2017

煮物、作りすぎたから鉄朗くんのとこ持ってったげて。お母さんに言われて私はサンダルをはいて家を出た。両手に持ったタッパーはまだあたたかい。「明後日までお父さんが出張らしいの」出張とはいえ遠出っていいわねー、うちなんか最後にあの人と旅行したのがいつだったかもう忘れちゃったわ。と心底羨ましそうな顔をしていたけれど、私にはよくわからなかった。いつも一緒にいるのに、特別どこかに出かける必要なんてあるのだろうか。そんなことすら思ってしまう。きっと、大人には大人の事情があるのだろう。私達にも私達の事情があるみたいに。
ピンポンとインターホンを押すと、すぐに鉄朗が扉の隙間から顔を出す。

「サンキュー。おばさんにお礼言っといて」

「うん」

タッパーを手渡すと鉄朗は「ちょっと寄ってかねえ?」と口の端を持ち上げた。「帰るよ、遅くなると悪いし」後ずさりながら視線を泳がせる私の手を鉄朗が掴む。一瞬で体温が上昇した。お風呂あがりだったせいもあって、目眩すら覚える。

「ちょっとだけ。な?」

「ちょっと、だけ、なら」

半ば強制的に私は家の中に連れて行かれた。
私と鉄朗(と研磨)は幼馴染で、そしてつい最近ただの幼馴染から恋人(?!)になった。ずっと平行線だった関係が突然交差したせいで、いまいちどう接すればいいのかよくからない。今までなんの気無しに呼んでいた名前も、肩をひとつ叩くにしても、何もかもに男と女の深い意味があるような気がして私は途方に暮れてしまう。
付き合ったら何かが変わる、そう思っていたのに。確かに変わったけれど、前よりも関係がぎくしゃくしてしまうとは。
だから今日鉄朗のところに行けと言われた時、正直あまり乗り気ではなかった。お母さんだって私と鉄朗が付き合っていると知っていたらそんなことは言わなかったかもしれない。だって愛する娘の貞操の危機ではないか。

「おい、すんげぇ顔だぞ」

「っは?!普通だよ、フツー」

見慣れた鉄朗の部屋。最近は来ていなかったけど、よく宿題をしたり漫画を読んだりしていた。変な方向に考えが行かないよう、ありったけの記憶を引っ張りだして頭をいっぱいにする。「おばさんの筑前煮うめーよな」とかなんとか鉄朗が言っているけれど、その言葉はどこか遠くで私ではない誰かに言っているように聞こえた。

「いつまで立ってるわけ」

「あ、いや、やっぱ帰るよ。課題途中みたいだし」

ベッドの前においてあるローテーブルの上に無造作に開かれた参考書を見ながら言う。あはは、ごめんね、タッパー適当に洗っといてくれればいいからね。早口でそう言って「じゃ!」と片手を挙げれば、鉄朗は怒ったみたいな顔になる。

「お前なんなの?俺のこと避けすぎ」

「避けてなんか……」

「ない?」

真上から威圧的な視線を感じて口を噤む。避けている。ああ避けているさ。

「……ごめん」

「いや、謝られても困るし。つかなんで避けるわけ?俺なんかしたか?」

はぁーと溜息をついた鉄朗は頭を掻きながら私に訊く。そんなのはこっちが聞きたいよ。

「何にもしてないよ。ただ私が、」

あれ、おっかしいなぁ。付き合いたてのカップルってもっとこう幸せオーラで眩しいぐらいなはずなんだけどなぁ。こんなんだったら付き合わないほうが良かったのかもしれない。爪先を見つめていたら段々と悲しくなってきた。

「私、どうしたらいいのかな」

鼻にかかったような声になってしまった。涙が出そうになって、慌てて上を向けば鉄朗が見たこともないような顔をして私を見下ろしていた。

「どうって、」

そう言いかけた鉄朗に、おもむろに抱きしめられて視界が彼の着ているスウェットのグレーに染まった。「俺にこうされてればいいんじゃねーの?」意地悪にも照れ隠しにも聞こえる言い方。あまりにも突然すぎて私は呆気にとられてしまう。知っているのに、知らない鉄朗。体温や筋肉質な身体、すぐ耳元で聞こえる呼吸の音。
こんなのは反則だ。こんな、いっちょ前に男みたいな鉄朗は反則だ。
体中の力が抜けて床にへたり込んだ私を離さないまま鉄朗も腰を下ろす。そしていとも容易く私の体を脇で支えると、軽々と反転させて向かい合わせにしてしまう。

「顔、見せろって」

べちんと両頬を手で挟まれたかと思えば無理矢理上を向かされる。きっとひどい顔をしているに違いないからできるだけ抵抗してみたけれど、どうやら無駄なあがきだったらしい。こうなればもういっそ停電にでもなればいいのに。

「やだ!恥ずかしいから見ないでよ」

「うわなにソレ、ちょーエロいセリフなんですけど」

「ばっ……か!」

意図せず恥ずかしいセリフを吐いてしまった私をからかう鉄朗は、けれど急に真面目な顔になって口を閉ざしてしまう。暫く何かを考えるような素振りをしたあとで「あのなぁ、」と喋り出した。

「俺はnameとエロいことだってしたいわけ。お前のこと好きだから」

「んな……」

「いや、わかるよ、お前の気持ちもなんとなく。けどnameだってそうなんじゃねーの?ただの幼馴染じゃ嫌だったから、オッケーしてくれたと俺は思ってんだけど」

「いえ、はい」

いつになく真剣な表情で核心を突いてくる鉄朗。彼の言うとおりだ。仲がいいだけの幼馴染じゃもう満足できなくて、その先に行きたかった。私は鉄朗のことがきっとずっと好きだったんだと思う。でも居心地のいい関係を失うのが怖くて、友達のままでいようと必死に自分の気持に気が付かないふりをした。友達なら、ずっとそうでいられるから。嫌いになったりさよならしたり、悲しい思いをしなくて済む。
つまるところ私は臆病者なんだ。

「多分、好きだから、どうしていいかわからないの」

「……」

「避けたりしてごめん」

「キスしてくれたら許す」

えっ。さっきまでの真面目な顔はどこへやら。人を挑発するようなあの目をした鉄朗が私を見つめている。私がそんなことできるわけないってわかってるのに。

「無理」

「おい!」

「今は、無理」

瞼を伏せれば溜息が聞こえてくる。溜息をつかれたところで無理なものは無理だ。適当にその場凌ぎで言葉を濁すと、反応する間もなく唇を塞がれた。私の初キスが。もうちょっとロマンチックにと願うのは贅沢だろうか。
あったかい。それだけが頭の中に浮かんでいた。もっと思うことはあってもよさそうなのに。

「……っ、ちょっ、と!」

「貸しイチな」

貸しも借りもあってたまるか!と思ったけれど、うまく声が出なかった。あぁ、でももう少し、いやもう一回キスしたいなぁ、なんて。だって10何年も一緒にいて、沢山のことを一緒に経験してきたのにキスは初めてなんだから。

「もっかいするならお前からな」

にやり。笑った鉄朗は「お前のことは全部お見通しだ」とでも言いたげナ表情をしていた。なんて嫌なやつなんだ!それでも好きなんだから仕方がない。

「いや、しないけどね」

「しろよ」

「しないよ。ほら、早くご飯食べて課題やんなよ」

テーブルの上の課題を指差す。「お前そんなにツンデレだった?」と首を傾げている鉄朗の腕の中から抜けだして、大きく静かに深呼吸をした。もうきっと、大丈夫。

ひんやりとした廊下を抜けて玄関のドアを少し開ければ真冬の寒さが肌に痛い。身震いすれば抱き寄せられて、私は思わず安心してしまう。さっきまでのぎこちなさが嘘みたいに、私は体重を鉄朗に預けつ寄りかかることができた。
開けかけたドアを閉めて私達は向かい合う。

「おやすみなさい」

「また明日な」

頭をぽんぽんと叩かれる。これまで何度もされてきたけど、今日のは重みが違う気がした。
私が斜め向いの自宅の扉を開けるまで、鉄朗はちゃんと見ていてくれる。そうして私達は、もう一度小さく手を振った。

【生まれてからずっと爪は研いである】

(本当はずっと昔、幼稚園の時にお前は俺にキスしてくれた。お前は絶対に覚えていないだろうから言わないけど。言ったら貸しイチ、できねーし。それはさておき、借りたもんは早く返さないと大変なことになるぜ、なぁnameチャン?)
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