2017

昨晩積もった雪のせいで山も麓も、あたり一面白銀の世界が広がっていた。裸の木も伊吹の山から吹き降りてくる冷たい風に縮こまっているように見える。
本丸を出たところに立つこの桜の木は私の特等席だ。近江の湖も、伊吹の山も、それどころか秀吉さまと半兵衛さまのいる大阪のお城だって見えそうなこの場所。

「name」

下から声がする。見下ろせば三成が立っていた。

「左近が探していた」

「もうちょっとしたら行くよ」

「早く降りろ、風邪をひく」

不機嫌そうに言う三成の唇は、寒さのせいかいつもより血色が悪いように見える。

「三成ものぼっておいでよ」

「私は今貴様に降りろと言ったはずだが」

苛立ちを含んでいるけれど、怒っているわけではない。彼が短気であることには間違いないのだけど。まあまあ、と言って手招きすれば、暫く考えたあと渋りながらも木を登る三成。

「空気が綺麗だからよく見えるね」

「寒い」

「大阪もたくさん降ったのかな」

「どうだろうな」

そう言って三成は遠く大阪の方角を見つめていた。
振り返って少し目線を下げれば私達の育った村があった。小さな村だった。家々の屋根はすっぽりと雪に覆われ、八幡神社や観音寺もこんもりとした白い装いになっているのが彼方に見える。
昔はこんなふうに三成と木に登っていたっけ。嫌なことがあると私達は決まって木の上にいた。私だけの時もあれば三成だけの時もあった。もちろん二人の時も。
親のいない私も、家族から疎まれ寺に預けられていた三成も、ある意味で似た物同士だったのかもしれない。
村の人々に天狗の子ではないのかと気味悪がられていたことも知っている。けれど口を引き結んできらきらと光る湖に沈む夕日を見据えるしか、感情を昇華する方法知らなかったのだ。
三成と過ごせたこと、寺の和尚さまが優しかったことぐらいしかいい思い出はなかったけれど、やはり秀吉さまと半兵衛さまと一緒に過ごした長浜の城の近くに三成が城を構えることができてよかったと思う。長浜には幸せな思い出ばかりが溢れているから。きっとそれは三成も同じはずだ。

「何故ここにいた」

三成は私を見ずに訊く。昔、お寺の銀杏の木の上で三成の手をとった時、あまりの冷たさに私はびっくりして息を呑んだ。血の通った人間のものとは思えずに、必死に自分の手であたためてあげたのだった。
そんなことを思い出しながら三成の手を握る。相変わらず冷たい手。寒いからとかそんな理由ではなくて、この男の手はいつだってひんやりとしている。
自分に触れた肌の感触を確かめるように手を握り返してきた三成は、質問に答えない私に訝しげな顔を向けた。
そういえばあの時もそうだったっけ。何度も両手で三成の手を擦る私を、三成は変なものでも見るような眼つきで見ていた。その全くの変わらなさが面白くて、つい笑いが漏れる。そんな私に「なにが面白い」と鼻を鳴らして三成は目を伏せた。

「景色が綺麗かなって思っただけ。別に、心配するようなことはないよ」

「……心配などしていない」

「うんうん知ってる」

あはは。笑い声はびゅうと吹いてきた空っ風にさらわれていった。身を切るような寒さにぴたりと体を寄せる。触れ合った部分があたたかくなるわけではないが、風よけ程度にはなるだろう。

「私を風よけにするな」

「ばれたか」

舌を出しておどければ三成に手を引かれる。

「いい加減寒い。戻るぞ。何度も言わせるな」

「はーい」

流石に寒さも限界だったので素直に返事をした。「だったら初めからそう言え」とでも言いたげな三成の、寒さでほんのり赤くなった鼻先に触れると、思い切り嫌そうな顔をして指を掴まれた。

「鼻、赤い」

「貴様もだ」

おそろいだね、と笑うと「馬鹿馬鹿しい」と返された。

「あ、また降ってきた」

ちらちらと舞い始めた雪は大きなぼたん雪だった。静かに、辺り一帯の音を吸い込んで降り積もってゆく。鳥の声すら聞こえなかった。太陽も鈍色の雪雲のむこうに姿を隠し、時折切れた雲の隙間から薄い陽の光が差し込む程度の明るさしかない。別の世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えた。

「景色が見たいのなら天守に行けばいい」

「天守、かぁ。三成が城持ちになるなんてね」

佐和山の城から眺める城下の景色は確かに素晴らしいと思う。見かけは冷たくとも善政を敷く三成のおかげで近江の国は賑やかい。何も持たない小さな握り拳にいつしか刀を握りしめ、そしてここまでやってきた。そんな三成を私は心から誇らしく思う。

「秀吉さまから賜った城だ。私のものではない」

そう言ったものの三成の表情は嬉しそうだった。それもそのはず、命よりも大切な秀吉さまに使えることを無上の喜びとしている彼が、主に認められた証なのだから。
豊臣が在り、そして三成が隣にいればきっと大丈夫。曇りのない眼で前を見据える三成を私は見上げる。昔は同じぐらいの背丈だったのに、いつの間にこんなにも上を向かなければ目を合わせられなくなったのだろう。
近いのに遠いような気がして時々寂しくなってしまう。そんなことを言ったら「戯れ言はいいから働け」と一蹴されるに決まっているから言わないけれど。

「さ、早く戻ってお汁粉でも食べよー」

「朝も食べていなかったか」

「朝は朝、昼は昼!三成はお餅ふたつね」

「要らん」

フンと鼻を鳴らして三成はひらりと身を翻す。残された私は繋いでいた右手を降る雪にかざした。雪が触れるたびに微かな冷たさを肌に感じるが、どれも一瞬で小さな水滴に変わり体温に馴染んでしまう。胸の奥でしこりとなって消えない不安も、この雪とおなじように溶け消えてくれたらどれだけいいだろう。閉じた瞼をひらひらと雪が掠めていく。

「何をしている、置いていくぞ」

三成の声に我に返れば、私を見上げる三成と目があった。「早くしろ」三成はいつも私に言う。そんなに急かさなくても私はどこにも行かないのに。
三成も心のどこかで不安なのだろうか、私がいなくなってしまうことが。
深呼吸をし、そんな考えを振り払うようにして思い切り飛び降りる。ぐんぐんと近づいてくる地面。

「name……ッ!貴様……」

ぼすん、という音とともに私の身体を受け止めた三成ごと雪の中に沈み込む。二人とも雪まみれになっていた。

「さすが三成、信じてたよ」

「いい加減にしろ!」

眉を釣り上げた三成の、長い睫毛の先で雪の粒がきらめいていた。

「退け、邪魔だ、重たい」

「重たいは余計じゃない?」

「そう思うのなら甘いものばかり……」

「あれーよく聞こえないなー雪が耳に詰まったかなー」

「ならば掻きだしてやる」

退けと言いながら私が退くのを待っているし、掻きだしてやると言いながらその手は私の頭についた雪を払っている。ずっと変わらない真っ直ぐな瞳で私を見ながら。

「桜が咲いたらお花見しよう」

「ふん、気忙しい奴だ」

「夏になったら湖に行こう」

「左近と行け」

「秋になったら紅葉狩り」

「刑部と行け」

「冬になったら」

「……」

「来年の冬も沢山雪降るかな」

「知らん」

三成に馬乗りにったままの私はぺたりと薄い胸板に額を押し付ける。案の定あたたかくはなかった。なんとなく私の言わんとしていることを察したのか、三成は邪険な態度を取らずにいてくれた。

「寒いよ三成」

「さっきからそう言っている」

「あっためてよ」

「火鉢に頼め」

ケチ。呟いて相変わらず熱の抜けた身体に寄り添う。吐いた息のほうがよほどあたたかいぐらいだ。
突然ふわりと身体が宙に浮く。いつまでも動こうとしない私を三成が小脇に抱えていた。細いくせして腕力は人一倍なのだ。

「おい、貴様本当に重たくなっているぞ」

「嘘でしょ」

「自己管理ぐらいきちんとしろ」

「そっくりそのままお返しします」

まっさらだった雪原に三成の足跡が続いていく。ひょいと降りて歩き出せば、隣に私の足跡も並んだ。さくさく、さくさくと軽やかな音。聞こえるのはそれだけだった。
そっと三成の手をとる。振り払われはしなかった。ならばと調子に乗ってそのまま腕を絡めたら、少しだけ三成は歩く速度を早めてしまった。

「nameさまー!三成さまー!」

屋敷の玄関が遠くで開き、左近が顔を出す。両手には湯気の立った焼き芋が握られていた。

「焼き芋ー!三成、早く早く」

駆けだした私に半ば引きずられるような体勢になった三成は「走るな、転ぶぞ」と注意する。
どうかこの手がいつまでも離れないように。夜になったら存分に三成をあたためてあげよう。溶け落ちて、混ざり合うほどに。
勢いを増した雪に白く染まりながら、私達は屋敷へと急ぐのだった。

【幾億のしあわせが君とのあいだで溶けていく】
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