2017

(PCサイトより再録、加筆修正)

全身がだるくて仕方がなかった。
夕食をとる気もおきず、帰宅してから窓辺に寄せたソファの上で膝を抱えてぼんやりとしていればあっという間に夕暮れだった。灯りをつけるのすら億劫で、窓ガラスに頬を押し付ける。
蜉蝣が一匹いることに気が付いた。
つやつやとした透明感のある薄緑の身体、吐息にも震えるほど薄い翅。髪よりも細い脚は、もげてしまったのだろうか。一本足りていなかった。よろよろと足音もなく歩きながら、硝子に脚をかけては滑り落ちる。その繰り返しを飽きもせず眺めていたけれど、私はふと、今にも死んでしまいそうなこの生き物が急に恐ろしくなる。慌てて窓を少しだけ開け息を吹きかければ、それはあっという間に外の世界へ消えていった。
わざと窓を荒々しく閉める。外の空気は吸いたくなかった。どこかで立ち昇る誰かの灰を吸ってしまいそうな気がして。

今回の壁外遠征の結果も惨々たるものだった。調査兵団全員が討伐した巨人の合計数よりも、巨人に喰われて死んだ仲間の数が上回ってたことなど数えるまでもない。圧倒的な力の差に、調査兵団は時を待たずして再び壁の中へと戻って来たのだった。
腕の中で失われていった体温と、肉を抉る感触がまだ手に残っている。怒号、悲鳴、断末魔。それらが薄い膜の向こうから聞こえてくるような、不思議な感覚。いつだってそうだった。皮膚を一枚隔てた向こう側で起こる事象の全ては、自分には無関係だと思っていた。
他人もそうなのだと、思って疑わなかった。けれど、人々は失われた命の為に泣き、戦っていた。
お前はどうして調査兵団を志望した。分隊長に訊ねられたとき、私は何と答えればいいかわからなかった。憲兵団に入ることもできた。駐屯兵団だってよかった。新兵勧誘式のときに、ひとり、またひとりと去ってゆく同期たちを見送りながら、何故だか私はその場から動けずにいたのだ。ここでなら、この漠然とした己の不合をどうにかできるのではないかと思ったのかもしれない。
生まれて初めて目にした巨人にはじめのうちはたじろいだ。けれど、やはりそれは向こう側の出来事でしかなかった。他人と自分とでは異なる光景が見えているのではないかと疑いたくなるほどに、巨人の動きは自分の目には愚鈍に映った。したがって彼らを討伐することは容易く、私は異例のはやさで出世した。配属されたミケ分隊長の元で、私は訓練生の時と同様にただ何となく日々を消化していた。
横に並べた机に向かってペンを走らせる。団長からの伝達事項は山ほどあったし、各小隊への指示も早急にまとめる必要があった。

「name、あとどれぐらいかかる」

「夕方までには終わります」

羊皮紙から顔をあげずに答えれば、そうかと頷く気配がした。

「飯でも行かないか。奢るぞ」

ぼそりと彼が口にした言葉に、私は思わず顔を上げる。

「私と食事なんかしても楽しくないと思いますけど」

「あー……」

困ったように眉を下げた分隊長は何やら思案顔で顎髭をいじっている。

「奢るというのは冗談で、たまには料理でもしようかと思っただけなんだ。いや、すまん。忘れてくれ」

「分隊長、ご自分で料理なさるんですか」

「ああ、まぁ、趣味の程度だが」

「へぇ……」

意外だった。分隊長の手をちらりと盗み見る。あの無骨で大きな手が包丁を握ればさぞかし様になるのだろう。
結局、誘われるがまま彼の手料理をご馳走になることになった。分隊長は兵舎にも部屋を持っているけれど、それとは別に個人的な住まいも持っていた。兵舎からしばらく行った場所にある、路地裏のひっそりとした集合住宅の一角。
適当に座って待っていてくれ、とだけ言うと彼は手際よく野菜を刻みスープを作り、パスタを茹でた。あっという間に家の中はバターだとかニンニクだとかの食欲をそそる香りでいっぱいになる。
いれてもらった紅茶をすすりながら、そのあたりに置いてあった新聞をめくる。明るいニュースなどなく、失敗した前回の壁外遠征の責任を早急に追及すべきである、という記事がでかでかと載っていた。花屋の広告、誰それの家に強盗が押し入った、地下街から逃げようとした男が捕えられた。どれも明日には忘れてしまいそうなニュースばかりだった。

「name、すまんがスプーンとフォークを並べてくれないか」

鍋に向かったまま顔だけをこちらに向けて言った分隊長の言葉に、私は手にしていた新聞を折りたたむと立ち上がって彼の隣に立つ。
かまどに掛けられた底の浅い鍋の中ではクリームソースが乳臭い甘い香りを放っている。ゆで上がったパスタを鍋にあけ、軽くクリームソースと和えて皿に盛る彼の手つきは慣れたものだった。
テーブルを拭きカトラリーを並べて席に着いた私の前に皿が置かれる。グラスと水の入ったピッチャーを手にした分隊長が私に食べるように促すので、失礼して先にフォークをとる。平打ちの麺に程よく絡んだソースからは仄かにチーズの香りがした。

「お、いしい……」

「それはよかった」

お世辞なんかではなくそれは本当に美味しかった。口に入れた瞬間、クリームソースがゆるりと解けて舌の上に広がってゆく。麺は噛めば噛むほど大地で育った力強い小麦の味が増し、口内に満ちている香りと混ざり合って喉元を滑り落ちてゆく。舌に残る乳製品特有の臭みも全くなく、甘やかな余韻だけが舌の付け根でいつまでも揺れていた。
分隊長はほっとした表情を浮かべると、フォークにパスタを巻き付けて口に運んだ。特に話すべきこともなく、かちゃかちゃとカトラリーが皿に当たる音だけが響いていた。あっという間に食べ終わった私たちは皿を洗ってソファに並んで腰かけていた。元々口数が多くない二人が並んだところでなにか面白い話ができるわけでもなければ、気の利いた話題でこの沈黙を打破できるわけでもない。ちびちびと酒を舐めながら、それでも感じるのは不思議な居心地の良さだった。
他人の傍にいて不愉快ではないことがあるのかと不思議に思いつつ、満腹感と蓄積した疲労によって瞼が重たくなる。静けさも相まって、ついうとうとと舟をこいでいる私に気が付いた分隊長が口を開いた。

「兵舎まで送っていこう」

「大丈夫です、自分で戻れます」

「俺から誘ったんだ。時間も遅くなってしまったし、夜道は危ない」

「ほんとうに、大丈夫ですから」

そう言って立ち上がった私の手を分隊長が掴もうとする。反射的に身を引いてしまった。触れられるのは、苦手だった。
すまん。申し訳なさそうにして手を降ろした分隊長に私はぼそぼそと謝った。ペンを握り、刃を握り、そして包丁を握る彼の手。その思わぬ温もりの気配に、私と世界の境界線が揺らいだ気がしたのだ。

「俺も兵舎に戻ることにする。どうせ明日も早いんだ」

「……そうですか」

律儀にも扉を開けてくれた分隊長と並んで夜道を歩く。月がやけに明るかった。

「分隊長があんなにお料理上手だったなんて、知りませんでした」

「意外だったか?」

「それは、まあ」

男の独り身、しかも基本的に兵舎に住んでいる団員には食事が付くので自炊をする必要はない。だから彼があんなにも美味しい料理を作ることができるなんて思いもよらなかった。

「エルヴィンには気持ち悪いと言われるがな」

小さく肩を竦めた分隊長がちらりと私の顔を覗き込んだ。
細い路地から野良猫が一匹出てきたかと思えば、まっすぐに尻尾を伸ばして悠然と私たちの前を横切って去ってゆく。丸々と太っている猫はもしかしたら、調査兵団の下っ端たちよりもずっといいものを食べているのかもしれない。そんなことを思った。
春先にしてはあたたかな夜だった。ぬるい空気をかき分けるようにして、短い距離を私たちは歩いた。やはり会話はほとんどなかったけれど、強迫観念にも似た「空白を埋めねば」という焦りは生まれず、私はたっぷりと夜の濃い空気を味わいながら歩くことができた。

「ご馳走になった上に送っていただいて、ありがとうございました」

「いや、こっちこそ無理矢理誘ってすまなかったな」

「無理矢理だなんて、そんなこと……」

それ以上口にするべき適切な言葉が見つからず、曖昧に口を開いたまま私は深く頭を下げた。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

踵を返した分隊長の背中を見送る。広い背中だった。
その日から、分隊長は壁外遠征があるたびに私を食事に誘うようになった。彼の作る料理はどれも私の口に合った。勿論、私だけでなく誰が食べても美味しいと感じるであろう腕前だった。何度ふたりきりの食事会を重ねても、私たちの口数は増えもせず、かと言って減りもしなかった。互いに無理に話題を作って話すこともしなければ、尻切れになった会話の続きを迫ることもしない。
食事をして、酒を飲んで、再び兵舎に二人で帰る。それだけだった。雨の日もあれば晴れの日もあった。酷く憂鬱な日も、幾分かはましな気分の日も。季節は移ろい、壁の中の空気は流れていった。変わらないのは私達だけだった。
平行線の心地よさ。関係の変化がもたらす終焉。私が恐れたのは「習慣」だった。はっきりと言葉に出して言ったわけではないけれど、この食事会は確実に私と分隊長との間で習慣になっていた。
終わりがくることが怖かった。彼が死ぬか私が死ぬか、はたまた彼に恋人ができて終わるのか。何ともいえないこの居心地のいい時間が、自分の関与し得ない要因によって幕引きとなってしまうぐらいなら、いっそこの手で終わらせてしまいたかった。
不可視の膜に守られた自分だけの世界の外側に、寄り添うようにして存在する分隊長の体温を私は知ってしまった。干渉することは無いというのに、その熱は私の皮膚に張った膜を緩やかにとかすのに十分だった。
触れてみたいと思う気持ちより、触れたことで変わってしまう世界の未知に恐怖して、私はいつもついうっかり彼に触れてしまわないよう、手に力を入れておく必要があった。
感情の墓標を幾つも手折って、私はその上に横たわる。耳を塞ぎ、目を瞑り、口を紡ぐことでしかうまく生きることができないから。誰の手も届かない、いかなる光も届かない、奈落の底のような最果ての場所で。
無理矢理に小さくした身体を丸めて、頭上より降り注ぐ光から目を逸らしていた。そうすれば、世界は私に優しかった。ながらく身じろぎしなかったせいだろうか、私の肌の上に薄っすらと積もった埃はやがて半透明の被膜になった。そしていつしか、私は世界を「外側」に感じるようになったのだ。

「分隊長」

「なんだ?」

「どうして料理なんてしようと思ったんですか?」

ワインの入ったグラスを両手で包みながら訊ねれば、分隊長はグラスをサイドテーブルの上に置いて顎に手をあてる。

「何故、か」

しばらくの沈黙。
この部屋は夜の気配が濃すぎる気がする。押し潰されてしまいそうなのだ。隣にいる男に寄り添えと告げる夜の闇。私は聞こえないふりをする。

「そういえば、nameが調査兵団に入った理由をまだ聞いていなかったな」

「……その話は関係ないですよ」

「そうか?」

「はい」

右隣に座る分隊長を見上げる。
その瞬間、彼の瞳が月明かりを受けて僅かなきらめきを放った。私は息を詰める。見てはいけないものだった。
その光は、私の深淵の底を照らす。
慌てて目を逸らした私を不思議に思ったのか、分隊長が身体を屈めて私の顔を覗き込む。彼の肌が放つ熱を感じて、私はほとんど泣きたい気持ちでいっぱいだった。これ以上は、だめだ。

「どうした?」

触れられた。
手にしていたグラスが床に落ちて鈍い音をたてた。床に赤い染みが広がっていた。
皮の厚い、水分の少ない手の平は私の手首を軽々と包み込む。音もなく、私と世界を隔てる境界線が溶け落ちる。手の甲を薄く覆う柔らかそうな体毛に視線を注いだ私の身体は、完全に運動機能を停止していた。
鮮烈な感覚。正しい世界がどっと肌の内側に押し寄せてくる。

「あ、の……手、」

声が震えないようにと努めたにもかかわらず、私の口から出たのはひどく弱々しく掠れた音だった。

「触れられるのは、嫌か?」

「……え、……あ、」

「すまん、訂正だ」

そう言うと分隊長は手に力を込めて言葉をつづける。

「俺に触れられるのは、嫌か?」

なんと答えるのが正解なのだろう。なにも考えられなかった。ただ、触れた部分が異常なまでに熱を持っていた。手首から先が熱で溶け落ちてしまうのではないかと錯覚するほどに。
知りたくはなかった。他人の熱なんて。知らなければ、ひとりで生きてゆけるはずだった。
私を包む膜は厚みを増して、私を傷つけるありとあらゆる出来事から守ってくれると信じていた。ありのままの世界を失うことと引き換えに、私は私を守ろうとしていたのに。意識的だろうが無意識だろうが、それが私の生きる術だったのに。
分隊長が目を伏せる。睫毛の上で、鱗粉のように細かな月光が跳ねていた。
依然として掴まれたままの腕。私が、融解してゆく。

「私は、」

「お前はなにを恐れている?」

「……い、や。……いやっ!」

叫ぶようにして腕を振り払ったはずなのに、どうして私は抱き締められているのだろう。あたたかくて、それはもう驚くほどにあたたかくて。
気道が焼けてしまったかのように呼吸が上手くできなかった。喘ぐようにして分隊長の胸元から顔をあげれば、すぐそこに彼の顔があった。鼻先が触れる。私はもうどうしていいかわからなかった。微かな筋肉の動きや、呼吸の音、湿った森のような香り。彼を構成する全てが、私の中になだれ込んでくるのがわかる。
これまで私が大切にしまってきた何かを、必死になって背中に隠す。それにだけは触れないでいてほしかった。なにがあっても守らねばならなかった。
混乱して定まらない私の視線を、分隊長はいとも容易く捕まえてしまう。
まっすぐに注がれた光は私の何もかもを通り抜け、深淵に蹲る少女へと注がれていた。怖がりで、泣き虫で、寂しがりやな少女。彼女は届いた一筋の光に伏せていた顔をゆっくりと上げると、やわらかな頬をほころばせ、微笑んだ。
涙が頬を伝っていた。私たちは唇を合わせる。触れるだけの口付けだった。

「name、」

「どうして、こんな、」

もはや溢れ出す涙を押しとどめることは不可能だった。自分の意思に反して次から次へと溢れ出す涙は、私のこれまでの人生で流されるはずだった涙なのかもしれない。そんな風に思った。
胸板に濡れた頬を押し付ける。カーキ色をした柔らかな肌触りの分隊長のシャツは私の涙で熱く湿り、吐き出した息が腕の中でわだかまっていた。
name。名前を呼ばれても、顔を上げることができなかった。無駄な抵抗だとわかっている。既に私の中の少女は光を知ってしまったけれど、それでもまだどうにかできると私自身は足掻かずにはいられなかった。
彼の腕を振りほどいてでも逃げなければいけないと思っているのに、身体は全く動かなかった。
まるで、ここでこうしていることを望んでいるとでもいうかのように。
なんと残酷で単純な願いなのだろう。隔てられた歪んだ世界と暗闇から抜けだして、その先に待っている結末なんて考えるまでもなく絶望なのに。
分隊長が私の背中をさすっている。厚みのある手は、ずっと昔、遥か彼方の記憶を呼び起こす。優しい記憶だけを集めて心の片隅に作った陽だまりのような場所。意図的に片隅に押しやっていたのに、彼の手によって真ん中へと引きずり出されてゆく。
喉が熱くて、胸が苦しくて、頭は思考を失っていた。いつの間にか、彼の背中に腕を回していた。考えもなしに自分から誰かに触れたことなど、今まで一度もなかったというのに。
でも、私はちゃんとその方法を知っていた。
これまで自分を覆っていた被膜が消えたことで私は発熱し、私を抱く彼にこれでもかというほど乱暴な熱をぶつけていた。それはほとんど暴力であった。けれど彼はそれにひるむことなく、恐るべき辛抱強さで私を抱きしめつづけていた。
この部屋の濃密な空気は時の流れを遅くする。丁寧に、目の前の物事と対峙するために流れるゆっくりとした時間。
彼の臆することない態度はまるで大木であった。陽射しにあたためられた大木の洞の中にいるような気分だった。ひっそりとした森は彼そのもので、ちょうど真ん中あたりに開けた円形の広場に立つ大きな木。その周りには色とりどりの花が咲き、鳥たちが囀り、動物たちが時折やってくる。火照った瞼の裏にそんな光景が浮かんでは消えた。

「どうしたら、お前をその場所から連れ出せるんだ」

身体が離れる。私たちの間にあった熱がすうっとほどけていった。俯いていると、頬に手がそえられた。力なく頭を振ればもう片方の手もそえられて、両頬を包まれたまま分隊長を仰ぎ見る。長めの前髪の隙間から、深みのあるとび色の瞳が私を見つめていた。まばたきをするたびに眦から涙が零れ落ち、彼の手の平と私の頬の隙間に吸い込まれていく。

「連れ出してなんて、欲しくなかった……」

絞り出すように言う。分隊長は眉を下げて悲しそうな顔をした。無干渉を貫いてきた彼が均衡を崩したことについて、責めるつもりは微塵もなかった。いや、違う。彼の無干渉に甘えていたのは私の方なのだ。責められるべきは私なのだろう。
私はもう悲しみたくないし、誰も悲しませたくないのだ。

「……迷惑だったか?」

怒りも悲しみもない、静かな声だった。

「そんな顔、しないでくださいよ」

また一筋、涙が流れた。分隊長のかさついた親指が、そっと涙を拭ってくれる。
迷惑だなんて、どうして言えようか。
なにも言えずに小さくしゃくりあげている私を見つめる分隊長の瞳の中で、夜の星たちが瞬いていた。ゆっくりと近づいてくる彼の唇を拒む術などなかった。触れるだけのキス。微かな体温の余韻だけを残して唇は離れた。

「好きだ」

name、好きなんだ。
繰り返して囁く分隊長の目は相変わらずひっそりと優しい。
拒み続けていた傍ら、欲しいと望み続けていたもの。漠然とした形而上の願いが、いまはっきりとした輪郭をもって私の中に在るのだった。

「分隊長……」

「返事が聞きたいわけじゃない。俺がそう思っているということを、ただ伝えたかった」

「ずるいですね」

それが彼のやさしさだということはわかっていた。内側から私を突き動かす不可抗力の衝動のまま、彼の中に沈み込む。衝動というにはあまりにも頼りない力であったけれど、彼の中に満ちている静かな水は確かに波紋を作った。そのさざ波に耳を澄ます。ひたひたと淵を撫でる透明な水はやがて静寂を取り戻し、あたりはしんと静まり返る。

「帰したくない」

「ひどい矛盾じゃないですか」

「だとしても、だ」

答えはいらない、でも離したくはない。隔たりの向こう側にいた彼は私が思っていたよりも子供だった。
暗闇の底から抜け出せなかったように、きっと私はもうこの腕の中から抜け出すことはできないだろう。
そして、終わりを思う。私の身体の外にある安寧の場がいつか誰かの手によって奪われる日を。このあたたかな腕の中にいたとしても、その思いは背筋をすうっと冷たくするのだ。決してひとつにはなれないのだと。
おまえは永遠にひとりなのだ。
どこかから声が聞こえた気がした。
愛らしい、少女の声だった。
月明かりに照らされたミケのグラスの中で、ワインが赤く浮かび上がっていた。霞のような雲が満月を隠す。初めてここに来た日から何度月は満ち欠けを繰り返しただろう。満ちることも欠けることもなかった、私の中に浮かんでいる白い月。清廉な月光の祝福は呪いにも似ていた。
こうなることが予定調和なのだとしたら。きっと私は運命を憎む。知らなくてもいいことだった。けれど生身の身体は、自分以外の肌のぬくもりを知ってしまった。
失われた闇の跡地を背にして立つ私にのばされた手。その手を取るほかに、どうやってこの世界を生きてゆけばよいのだろう。

「お前はひとりじゃない」

「……っ、」

鼓動が、一瞬停止した。
過去も現在も、私のなにもかもを、見透かされているような気がした。
あどけなく笑う少女が、光の粒を纏って消えていく。目を凝らせば光の粒はかつて私を包んでいた羊膜だった。
踏み出す一歩はあまりにも大きく、彼の助けなしに歩けそうもなかった。真新しい世界は私を容赦なく痛めつけるだろう。けれど、彼も同じように傷ついてきたのだ。とび色の瞳の裏に悲しみをしまい込み、ゆっくりと身体の中で堆積してゆく感情はやがて腐り落ちて彼のやさしさの糧となる。深い森の、湿った腐葉土のように。
触れた場所から彼の優しさが私の中へと流れ込む。好きだとか、愛しているだとか、込み入った難しいことはわからないけれど、ただ一緒に生きたいと、そう思った。追憶の雫は未だ尽きず、はたはたと彼の指を濡らす。

「もう、ひとりにしないで」

「ああ、もちろんだ」

頬と頬を重ねる。やわらかな髭の感触に肩を竦めれば、僅かに彼の口の端が持ち上げられた。遠くの方で吼える犬の声が聞こえてきたかと思えば、唇を食まれて私は身体をこわばらせた。それでもまだ、怖いと思う。
大丈夫だ。吐息半分に言う彼の声は掠れていた。何度も繰り返しながら唇を啄む分隊長の腕にしがみ付く。離さないでほしかった。
上唇と下唇を交互に、そして顎にそっとかぶりつくように。彼の唇は自在に、けれど控えめに私の肌の上を動き回る。瞼を伏せれば、そこにさえ唇が押し当てられた。
夜が明ける前に彼の腕で手折られてしまいたかった。もうきっと、これまでのようには生きてゆけない。

「分隊長、」

殺してください。言いかけた言葉は塞がれた唇に奪われた。失う恐れを知って、これ以上戦える気がしなかった。かといって、普通の少女のように生きてゆけるはずもなかった。彼と共に生きたい、そう願うのと同じほど強く彼の腕の中で死にたいと願った。
この夜、新しい世界に生まれ落ちた無傷で美しい心のまま。そうすればきっと、永遠の幸せの中で私は「生きて」ゆけるだろうから。
重なった唇から、心が滴り落ちる音がした。




大丈夫だ。それは彼の口癖だった

また会えるさ。


「ひとりにしないって、言ったのに」

まだ彼のぬくもりが消えない身体を両腕で抱く。鈍色に濁った空。曖昧な夕暮れに部屋が満たされてゆく。火の入っていない竈は寒々しい灰を残し沈黙していた。ミケ。呟いた名前は震えながら静寂に消えた。残ったのは思い出だけだった。
それ以上はもう何もいらなかった。あの手を失って、これ以上歩いてゆけるわけもなかった。お互いに何かあったら、という仮想の話を私たちは一度もしなかった。する必要もなかった。
肉体の消失は存在の消失ではないと、いつだったか彼は言っていた。「目に見えるものが全てではない。わかるだろう?仮に肉体が損なわれたとしても、それはただ網膜に映らなくなっただけのことだ」そこまで言うと一呼吸おいて続ける。「たとえば俺とおまえが離れた場所にいるとして、俺にもお前にも互いの存在は目視できない。だが存在自体は消えていない。つまり肉体が失われたとしても俺たちは互いを感じ合うことができる」そういうことだ。はは、と照れくさそうに笑ったミケの腕の中で私はなんと言ったのだろうか。
――入れ物に過ぎないんだよ。
胸の中でミケが言う。私はその声に耳を澄ませる。私の中に満ちた水がさざ波を立てる。
――もう泣かなくていい。
穏やかな声がどこからか日響き、私の身体の中で木霊した。
確かに残った記憶と痛み。あの日、悶えるような痛みに心を掻きむしった。血まみれになった心からはなおも血が噴き出した。とめどない赤だった。そして私におとずれたのは穏やかな静けさだった。それはまるで、この部屋そのものだった。
窓ガラスに寄りかかり頬を押し付ければ、ぽってりと熱をもった頬に冷たいガラスが心地よかった。
遠く向こうで、白い煙が一筋空に向かって昇っているのが見える。

「また、会えるね」

私は、ゆっくりと瞼を閉じる。
鮮やかな、暗闇。

【ゆっくりおいで、転んでしまうから】
(20150405)
- ナノ -