った声は少しだけ寂しそうに聞こえた。
そんな顔は見たくないが、そうさせたのは俺だった。ちらりと見えた髪の結び目に罪悪感が胸をよぎる。
「好き」についてはよくわからない。だがこいつの悲しい顔は見たくない。普段の馬鹿みたいな笑顔がnameにはお似合いだ、と思う。
自分でも気が付かないうちに俺はnameの手を掴んでいた。驚いた表情でこちらを見るnameに、しかし何と言えばいいのかわからずに手を離してしまう。

「なに?」

「……俺の部屋で、これ以上長谷部の話をするのはやめろ。するならもう来るな」

「えっと、」

「あと、その髪留めは、良い」

先走った言葉はまとまりなく口から飛び出していった。撤回するまもなくnameが噴き出す。そして「なにそれ、おかしい」ころころと笑いながら腰を下ろし、ここぞとばかりに引っ付いてきた。

「ごめんね、わざとだよ」

「あの小うるさい顔を逐一思い出すと疲れる」

「それはひどい」

「だから、やめろ」

「はい」

素直に頷いたnameの頭に顎をのせる。ちょうどいい具合の高さにあった。ふわりと香る花に似た匂い。いつからだろうか、この香りを嗅ぐと心が落ち着くようになったのは。

「もし口が滑ったら塞いでね」

こうやって。掠め取られた唇。触れたのは一瞬だけだったにもかかわらず、熱は一向に消える気配を見せなかった。背を向けて腕の中で小さくなったnameの白いうなじが、ほんのりと朱に染まっていた。それを綺麗だ、と俺は思う。同時に、自分以外の者に見せたくはないとも思った。
「好きだよ、大倶利伽羅」何度となく聞いた言葉が、初めてしっくりと馴染むような気がした。

【つたないボレロ】
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